魚雷発射イラスト

水雷防御網を御存じですか~忘れられた装備2~

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水雷って言葉をご存知でしょうか?
大日本帝国海軍の「華」とうたわれたのは「第二水雷戦隊」でありますから、ご存知の筈ですよね(笑)

水雷兵器は強力だった

もともと「水雷」は、地中で爆発する「地雷」に対する名称で、水中で爆発することによって船艇へ攻撃を行う兵器の総称…だとWikiに書いてあります。

兵器の総称ですので、幾種類かに分類されるワケでありまして、機械水雷=機雷・魚形水雷=魚雷・爆雷(これは何の略なんでしょうね。爆弾型水雷とか?)などなど。

他に何があるんだ?ですって。ありますねん、ソレが(笑)

「外装水雷」ってモンがありましたぜ。
ボートの先に爆薬を付けた槍を突き出したモノですけどね。

で、この水雷全般は狙われた艦船にとっては、大いなる脅威でありました。

砲弾ですと狙いが外れたら(外れるのが普通ですが)、水面で爆発しちゃうわけですが、「水雷」の類は水中で爆発しますからね。強烈な水圧が全力で近傍の艦艇を襲うのであります。

その中でも、魚形水雷すなわち魚雷は自力で航走するだけじゃなくて、搭載する爆薬量も多く、主力の水上艦艇にとって大脅威でした。

ただ、残念ながら魚形水雷が登場してきたころ、それを搭載するべき「潜水艦」とか「魚雷艇」ってやつはまだまだ発展途上にあったのです。

魚形水雷=魚雷はイギリス人技術者のホワイトヘッドさんが、オーストリア海軍の士官ジョヴァンニ・ルッピスさんの支援を受けて発明したとされています。

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ホワイトヘッドさんはジョヴァンニ・ルッピスさんの出身地であるオーストラリアの港町フィウーメに魚雷工場を作りました。

魚雷の開発者ホワイトヘッド

ホワイトヘッドさん

 

ココで、さまざまな改良を自分の発明に加えて、1870年には、最大約1,000ヤード (910 m)の距離を、6ノット (11 km/h) の速度で航走するまでに仕上げたのでした。

この「完成形魚雷」は10ヶ国ほどに輸出されたほど、各国海軍の注目を集めました。実際のところはまだまだオモチャみたいなモンすけどね。

潜水艦は、と申しますと「潜水艦の父」(誰が言う天然てんねん)のジョン・F・ホランドさんが、精魂込めた「USS Holland」が1900年に就役(アメリカ海軍:ホランドさんはアメリカ人造船技術者だからね)しています。

こっちも、まだまだオモチャね。

そんなワケで魚雷が「発明」された後でも、主力艦(戦艦とか巡洋戦艦のことでっせ)は堂々と洋上を進撃してるときに、魚雷攻撃を恐れる必要が無かった時期があるんですね。
第一次大戦がはじまる前のホンの一時期だけんど。

第一号潜水艇(ホランド型)

大日本帝国海軍の第一号潜水艇(ホランド型)

しかし、停泊してるときは怖い。オモチャみたいな潜水艦に搭載されたオモチャみたいな魚形水雷でも、至近距離に忍び寄られて一発当てられたら…

防がなくっちゃ

そんな心配があったら、オチオチ水兵さんを上陸なんかさせていられません。
緊急に罐を焚いて蒸気圧を上げ、タービンをぶん回して魚雷を回避するには沢山の水兵さんが必要です。

その上この当時、軍艦はタービン化していますが、肝心の燃料はまだ石炭が主流です。
石炭は石油に比べると単位重量当たりの熱量が少なく、その上嵩張りますから、軍艦の航続距離が短く、しょっちゅう補給してやる必要がありました。

で、この補給作業が大変なんであります。なにせ軍艦でありますからね。
載せやすい所に石炭庫を作るワケがありません。それどころか、石炭を防御用に使っている軍艦(石炭は砲弾の直撃を受けても爆発しないんで)も沢山ありまして。
そんな防御区画には、直接クレーンで入れられるワケありませんから、結局水兵さんが担いで行くんですよ。

重いばっかりじゃありません。袋に入ってても、粉は出るからね。
環境悪くって息もできないんで、ごっついマスクして通風劣悪の艦内で糞重たい石炭袋担いで…

コレで上陸も出来なきゃ、絶対に反乱起こると思うな(笑)

そんなワケで、防御兵器が開発されたんであります。それこそが「水雷防御網」であります。

言うてるより、見るが易し。見ないと判りにくい。

ご覧いただきましょう。
戦艦「安芸」です。

薩摩型戦艦安芸

薩摩型戦艦安芸

戦艦「安芸」は明治44(1911)年の竣工です。
19800トン・12インチ速射砲連装2基4門・10インチ速射砲連装6基12門・20ノット

日露戦争中の予算で建造されたんですけど、「安芸」と「薩摩」の薩摩クラス戦艦こそ「初めて日本国内で建造された戦艦」であります。

よく金剛クラスが「初めての国産戦艦」とか言われますけど、アレは「弩級」が抜けてるんですね。
弩級戦艦としては金剛級の「比叡」と「榛名」「霧島」が初の国内建造です。

「比叡」は横須賀海軍工廠、「榛名」「霧島」は民間造船所で建造されていまして、(弩級である無しに関わらず)戦艦が民間の造船所で建造されたのは、コレが初です。

兵装を「主砲」だけ書いてますけど、コレだけで「弩級戦艦」じゃないと判りますよね。

次は戦艦「霧島」の画像。
大正4(1915)年竣工・36000トン・35.6cm45口径連装砲4基8門・15.2cm50口径単装砲14門・29.8ノット

大正4年撮影の霧島

大正4年撮影の霧島

ね、弩級巡洋戦艦でしょ?って砲の話じゃなかった。この話はまた改めてやりたいと思います。

水雷防御網の話に戻ります。
両艦ともに舷側の水線より少し上から『 / 』な感じで何本ものブームが取り付けられています。

良く判りませんね。こんなブームで魚雷が防げるんでしょうか?

もちろん、そんなワケありません。

このブームに網をぶら下げるんですよ。それも鉄製のゴッツイ奴。

こんな形で使います。

艦名不詳、水雷防御網展張

艦名不詳、水雷防御網展張状態

 

残念なことに艦名が判りませんが、ブームの先に金属製のチェーンを広げてぶら下げているのがお分かりになると思います。

「防潜網」とはちと違いますぜ。防潜網ってのは港湾などの出入り口に張って潜水艦の侵入を防ぐもの。

こっちは個艦の艦側に張りめぐらして、魚雷の命中を防止するための網なのです。

「魚雷防御網」といっても同じことなんですが、第二次大戦までにはほとんど使われなくなってしまいましたので、「水雷」とクラシックに呼ぶ方がお似合いだと思います。

繰り返しになりますが、ホワイトヘッドさんが魚型水雷を開発してから、魚雷は主力艦にとって悩みの種となってしまいました。

それまで、敵の同じ主力艦の巨弾だけを気にしていれば良かったのに、魚雷は虫けらほどの小型艦にも搭載出来て、その虫けらどもがこっそり忍び寄ってくるんですから。

しかも魚雷を喰らえば、重防御を誇る戦艦も一発轟沈の可能性が高いときています。この当時の戦艦は水中防御が「まだまだ」でしたから。

特に停泊中に罐の火を落している時など大変です。
罐を焚いてフネを動かし始めるのは、かなり時間の要る事なんですから、突然魚雷を撃たれたからって、動いて逃げることが出来ません。

そこで考えられたのが、この水雷防御網だったのです。

実は、この「水雷防御網」を、どこの海軍のどなたさんが発明なさったのか?良く判りません。
ただ、原理が難しいワケじゃありませんし、港で停泊しているときに展張するものでありますから、秘密にもなりません。

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ヂョン・フィリップ・ホランドさん

ヂョン・フィリップ・ホランドさん

何処が最初か知りませんけど、水雷防御網は各国の主力艦に流行のように装備されちゃったんです。

そうなると、魚雷の方も頭部に鎖カッタ―を付けたモノが出現します。

それに対して、防御網側はカッタ―を無効にするべく、網目の間に鉄板を仕込んだものが造られるようになりました。

仕込み鉄板に対抗して、魚雷側は現代の対戦車砲弾のような「タンデム・ヘッド」弾頭(魚雷の頭部も弾頭でいいんでしょうか?)を搭載して水雷防御網を爆破、それに対して・・・

何処でも何時でもお目にかかる、お馴染の展開が繰り広げられましたが、このイタチゴッコからの転機は思わぬところから訪れました。

張るのは大変、しまうのは・・・

次の画像は我が海軍ではなくて、英国です。

「水雷防御網」の展張と撤収作業の様子を写した、実はかなり貴重な画像です。作業は大変な重労働だったようです。
水雷防御網は金属製のチェーンですから、単体でもムチャクチャ重いんですね。

当然ですが、航行中は艦内にしまってあります。

港に入港したり、泊地にたどり着いたりすると、当時の軍艦(大型艦だけだけど。小せぇと糞重たい鎖は積み込む余裕がありません)にはこうして余分な作業があったんです。

糞重たい鎖を格納庫から引きずり出して、艦首から艦尾に至る舷側まで運び、/のブームに引っ掛け、マストからの支持索もブームに結んで、長さを調整しつつ、海面に下ろしてやらなければいけないんです。

大変な重労働です。でも、自分の乗艦がオモチャみたいな水雷で沈められないように、ちゃんとやっとかなくっちゃ。
と殊勝な水兵さんが思ったかどうかは不明であります。個人的には

「クソみたいなこの作業、艦長の将来の出世を確実にするためにやってんだろうが!士官だけでやれよ」

と水兵さんたちは思っていた、と信じています。そう考えた方が人間としての精神は健全でありましょう。

ただね、この作業は「終わったら上陸できるぞ」って言う楽しみがありました。

だから、水兵さん総出で割と早くできたんじゃないかと思うんですよ。

しかし、後かたずけもしなきゃいけませんよね。
上陸が終ったら…

装甲艦ホットスパーの水雷防御網展張

装甲艦ホットスパーの水雷防御網展張作業の様子

 

オモチャは出したら出したら仕舞わなければいけません。お母さんに教えてもらったでしょ?

「おかたずけしなさい!」って言われませんでしたか。
京都(とその周辺)では「なおす」って言うけどな。

儂んちは金持ちでも学のある家庭でもなかったから「なおしとけ、言うたやろ!」だったけどな(笑)

さてさて、この「艦長さんのオモチャ」は鋼鉄でできた網です。ただでさえ、クッソ重たい。
それを水中にぶら下げていますので、余計に重たくて、取り扱いも大変でありました。

装甲艦ホットスパー、水雷防御網収容

装甲艦ホットスパー、水雷防御網収容作業

水雷防御網を出したら上陸休暇が出る、と書きました。ですから、展張作業はまだ我慢できたんでしょう。
私の知る限りでは、水雷防御網の展張作業がイヤで反乱が起きた海軍、ちゅうモノはこの地球上に存在しておりません。

しかし収容作業は展張作業に比べて、もっとはるかに大変!なのであります。
何度も言ってきましたように、水雷防御網は鋼鉄でできた網ですから重いんです。

その重たい水雷防御網を、水中から巻き上げて収納しなきゃいけません。港から出航するんですが、客船じゃないんだから「可及的速やかに」出なきゃいけません。
時間に追われての重労働はつらいっすよ。

重労働で艦上に引き上げただけではダメで、錆止めもしなきゃいけないでしょう。

しかも重労働の後は出港しちゃいます。汗まみれで疲れ切った水兵さんには、お風呂に入るのもままならない生活が待っているのです。

収容作業でも、この作業がイヤで反乱が起きた、なんて例はありませんが、見ている・あるいは指揮している艦長以下の士官さん達は深刻に考えたようです。

なにせ、ちゃんとした記録が残っていません(儂が知らないだけかも)ので、誰がいつ決断したかは不明なのですが、水雷防御網は運用を見直されることになります。

まず、艦の前後に水雷防御網を張らないようになります。舷側だけにしたワケですが、作業量がそんなに減った訳でもありませんでした。

では、張りっぱなしで出港しちゃえば良いじゃないか?というお馬鹿を試した艦もあったそうですが、これは水の抵抗が無茶苦茶に増えて、全く駄目だったそうです。

苦労して巻き上げても、戦闘で被弾したりすると鉄の網がズルズルと海中にぶら下がり、艦のスクリューに巻きついたりするのも心配になりました。

ついに廃止へ

そんなこんなで水雷防御網は第二次大戦前にはもう使われなくなってしまいました。
金剛型だって、初めは付けてましたけど

T3 金剛 横須賀軍港

大正3年 金剛 横須賀軍港にて

改装したらとっちゃってます。

S12 金剛 大改装完了

昭和12 年、大改装が完了し高速戦艦となった金剛

魚雷の脅威が無くなった訳ではありませんが、停泊中は襲われないって言う自信があったのでしょうか?

たしかに我が帝国海軍には、航行中に潜水艦の魚雷で「撃沈」された戦艦はあっても「停泊中に魚雷だけで沈められた戦艦」はありません。
ありませんけれど、その可能性を払拭出来たワケでもありません。

水兵さんの体力とやる気に配慮した結果、としか言い様がない、と私は思っています。世界各国海軍は協定でも結んだかのように水雷防御網を捨て去ってしまったのでありました。

そして、どこの海軍でも使われなくなってしばらく。
独逸国の海軍にこんな若きヒーローが誕生いたしました。(向かって左側)

21歳のギュンター・プリン

21歳のギュンター・プリン

「オモチャみたい」な潜水艦もだいぶん進歩して、それを乗りこなす強者たちが現れてきたのです。
儂に言わせたら、まだまだ潜水艦を名乗るのはおこがましい「可潜艦」レベルだけんど、鍛え上げた戦士は儂らのような凡人とは違うのだ。

1939(昭和14)年10月14日、31歳のプリン艦長指揮下の潜水艦U-47は大英帝国海軍の根拠地スカパフローに潜入。

水深の浅さもモノともせず、戦艦「ロイヤルオーク」を撃沈、見事に脱出して見せたのでした。

 

シャルンホルストに迎えられるU-47

戦艦シャルンホルストに迎えられるギュンター・プリン艦長のU-47

大英帝国はそれでも水雷防御網の復活を検討したりは、一切していません。

忘れ去られた装備シリーズ1

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