琵琶湖で撮影?94式1号水偵1944ごろか

海軍のラジコン機

2015/10/10

スポンサーリンク

大日本帝国海軍が隠れた名機を遠隔操縦して運用しようとしていた、と言うお話であります。

『水上機の川西』の原点

『水上機の川西』の原点はこの飛行機にあり、と言われる(私以外の人が言ってるのは聞いた事がありませんが)名機、九四式水上偵察機を御存じでしょうか。

94式水上偵察機

94式水上偵察機
上下の主翼が前後にずれています

昭和7年、大日本帝國海軍は、七試水上偵察機の開発を川西航空機と愛知航空機に競争試作させることにしました。それまでの水上偵察機があまりパッとしなかったからです。

海軍の要求は
1、カタパルト射出が可能なこと。
2、航続距離が長いこと。
3、安定性が良好なこと。
4、最高速度は241km/h以上。

川西航空機はそれまで中島飛行機に劣らぬ歴史を刻んでいましたが、空技廠などが設計した飛行機を作るのがメインで、業績面では中島に大差をつけられていました。
そのため、この競争試作こそ挽回のチャンスと力が入っていたのでした。

堅実さの中に新工夫

川西航空機は奇をてらうことは避け、その代わりに各部門で細かいけれども新しい工夫を加えて性能を確保する事にしました。

胴体、翼ともに手なれた金属の骨組みに羽布張り。ただし、布を張る時には細心の注意と技術に塗装方法も工夫して金属表皮よりもツルツルに仕上げます。

主翼は複葉ですが、上下翼を前後にずらし(上が前)て偵察員の視角を確保。

フロートはジュラルミン製で、それまでと比べて空気抵抗が少なく耐波性の良好な物を考案。

スポンサーリンク

冷却器(当初のエンジンは液冷)や銃座を引 き込み式にして空気抵抗の軽減を図りました。

こうした工夫を重ねて、川西の試作1号機は昭和8年2月6日にテストを受けました。

今までの水上機をはるかに凌ぐ

最高速度だけは海軍の要求値を満たせませんでしたが、今までの水上偵察機よりはるかに速く、抜群の安定性と航続力を持っていると認定されました。

昭和9年5月には九四式水上偵察機として制式採用が決まり、量産が開始されたのです。

これをきっかけに川西は2大メーカー(三菱・中島)に次ぐ飛行機メーカーとしての階段を上り始めるのです。
94式水偵の成功がなければ、97式大艇も2式大艇も強風も、産まれなかったのではないでしょうか?もちろん紫電改も・・・

初期の機体は広廠九一式水冷エンジンを載せていましたが、性能向上のために三菱瑞星空冷エンジンに換装しました。
この改造で実用性はさらに向上したので、昭和13年に九四式2号水上偵察機として制式採用され、それまでに生産された型は九四式1号水上偵察機と改称されました。

北上山地を飛行する1号、2号

北上山地を飛行する1号(手前)、2号

九四式水上偵察機は昭和10年頃から巡洋艦や水上機母艦に主力偵察機として搭載されたほか、各地の基地にも配備されました。
大東亜戦争開戦時にはすでに旧式化していましたが、哨戒や船団護衛、連絡等で終戦まで運用されました。

全長: 14.41 m、全幅: 14.00 m、全備重量: 3,000 kg、最高速度: 239 km/h
乗員: 3 名、航続距離: 2,200 km・航続時間: 12 h、武装:7.7 mm機銃 × 1(前方固定) ・7.7mm機銃 × 2(後方上面、下面旋回)

 

自動操縦装置の開発へ

さて、この94式水偵の航続距離の長さ、飛行の安定性や3座から来る機内容積の充分な事を利用して無人飛行を実験するプロジェクトが行われました。昭和12年の秋の事でありました。

海軍航空技術廠の富沢技術少佐を中心に行われた研究です。
危険な攻撃や偵察などを行わせることが主目的で、長時間の滞空偵察なども視野に入れていたようです。

ラジコン94水偵の飛行

ラジコン94水偵の飛行
射出されて上昇に移るところと推定

ドイツ・ジーメンス社製の「電気式自動操縦装置」を輸入して、独自に改良を加えて使用しました。
油圧によって三舵(エルロン・ラダ―・エレベータ)やエンジンを無線操縦するものだったようです。空中での操作はおおむね良好で、実用に足る物でしたが、離着水時の操縦が困難でした。

それを補うために自動発進装置と自動着水装置の二つを開発します。

スポンサーリンク

「自動発進装置」はカタパルトによる射出が前提でした。
あらかじめエルロン・ラダ―・エレベータを発進、上昇するようにセットしておき、射出時の大きな衝撃によって時限装置が働き始めます。
時限装置はこの順に各舵を固定したクランプを外し、一定高度まで自動上昇したら無線操縦に切り替わるというものです。

「自動着水装置」はコントローラーからの信号を受けると着水高度を検知するアンテナが自動的に展開され、それと同時にエンジン出力が絞られます。
徐々に速度が落ち高度が低下してアンテナが水面に接触すると、スイッチが作動して自動的に着水体制(機首上げ)がとられ、スイッチ作動後四十秒でエンジンが自動的に停止する、と言うものでした。
【記事中の画像はすべてクリックすると大きくなります】

地上での基礎実験と1940年(昭和15年)9月末に敷設艦「沖島」で第一回の発艦テストは大成功に終わったのですが、戦艦山城からの二回目のテストで失敗してしまいました。

幸いにも失敗の原因は艦長の飛行機に対する無関心にあり、射出に際して艦を風に立てず、充分な合成風力が得られなかった為と解析されました。

高くつくから、や~めた

実験は続けられました。
やがて自動操縦装置はほぼ完ぺきな完成度に達した、と認定されて6機の94式水偵が無線操縦機に改造されましたが、コストの問題からそれ以上の実用化は見送られてしまいました。

この無線操縦装置一式を製作するのに当時で5万円以上かかったそうです。
量産すれば半額程度、と言う試算もあったものの、パイロットの養成は1万円くらいで出来たそうで、海軍首脳は安い方を選択したのです。

ちなみに、開戦当時の海軍の教育課程は、正規将校と正規予備将校の初等訓練が6ヶ月間、練習機で60時間。
さらに4~6ヶ月の実技訓練は実用機で100時間、その後3ヶ月以上の戦術訓練で150時間以上となっています。
少なくても1年半の養成期間と200時間以上の飛行時間をつかって「ヒヨッコ」を育てていたんですね。

飛行予科練(下士官飛行整備員も)を見ても初等が練習機で44時間。
実技訓練が60時間、戦術訓練が150時間以上となっています。
期間は士官の場合と同じです。

これに飛行前の座学教育期間がありました。

琵琶湖で撮影?94式1号水偵1944ごろか

1944ごろ琵琶湖の大津航空隊と思われる1枚

自動操縦装置の開発放棄から僅か数年。劣勢が隠せない海軍はありったけの飛行機を特攻に使います。

とっくに時代遅れとなっていた「九四式水上偵察機」も例外ではありません。

また、パイロットを養成する時間も、そのための石油も不足していましたので、戦技や長距離飛行の訓練などできるわけもありません。

それでも、神風特別攻撃隊『琴平水心隊』や『魁隊』と名乗った純真な若者たちは、九四式水上偵察機を操り、救国と回天の志を胸に時速250キロにも満たない速度で沖縄へと向かったのでした。

英霊に心からの感謝を捧げます。

スポンサーリンク

-帝國海軍, 政策・戦略・戦術, 航空機
-, , , , , ,