帝國海軍は護衛が大嫌い1

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強大だった筈の大日本帝国が、なぜ脆くも敗れ去ったのか?様々な理由があったと思います。いろいろな方が、さまざまな原因を主張されていますし、どれも傾聴に値する所であります。

良く効くクスリは苦いのさ

ところがですね、中には「帝国は植民地解放を目的に戦ったんだから、勝利したんだ」とか言うオタンコナスまで出現しています。

「勝利論」にはコチラで反論(って言うか馬鹿に)してありますが、真の問題はこのオタンコナスのように「勝ったんだモ~ン」とか言って現実から目をそらしてしまったら、貴重な戦訓を汲めなくなってしまう事であります。
たっとき英霊方をはじめとする多大な犠牲、昭和の帝が「堪え難きを耐え、忍び難きを忍び」とまで仰って再起をはかったことが無駄になってしまいます。

日本国民はもう二度と戦争では負けてはなりません。そのために、「なぜ負けたのか?」という事は、どこまでも追求しておかないといけません。「敗け戦」を凝視するなんて厭な事ではありますが、厭でもしっかりとやらないと「また敗ける」んです。

1945鵜来型、完成引き渡し

鵜来型海防艦
昭和20年の完成では、本来の護衛任務に活躍できませんでした。

電脳大本営的には大東亜戦争の敗因は、一義的に「シーレーン防護の失敗」であります。

ただ、「シーレーンを守りきれなかった」とか、一歩踏み込んでも「シーレーン防護の思想が無かった」くらいで止めてしまったんでは、戦訓をその血で贖って下さった英霊に申し訳ないと思うんであります。

この「帝國海軍は護衛が大嫌い」シリーズは、折に触れて書き続けているモノです。それなりにちゃんと書いたつもりではありますが、もっと深く知るべきという視点でみると、掘り下げが浅すぎるように思われてきてしまいました。

そこで、「もっと深く」という観点から、書き直すべし、と思った次第です。この記事はその一作目であります。

さてさて、シーレーン防護軽視の思想は何処から出てきてしまったのか…
あまり知られていない「思想家」なんですが佐藤鉄太郎と言う人をご存じでしょうか?

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日清戦争で

「思想家の佐藤鉄太郎」なんぞ知らんわい!海軍の佐藤鉄太郎なら知ってるぞ、などとお笑いが聞こえてきそうですが。電脳大本営では戦術を語れる人は「思想家」です(笑)

佐藤鉄太郎は1866年(明治の前でっせ!慶応元年だ)庄内藩士の子として産まれていますので、海軍内の出世ではあまり有利な立場に居たワケではなさそうです。これは後々、影響があったんだか無かったんだか?あまりよく判りません。

若き日の佐藤鉄太郎

若き日の佐藤鉄太郎

海軍兵学校14期。Wikiによれば入校時の成績順位51名中第6位、卒業時成績順位45名中第5位だそうです。一割以上の退学率ってどうなのよ、と言う話は置いときまして、なかなかの好成績ですな。まだ海軍の規模が小さい時期ではありますが、大佐までの出世は約束されたも同然の成績です。

日清・日露の両戦役を勝ち抜いた後だと、「将官確定」って言ってあげるんですけどね。

日清戦争の黄海海戦では「砲艦・赤城」の航海長。この空母じゃない「赤城」はこれも有名ではありませんが、たいへんな「孤軍奮闘艦」なんでありまして。それも奮闘の際に艦長が戦死、航海長の佐藤が「赤城」の指揮を執って戦ったのであります。

ざっとその活躍ぶりを書きます。
と申しますのは、この海戦は大日本帝国海軍が「世界有数の海軍」(ラグビーで言うとティア1のそれも上位じゃな)に成長していく端緒になるのですが、あくまでも「陸軍を大陸(この時は半島内)の戦場に安全に送るため」の戦いでありました。

樺山資紀軍令部長(後述するように実質オジャマ虫であります)も伊東祐亨連合艦隊司令長官も坪井航三第一遊撃隊司令官も各艦の艦長も水兵さんたちも、政治家も国民も、そのことは判っていたハズです。
海戦が起こるまで、連合艦隊は総力を挙げて黄海内をパトロールしていますが、これも敵艦隊発見だけが目的ではありません。自軍の輸送船の護衛(直接護衛ではなくて、海域を制圧してそこを自由に通航できるようにする形の護衛です)と敵軍の輸送船撃沈のためです。

樺山資紀

樺山資紀

そのことは、黄海海戦そのものが鴨緑江河口へのChina兵輸送の後、その陸兵たちの支援に当っていた北洋水師(清国艦隊)VSパトロール中の我が連合艦隊の遭遇戦であった事で証明されると思います。

ところが、海戦後になってタダのオジャマ虫でしかなかった(それなりに奮闘はしてますけどね)樺山軍令部長や伊東連合艦隊司令長官を英雄として祭り上げちゃったせいでしょうか?
いやいや、お二方ともにヒーローではありますよ。これは間違いない。
対する丁汝昌提督だって中々の名指揮官ですけど、これを真っ向から打ち破り(戦術についてはコチラの記事をどうぞ)旅順港(のちに威海衛に移動)に押し込めちゃうんですから。

ところが、ですね。肝心の「シーレーン確保」が評価されないんです。「敵艦をいっぱい沈めた!ゴイゴイス~」ってところばっかり。

軍令部長、艦隊を訪れる

それでは、佐藤鉄太郎が名前を売り出した「第一次黄海海戦」(注:日清戦争の黄海海戦の電脳大本営流呼称です)の背景を見ていきましょう。

日清戦争そのものは、皆さんよくご存じのように「朝鮮国」の支配権獲得競争であります。大日本帝国としては、「朝鮮国」がロシア帝国の影響下に置かれることが最も恐ろしいことでありました。「朝鮮国」は基本的には清国の属国であり、支配階層もそのことをきちんと認識していました。
属国根性ですね(笑)何処の属国になったら安楽に(国民が、じゃないですよ)暮らせるか?が「朝鮮国」支配階層の判断基準です。

清国はもはやロシアを含むヨーロッパ勢力に抵抗できないことが、明白になりつつありました。一方、清国としてはヨーロッパから軍備を購入して「国力」を涵養して、半島の支配権を維持しようとしていました。

注意をしなければいけないのは、この時の清国指導者の李鴻章(直隷総督兼北洋大臣)は支配民族の女真族ではなくて漢民族である、ということ。さらに、李鴻章は北洋軍閥の盟主であって、日清戦争は大日本帝国VS北洋軍閥の戦争であった、ということです。

日清戦争が始まるとすぐに、帝国陸軍は「朝鮮国」の首都だったソウル周辺に兵力を集中します。「朝鮮国」の朝廷(属国なのに朝廷もヘンですけど)を掌握していた清国軍は平壌周辺に退却して立て篭もりました。

旅順口激戦の図

旅順口激戦の図

これを追う帝国陸軍は北上を開始、9月15日には葉志超提督率いる清国軍を撃破します。これで朝鮮半島はほぼ制圧出来ましたが、清国の強大な海軍力はそのまま残り、大日本帝国のシーレーンを脅かしていたのであります。

大本営の「陸海軍共同作戦案」では、「清国艦隊撃滅の後に渤海沿岸要所に陸軍主力を輸送し、清国政府を早期に降服せしめる」となっていました。
「早期に降服せしめる」ことが出来ずに長期戦となりますと、国力が乏しい日本は不利になります。せっかくの戦争の果実を横取りしようとする西洋列強の外圧も恐ろしい。

これが「大日本帝国海軍には清国艦隊の速やかな掃討と黄海並びに渤海の制海権獲得が求められていた」(Wikiの記述)といわれる所以です。
が、「清国艦隊の速やかな掃討」を達成すれば「黄海並びに渤海の制海権獲得」は自然に達成されます(第三国の海軍力が中立である限りは、ですが)ので、この文章の後半は無意味です。

清国のリーダーである直隷総督兼北洋大臣の李鴻章は、大日本帝国の国力を冷静に読んでいたようです。李鴻章は、長期戦に持ち込んで講和に持ち込むことを目論んでいました。
そのために北洋水師の指揮官である丁汝昌提督に決戦回避と戦力温存を指示していたのです。自分の勢力下にある北洋水師の損害を嫌がったとも考えられますけどね(笑)

つまり、丁汝昌提督が李鴻章の命令を遵守して出撃してこない限り、帝国本土と半島・大陸の戦場を結ぶ輸送路が危難にさらされることはありません。

平壌玄武門兵士先登之図

平壌玄武門兵士先登之図

連合艦隊は黄海内で索敵を繰り返して艦隊決戦の機会を求めた、とされていますが、冷静に考えてください。港から出てこない敵艦隊はシーレーンの脅威にはなりません。日清戦争においては、フリート・ビーイング戦略は意味を成していません。李鴻章のやり方が下手なんですけどね。

ところが、ですね。海軍軍令部長の要職にある樺山資紀が焦りまくってヘタを打ってしまうのです。前線視察とか言って連合艦隊司令部に行き、連合艦隊司令長官の伊東祐亨を叱咤するのであります。「一刻も早く清国艦隊を撃滅せよ!」と。

ココで注意しておくべきは、のちの日露戦争とは状況が違うということです。日露戦争ではバルチック艦隊が遠路はるばる極東の戦場までやってくる、ということでしたから、早期に我が国周辺にあるロシア艦隊を殲滅しなければなりませんでした。
清国にはバルチック艦隊のように来援する「もう一つの艦隊」は存在していませんでしたから、引っ込んでいるモノをわざわざ引きずりだす必要があったとは思えません。

とは言っても、上司の言うことですからねェ。伊藤連合艦隊長官はますます黄海上をあっちへ行ったりこっちへ来たり、ウロチョロウロチョロしていました。そして…

前線に出しゃばるんじゃない

平壌決戦に敗れた清国陸軍は一気に鴨緑江まで敗走してしまいました。鴨緑江を越えてしまえば、もうそこは大陸本土です。防衛軍に対する増援は急務となりました。

第一軍雪中奉天府破る

第一軍雪中奉天府破る

こうなると艦隊保全などと暢気なことは言っておられません。李鴻章からの命令を受けた丁汝昌提督は9月16日午前1時、大あわてで北洋水師と輸送船団を率いて大連湾を出港。
同日14時には鴨緑江河口の約36キロ西にある大狐山に到着、増援の陸軍兵士を上陸させました。
北洋水師は大連へ逃げ帰らず、海沿いの道を行軍する陸軍兵の支援任務につきます。

では、我が連合艦隊はどうしていたのか、と申しますと。
連合艦隊は半島の黄海道にある「チョッペキ岬」に根拠地を設けていました。9月16日16時、連合艦隊は清国艦隊の捕捉を目指して出港。「北洋水師出撃」の情報を得ていたかどうかは不明です。
ただ、この連合艦隊の出撃には督促に来ていた樺山資紀軍令部長が座乗した仮装巡洋艦「西京丸」が同行していました。危険を予感した伊東祐亨連合艦隊司令長官は、砲艦「赤城」を「沿岸偵察」の名目で「西京丸」に同行させるのでありました。

翌9月17日の10:00我が連合艦隊はついに多数の煤煙を視認いたします。大艦隊だ!と判断した連合艦隊は直ちに戦闘態勢を取りつつ急接近。
北洋水師の丁汝昌提督もほぼ同時に連合艦隊を認めたと思われます。丁提督にとっては無念なことに、北洋水師は大陸を背にしていました。逃げるための方向は限られてしまいます。そのうえ、丁提督の指揮下の各艦は大日本帝国の艦隊よりも巨砲を有していましたが、速力は劣っています。

丁汝昌提督は決戦止む無しと判断せざるを得ませんでした。そうとなれば、定石通り艦隊を左右に大きく展開し、横隊で日本艦隊に突進したのであります。

海戦

結論から書きますと、黄海海戦(第一次)は大日本帝国海軍連合艦隊の「完勝」に終わります。清国北洋水師からは前代未聞の「敵前逃亡艦」まで出る始末となるのでありますが、楽勝だったわけではありません。

戦力的に優位だったのは北洋水師の方ですし、丁汝昌提督はそれまで世界の有力海軍の「必勝戦術」として定着していた、「横隊突撃・接近・衝角戦術」を見事に実行しています。

それを連合艦隊が打ち破ることができたのは、艦や砲の大きさでは対抗できないから、速力や射撃速度に磨きをかけたことと、それを生かすために「単縦陣」での艦隊行動を練り上げていたことに尽きます。

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砲艦赤城

砲艦「赤城」

しかし、その為に劣速の艦は何度も危機に陥っています。旧式コルベットの「比叡(初代)」なんかが、その代表です。この劣速艦は本隊(連合艦隊は本隊と坪井少将指揮の第一遊撃隊に分かれて運動していました)の最後尾についていたのですが、激しく敵艦を追う主力についていけずに脱落。

カタチとしては横隊で突進してくる北洋水師の前に、艦隊から置いてけぼりを食って孤立してしまったのです。北洋水師は絶好の獲物とみて「定遠」と「経遠」をして衝角攻撃を敢行します。「比叡」艦長桜井規矩之左右少佐の操艦が見事で、「定遠」と「経遠」を接近させておいてから、両艦の間をすり抜けてしまいました。

「比叡」はこの後、北洋水師の主力にボコボコにされるのですが、同じように劣速で置いてけぼりの「扶桑」(ご子孫の戦艦も劣速でしたね)はその隙に逃げおおせてしまいます。

北洋水師から見ると、連合艦隊本隊に逃げられ「比叡」「扶桑」も取り逃がし、世界の海軍の常識どうなっとんねん!(何度も言いますが第一次黄海海戦までは、「衝角攻撃」は有効で、そのために横隊で突撃するのが「必勝戦術」でした)というところでありますが、その北洋水師の前に軍令部長座乗の「西京丸」が出現いたします。

「西京丸」は砲艦「赤城」を伴って(護衛されてた、ともいう)連合艦隊本隊の北洋水師とは反対側に並航していた(隠れていた、とも)のです。

誰がどう考えても、後の大東亜戦争の輸送船じゃありませんから「西京丸」は保護対象とは違います。勝手に決戦場に出しゃばりやがって(笑)
しかし、砲艦「赤城」としては立場上守ってやらねばなりませんね、エライ人が乗ってますから。その役が佐藤鉄太郎航海長に回ってきちゃったのであります。

「西京丸」に比べてやや劣速の「赤城」は「西京丸」を何とか逃がそうと、「西京丸」と敵艦隊の間に位置取ります。
敵中に孤立した形になった「赤城」は北洋水師の集中砲火に晒されてしまいます。
やがて艦橋に一弾が命中。艦長の坂元八郎太少佐が混乱の中で戦死してしまい、佐藤鉄太郎航海長が「赤城」の指揮を引継ぐことになったのです。

樺山資紀軍令部長の座乗する「西京丸」も無事では済みません。軍令部長の奮戦は、のちに大日本帝国の国内メディアで称えられるようになるのですが、確かにそれに相応しい督戦ぶりだったようです。

「西京丸」は厳しい攻撃にさらされながらも、連合艦隊本隊に向けて「赤城危険」と信号を発信しました。
これを受けて「第一遊撃隊」は本隊へ続航していた進路を急遽変更、左舷にUターン回頭して「赤城」の救援(当然近傍の「西京丸」も)に向かうのでありました。

「赤城」は攻撃してくる北洋水師の「経遠」に命中弾を与えていましたが、護衛対象の「西京丸」にも被弾多数。

第一遊撃隊は30分ほど掛けて「赤城」と北洋水師の間に割り込む位置に到達します。第一遊撃隊の接近を認めた北洋水師はそれ以上の攻撃を諦めたようで、右回頭して陣形を北に向けます。
その時でありました。敵から逃れようと北方に向かっていた「西京丸」が第一遊撃隊の艦列に割り込んでしまったのです。
艦列の最後尾についていた「浪速」は闖入者との衝突を回避するべく減速転舵せざるを得ませんでした。

巡洋艦浪速絵葉書

巡洋艦「浪速」

艦列から「西京丸」によって分断された「浪速」は孤立してしまいます。北洋水師もさるモノで、「致遠」と「来遠」が「浪速」に接近してきます。
一方、「平遠」「広丙」「福龍」「左隊一」の4艦はいまだ北上を続ける「西京丸」を追いかけていました。

佐藤鉄太郎航海長の指揮する「赤城」は重大な損傷を負いながら、なお「西京丸」を守り続けなければならないのでありました。

オジャマ虫、英雄になる

「西京丸」の邪魔によって第一遊撃隊を切り離さざるを得なかった我が連合艦隊は、それでも北洋水師を圧倒するのは皆さまご存知のとうりであります。
ではありますが、「西京丸」と軍令部長が戦場にいなかったら?私たちの涙と愛国心を掻き立ててくれる「まだ沈まずや定遠は」の名文句は、この世に生まれ出ていなかったかもしれません。
生まれない方がよいのですよ、勇敢なる水兵さんが生き延びて海戦に勝利した方がよいに決まっています。

「第一遊撃隊」は快速・速射の軽快艦隊で、戦前の訓練では主力艦隊と模擬戦を行って圧倒することもしばしばあった有力艦隊なんです。
この艦隊が大事なところで切り離されなければ、北洋水師と丁汝昌提督に逃走を許すことも無かったんじゃないか?と思われます。

それなのに、この「切り離し」の原因となった樺山資紀軍令部長は「低速・弱武装の西京丸』に乗り込み、前線にまで出張って督戦、危機に際しては自ら指揮して勇戦敢闘した」といった文脈で国内糞メディアに絶賛されるのであります。

一方、西京丸の盾になり続けた砲艦「赤城」の方は、と言いますと。disる論調こそ無いものの、戦死した坂元八郎太少佐を悼む声も、次席ながら効果的な護衛を続けた佐藤鉄太郎航海長を称える声も、たいして聞こえてはこなかったのであります。

その後、佐藤鉄太郎は日露戦争において上村彦之丞司令官の第2艦隊で先任参謀を務めます。
日本海海戦においてロシア艦隊の偽装転進(バルチック艦隊旗艦が舵故障を起こして予期せぬ転舵⇒東郷以下第1艦隊はこれに釣られたが、第2艦隊は独断で後続のバルチック艦隊を追った)を見破り、的確な意見具申を行ったことで勝利に大きく貢献しました。

上海に停泊する出雲イラスト

上海に停泊する出雲のイラスト
上村艦隊の旗艦でした

佐藤はこういった戦功の割には人事には恵まれない人でした。

軍令部次長・海軍大学校校長・舞鶴鎮守府司令長官などの要職を歴任したのですが、大正12(1923)年に軍縮を巡って加藤友三郎との見解が対立すると、予備役に編入されてしまいました。要はクビになっちゃった訳です。

海軍中将で現役を退いたワケですが、陸軍の東條英教(東條英樹の父親)と並び称される戦史研究のオーソリティともされていました。

佐藤鉄太郎は山本権兵衛の知遇を得て、日露戦争前に2年余りの間英国と米国に留学しているのです。この2年余の間の戦史の調査・研究を通じてアルフレッド・マハンの影響を強く受けたようです。

第二艦隊幕僚中段右から二人目上村彦之丞、左へ加藤友三郎、佐藤鉄太郎

日露戦争時の第二艦隊幕僚中段右から二人目上村彦之丞、左へ加藤友三郎、佐藤鉄太郎

帰朝後の明治35(1902)年に『帝国国防論』を著し、明治天皇に上呈しています。
この国防論の注目すべき点は、

1.軍備の目的は「自衛にあり」
2.軍備と国力を論じている

と言う点だろうと思います。

海軍大学校の教授

佐藤鉄太郎はこの後海軍大学校で教鞭(1907年~1908年)をとりますが、その時の講義内容をまとめた『帝國国防史論』をも併せて、彼の国防思想を見てみたいと思います。

佐藤は軍備の第一の目的は戦わずして敵を押さえ込むこと、との抑止論の立場に立っています。

つまり軍備の目的は
「必ずしも征伐代戮の惨事を演じて、己の主張を貫徹せんが為にあらず、(中略)戦はずして兇暴を威圧し平和を維持し、戦争を未萌に防ぐのが真の目的である。」
としています。

「帝国国防は、防守自衛を旨とし、帝国の威厳と福利を確保し、平和を維持するを以て目的とす」とも述べています。

佐藤のこのような考え方の根底にあるのは、日本の軍備の程度を決定するものは経済力・人口・地理的条件である、と言うことです。
限られた経済力と人口しかない島国の日本には、強大な大陸国家のような大陸軍を擁するのはとても無理なことで、海軍力によって最小限の費用で最大の効果を得るべきだ、というのです。

あれ?途中までは良かったのに、なんだかちょっとキナ臭い事を言い始めてますよね(笑)

「帝国国防史論」ではさらに、「日本のような島国は『国土擁護の軍備』である海軍がそのまま『海上事業の啓誘、若(もしく)は擁護者』となる」、「陸軍の勝敗は決して死活問題にあらざるに反し、海軍の敗戦は国家の滅亡を意味する」とまで言っています。

帝国国防史論

帝国国防史論

そう、何処まで行っても佐藤鉄太郎は海軍軍人ですから海主陸従の思想なんですね。海軍大学校での講義では、海軍の限界も教えるべきだと思うんですが・・・

日米協調を重視

そうは言いながらも佐藤は「わが国が追求すべき外交目的は太平洋の平和でなければならない」と述べます。

しかも太平洋の平和は北太平洋に位置する日米の双肩にかかっているので、 日米両国はいかなることがあっても未来永遠に敵視すべきでなく、 日米が提携して平和を維持しなければならない、この日米提携に重要なのは相互に「敬友」することであるとまで言っているのです。

海軍軍人としての限界はあったものの、100年以上後の現在をも見通した見解じゃないでしょうか?

残念なことに佐藤に教えられた昭和の海軍(幹部)軍人は思想のつまみ食いをやらかします。つまんでしまったらもはや思想とは言えないかも知れませんが。
しかし、佐藤にも「シーレーン防護」を徹底的に大切にする気迫にかけていた部分があったように思われます。

こんな所です。
『帝国国防史論』の「軍備と国力」の節で佐藤は蘭英戦争を取り上げています。
「蘭人は直接に兵力を以って船舶を衛護するは海上の安全を期し得へき唯一の方法なりと信じたるに反し英人は海上其のものを掌握し其の船舶をして自由に其の権力の範囲内に来往せしむるの更に安全にして確実なるに如(し)かざるを信じたる---その結果、蘭国の航海業の衰微となり又英国海運の盛大となれり」

つまり、シーライン上の船舶を直接護衛する阿蘭陀方式に対して、面としての制海圏を確保する英吉利方式が両国経済の衰微と繁栄をもたらした、と分析したわけです。

また、蘭英戦争そのものでも蘭側の敗戦の原因は、能力に劣る蘭国海軍が商船護衛にこだわったがゆえに、運動の自由を欠いた事にあると総括しています。

また海軍軍備の目的にも言及し、「蘭人は其の船舶を護衛せんが為に海軍を備え、英人は海上を掌握し其の海上事業をして其の勢力範囲内に生育せしめんが為に海軍を備えり」と述べています。

2次元の海面だけなら佐藤の論は正しかったのかも知れませんが、科学技術の発達は海軍の守備範囲も3次元へと広げてしまいました。
「海上其のものを掌握し」ても、「其の船舶をして自由に其の権力の範囲内に来往せしむる」ことが出来なくなるとは、佐藤もこの時点では考え付かなかったことでしょう。
クビになる前には、潜水艦による通商破壊の恐怖は認識出来た筈なのですが・・・

如何でしょうか?
昭和海軍の主力艦隊決戦主義がここから透けて見えるように思えませんか?
皮肉なことに佐藤のモデルになった英国は第一次大戦で、独の潜水艦戦で敗北寸前まで追い詰められます。

追い詰められた英国は爆雷戦術やソナー技術を開発し、ソフト面でも大船団護送方式など次の大戦にも通用するシステムを開発します。

ところが英国に請われて地中海まで行った大日本帝國海軍は、駆逐艦を一隻大破されて戦死者も出してるのに、貴重な戦訓を学ぶことはありませんでした。

T6桂、アドリア海プリンディシ軍港。Rは地中海での識別記号

大正6年、アドリア海のプリンディシ軍港に停泊する 樺型2等駆逐艦「桂」

そう、我が帝國海軍は護衛なんか大嫌いだったんです。

大嫌いになったそもそもの原因が日清戦争の際の「黄海海戦」にあり、佐藤鉄太郎航海長の経験にあった、とするのは牽強付会が過ぎましょうけれど。

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