舞鶴要塞司令官時代のイラスト

杉野はいずこ~満洲であります!~

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「旅順港閉塞作戦」は失敗に終わりましたが、帝国海軍は「軍神」を一人産み出し、「目的外」の艦隊決戦にも勝利して世界の大海軍へと成長していきます。

満洲は誰のモノ?

広瀬武夫少佐は、その勇気ある行動から戦死後中佐に進級し「軍神」と讃えられ、各地に銅像が立てられました。

日本海海戦の見事な勝利と相まって、「軍神」の壮絶な戦死と部下への深い愛情は国民の間に「海軍人気」を呼び起こしました。
国民に人気があるって事は、予算獲得で海軍を有利にしたばかりではなくて、志願者が増える事によって海軍全体の錬度も向上することになります。

広瀬武夫と閉塞隊員

広瀬武夫と閉塞隊員

そのためばかりではないでしょうが、行方不明となった杉野上級兵曹も戦死認定で兵曹長に進級させてもらい、遺族には勲章(功六級金鵄勲章と勲六等旭日章)と増加年金が贈られる事になりました。

杉野上級兵曹の遺児二人も父親の遺言(「私の戦死後は息子の内一人は広瀬を頼って海軍に入れよ」)に忠実に海軍兵学校へ進み、エリート士官の道を歩み始めました。

日露係争の地となった満洲は、鉄道の権利などをロシアから譲り受けた大日本帝国が勢力を徐々に扶植していきますが、大半の土地は未だ清国領。

やがて辛亥革命で清は倒れ、満洲は「無主の地」になります。清朝を引き継いだ「中華民国」は満洲の領有も引き継いだつもりのようですが、もともと満洲は清朝の支配階層であった女真族の故地。

公試運転中の薩摩

公試運転中の戦艦「薩摩」明治43年

辛亥革命はこの女真族をChinaから追い出す活動の一面もあります。歴史的に満洲は支那人の土地ではありませんから、支那人の専制権力となった中華民国に満州を支配する権利などが、ある筈も無いのです。

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さらに、支配権を主張しながら、中華民国は満州の治安を維持する実力を持ちませんでした。辛亥革命後の満洲は支那人軍閥(清朝の地方役人あがり)や山賊・馬賊が跳梁する無法地帯になってしまったのです。

そんな地域で、唯一普通の人が普通の生活を、安心して営める場所がありました。それが「満鉄付属地」です。
鉄道付属地と言うのはロシア人が発明した(と思われる)システムで、鉄路や駅などの沿線を一定の幅で区切り、その範囲で鉄道の利権国の行政権を認めるモノ。
人数の制限はありましたが、兵隊さんが駐留することも認められていました。

まあ、日露戦争後の満洲地域って言うのは、そんな混沌の大地でありました。でありますので、満州事変から満洲国成立を「大日本帝国の侵略」と考えるのは全くの間違いであります。

満州事変は女真族の土地を、支那人から取り戻してあげただけ。

当時の満洲には女真族・蒙古族(清の建国にあたり、女真を助けた同盟者)・朝鮮族(清の統治下、「禁足地」だった満洲に流れ込んでいた)・漢族(支那人/貧しい農民もいました)と大日本帝国の国民が入り交じって暮らしていましたが、歴史的には「女真族の土地」ですからね。

杉野孫七は生きていた!?

時は一気に大東亜戦争の終結後に飛びます。昭和21年12月1日付の朝日新聞にこのような記事が掲載されました。

昭和21年10月21日に佐世保に引揚げて来た福井県武生町平出出身の元羅南師団の軍属であった神川房治氏と神川氏の小隊長であった森川章氏によると、錦西の収容所で内地への帰還が決まった日に、大隊長の佐久間節曲氏と中隊長の杉山俊氏から聞いた話として、杉野と会ったということを知らされたという。

杉野は「旅順港に向う途中砲弾のために閉塞船福井丸のデッキからはねとばされ海中に転落、波に流されているうち中国人に救われた、帰りたくとも内地では余りに英雄扱いしているので帰ることもならず、中国人になり切って生活していたが、時代が変った今なら帰れると思ってやって来た。」と語ったそうだ。更に杉山氏の話によると、杉野兵曹長はすぐにでも後続の復員船で内地に帰る、と言っていたとのことだった。

一方で朝日新聞の記者が、杉野の長男で元海軍大佐の杉野修一氏(前回書きましたように敗戦時の「長門」艦長)を三重県川辺郡栄村(杉野の実家)に訪ねています。この頃はバカヒ新聞も「ウラ」取りに行ってたんですね(笑)フェイク新聞にも一寸の魂ってか。

香港訪問時の長門

香港訪問時の戦艦「長門」

ただし、この時は修一元大佐の富美夫人がこの生存説を真向から否定したそうです。修一氏も信じられないと言い、「父親の存命を願いたい気持ちはあるが俄かには肯定出来ない」と語尾を濁した、と言うのがバカヒの記事。

皆さん、何か奥歯にモノが挟まった感じがしませんか?
修一氏の奥さんの否定?
今、私たちはちょうにち新聞の嘘つき体質を知っていますから、捏造の臭いをハッキリと嗅ぐことができます。バカヒ新聞なら何でも疑ってかかる私の悪癖でしょうか。
戦後すぐの人は騙されたんだろうなあ。

私には、杉野修一元大佐が父親と連絡を取ってた様に思えるんだけど。

大分合同新聞の記事にも『杉野兵曹長が生存、満州の収容所で引揚邦人の世話』というものがありました。

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その記事の大意は
「杉野は旅順港口では死なず、生存していて満州の某収容所で引揚げ邦人の世話をしている。既に76才になっており、頭もすっかり禿げて身体も衰弱しているが、生きていた。
旅順港閉塞作戦のおり、身近で炸裂した弾丸のため船から海中にはね飛ばされて漂流し、やがて中国人に助けられた。
その後、中国人に交じって生活をしていたが、日本では名誉の戦死者あるいは英雄視されているので、いまさら帰国もならず、そのまま44年間淋しく暮らしてきた。しかし、次の引揚船で帰国するらしい」

まあ、朝日の記事と大差はありませんね。

この二つの記事で私が一番重要な点だと思うのは、「砲弾・弾丸によって海に跳ね飛ばされた」との記述です。

杉野は雷撃されて身動き出来なくなった閉塞船「福井丸」を速やかに自沈させるべく、広瀬少佐の命で「船内」に入りました。
自爆用の爆薬に点火するためです(キングストン弁を開いても沈むのに時間が掛かります)。

船内に入った、甲板上にいるワケでもない杉野が海に吹き飛ばされるモノでしょうか?

でも、そうなると杉野のじいさんは生きてない、って事になってしまう。ウウッ…。

戦前から

実は満洲の地では早くから「杉野生存」は半ば公然と語られていたようです。その中でももっとも無さそうで、もっとも興味を引かれるのは「甘粕機関で働いていた」と言うモノです。

甘粕正彦(憲兵大尉)とは、関東大震災の混乱にまぎれてアナキスト大杉栄と妻の伊藤野枝、および甥の少年を殺害したとされる人物です(これについては、いろいろ考えなければいけないことがありますが、別項に譲ります)。

甘粕正彦

甘粕正彦

甘粕はこの事件により短期の刑に服しますが、フランスに留学(陸軍が費用を出したみたいです)後、昭和5年に満州へ渡って、奉天の関東軍特務機関で情報・謀略工作を担当するようになります。

その後右翼の大物、大川周明の助力を受けて「甘粕機関」という民間の特務機関を設立。満洲の麻薬密売を取り仕切り、数々の謀略を実行したとされています(事実かどうかは、私にはまだはっきり言えません)。表向きには「満映」の理事長さんですけどね。

杉野孫七は、その甘粕の特務機関に所属していたというのです。

従軍看護婦の田島竹女さん(実際は特務機関で働いていたらしい)は甘粕に「珍しい人物に会わせてやろう」と言われ、昭和19年頃に新京郊外の満州人の家で杉野に会ったそうです。

田島竹女さんの会った杉野兵曹長は背の低い小柄な老人だったとのことです。田島さんの聞いた話だと、杉野兵曹長は

「旅順港閉塞作戦の後、ロシア側に救助されて捕虜になったが、ポーツマス条約の締結後に釈放された。
一旦帰国しようと釜山に辿り着いたものの内地で自分が軍神にされていることを伝え聞き、帰還を断念した。
釜山を去り新京の近くにある饅頭屋で働くうちに、真面目な性格を見込まれてそこの娘と所帯を持ち、満州人の女との間に三人の子供をもうけた」

と語ったそうです。

「内地で『軍神』にされている」のは杉野じゃなくて広瀬少佐(戦死後中佐)なんですけどね。
ツッコむなら、「ロシア軍の捕虜」も問題ですな。ホントにロシア軍の捕虜になったのなら、大日本帝国の外務省に連絡があるからね。
捕虜を捕まえたら、「適当にぶち込んどけ」とか言う話ではありません。ちゃんと相手国に通知して、それなりの待遇をします。捕虜の(元)階級に合わせてちゃんと喰わせるし、娯楽だって提供される。

じゃないと、自国の捕虜もちゃんと待遇されないから。
だから、「ロシア軍の捕虜」になっていた事はあり得ません。

同じような「証言」は他にもありまして、平成9年の元旦付けの「静岡県西部海交会」と言う会報誌に「ハイラル陸軍特殊機関」に在籍していた横田正二さん(札幌在住)の回想が掲載されております。

横田氏は昭和18年、新京にいる甘粕正彦を訪問し、そのときに杉野孫七に面会した、と言うのです。

杉野の語った事は看護婦の田島さんが聞いたことと大差はありません。ただ、帰国しようと釜山まで行ったときに、「帰国する」と電報を打ったところが面白いと思われます。その返答も帰ってきたようで…

「既に戦死したことになっているし、『軍神の信頼していた部下』との名誉も賜っている。頼むから帰って来ないでくれ」

奥さんまで、「帰国しないでくれ」と言ったというのです。

また昭和20年6月10日に、奉天駅の駅長室で杉野と4時間にわたり会談したという航空兵団(電脳大本営の注;航空兵団は昭和17年に第二航空軍に改編されましたが、原資料のままにしておきます)所属の第三航空情報隊の他谷岩佐氏(当時、陸軍准尉)の証言によると、杉野は満州事変以来、甘粕正彦の下で特務機関に所属しており、宣撫工作や情報収集を担当していたそうです。

コチラの杉野は170センチほどの身長だったそうで、当時の小柄とは言えそうもありません。

都市伝説?

杉野上級兵曹が旅順港を生き抜いたか?特殊機関で働いたか?は結局のところ都市伝説の域を出ません。

でも戦前・戦中は故郷での高い評価を考えると帰るに帰れず。
自分が「軍神」ではなくても、子供を託すほどに信頼していた上司が、自分の死をネタにして「軍神第一号」と祀られているのですから、それを台無しには出来なかったでしょう。

戦後は帰ろうとしたが、既に「日本人」を証明する手段を失っていて引き揚げ船に乗れなかったのか…などと考えると、なんだか切なさとともに、説明が付きそうにも思えてきます。

ともあれ、大東亜戦争前の満洲とは日本人にとって、魅力と魔力を備えた大地だったんでしょうね。

支那人の土地では決してありません。

もともと女真族の土地であり、現実には石原莞爾が理想として述べたごとく「五族(日本・女真・蒙古・漢・朝鮮)」が協力しつつ開拓すべき大地であったのです。

ただ、石原莞爾がもう少し理想から現実にその主張を振ってくれていたら…つまり日・満・蒙の「三族協和」にしていたら。
もちろん、この場合でも大日本帝国は勇気を持って決断しなければ鳴らない事があります。
それは「蒙古独立」です。満洲国に包含された蒙古の人たちに「民族自決」させてあげなければいけなかったのです。石原も大日本帝国の意思決定者たちも、その点を完全に見誤っていた、と私は思っています。

それもある意味では仕方のない事でしょう。清帝国では蒙古は女真のもっとも頼りになる忠実な同盟者であり、もっとも優遇されていた民族なんですから。
満州帝国でもそれに甘んじると思っても、止むをえないかも知れません。
でもね、一時はユーラシアをほぼ席巻して、史上最大の帝国を築いた人たちですからねぇ。
満洲国はこの蒙古の故地を一部とは言え、領土にしてしまった…これを蒙古の人々に返していたら。ソ連の支配下になってしまった「モンゴル人民共和国」の同族たちと密かに結んで、赤悪魔と一戦してくれたことは間違いないでしょう。

まあ、このような土地だったからこそ、杉野上等兵曹(の伝説)が大東亜戦争の終結を過ぎても、生き延びることが出来たのでしょうね。

広瀬武夫はもちろん、杉野上等兵曹も大日本帝国が発展していく過程に大いに貢献してくれたことは間違いない所であります。

 

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