黒船イラストアイキャッチ用

巡洋戦艦は石炭を焚いて疾駆する

2015/05/06

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 一枚の写真から

またまた写真からご覧いただきたいと思います。
この写真で考えさせられてしまいました。
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S3大改装完了の榛名を訪れた尋常小六年、高等小1,2年生の記念写真

昭和3年、大改装完了の榛名を見学した尋常小六年、高等小1,2年生の記念写真

 

キャプションが見にくいかも知れません。
昭和3年に尋常小学校六年生と高等小学校1,2年生が、第一次改装の終わった榛名を見学したときの記念写真です。
残念ながら、私には学校名が判りません。学年だけは写真の裏に書いてあるそうなんですが。

ただ、60名ほど写っていて三学年合同ですから、一学年20名くらい。今とは時代が違いますから、相当な寒村からやってきたんだろうな、と言う想像は出来ます。

前の列の女の子、後列の男の子、みんなマジメそうです。
榛名も子供たちも晴れやかですが、この中の男の子には大東亜戦争で英霊となった子もいるかもしれません。
女の子たちが、幾本も千人針を刺したことは、まず間違いないでしょう。
まだまだ日本が貧しかった、でも人々は前向きに生きていた時代です。

石油専焼へ

この僅か5年後には榛名は第二次改装に取り掛かることになります。
この改装で榛名だけではなく、金剛型は全て「高速戦艦」に変身するわけですが、その一番のポイントは「石油専焼化」でありました。

それまでは36基もの石炭・石油混焼のヤーロー式罐を搭載していたのですが、ロ号艦本式の石油だけを燃やす罐に変更して馬力を倍にしたのです。
石炭なら日本でも産出していましたが、石油は輸入に頼らなければなりません。
それでも石油に変えなければいけなかったのです。

芥川龍之介に「軍艦金剛航海記」という作品があります。
金剛で体験航海をさせてもらった記録なんですが、引用します。罐室を見学しています。
少し長いですが、我慢して読んでみてください。

芥川龍之介「軍艦金剛航海記」
エレヴエタアが止つたと思ふと、先へ來てゐた八田機關長が外から戸を開けてくれた。その開いた戸の間から汽罐室の中 を見た時に、僕が先づ思ひ出したのは 「パラダイス・ロスト」の始めの一章である。かう云ふと誇張の樣に聞えるかも知れないが、決してさうではない。眼の前には恐しく大きなボイラアが 幾つも、噴火山の樣な音を立てて並んでゐる。罐の前の通路は、甚だ狹い。その狹い所に、煤煙でまつ黒になつた機關兵が色硝子をはめた眼鏡を頸へかけながら 忙しさうに動いてゐる。或る者はシヨヴルで、罐の中へ石炭を抛りこむ。或者は石炭桝へ石炭を積んで押して來る。それが皆罐の口からさす灼熱した光を浴び て、恐ろしいシルエツトを描いてゐる。しかも、エレヴエタアを出た僕たちの顏には、絶えず石炭の粉がふりかかつた。其上暑い事も亦一通りではない。僕は半 ば呆氣にとられて、この人間とは思はれない、すさまじい勞働の光景を見渡した。
その中に機關兵の一人が、僕にその色硝子の眼鏡を借してくれた。それを眼にあてて、罐の口を覗いて見ると、硝子の緑色の向うには、太陽がとろけて落ちたやうな火の塊が、嵐のやうな勢で燃え立つてゐる。それでも重油の燃えるのと、石炭の燃えるのとが素人眼にも區別がついた。唯、如何にもやり切れないのは、火氣である。ここで働いてゐる機關兵が、三時間の交代時間中に、各々何升かの水を飮むと云ふのも更に無理はない。

芥川が見た金剛のヤーロー式36基のうちの1つが、大和ミュージアムに展示されています。

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大和ミュージアムに展示の金剛のヤ―ロ―式罐

大和ミュージアムに展示の金剛のヤ―ロ―式罐

石炭を投入する焚火口が一つ開いています。焚火口の下の3つの長方形は、灰出し口だと思います。

続いて芥川は炭庫を見せてもらいます。

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まづ坑山の竪坑の底に立つてゐるやうな心もちだと思へば間違ひない。僕はごろごろする石炭を踏んで、その高い所にある電燈を見上げた。ぼんやりした光の輪 の中に、蟲のやうなものが紛々と黒く動いてゐる。雪の降る日に空を見ると、雪が灰をまくやうに黒く見える――あれのやうな具合である。僕はすぐに、それが 宙に舞つてゐる石炭の粉だと云ふ事に氣がついた。此中で働いてゐる機關兵の事を考へると殆ど僕と同じ肉體を持つてゐる人間だとは思はれない。
 現にその時も二三人、その暗い炭庫の中で、石炭をシヨヴルで下してゐる機關兵の姿が見えた。彼等は皆默々として運命のやうに働いてゐる。外に海があつ て、風が吹いて、日があたつてゐる事も知らない人間のやうに働いてゐる。僕は妙に不安になつた。さうして、誰よりも先きに、元の入口をボイラアの前へ這ひ 出した。が、ここでもやはり、すさまじい勞働が、鐵と石炭との火氣の中に、未練未釋なく續けられてゐる。海の上の生活は、陸の上の生活に變りなく苦しい。

芥川が見たのは、体験航海中ですから、巡行運転だった筈です。

全力運転だと

戦闘のために、全力発揮となれば、機関兵たちの職場環境はどうなったんでしょうか?

大正6年の9月10日に、金剛が豊後水道で全力運転試験をやった成績表があります。

大正6年金剛全力公試の成績表

大正6年金剛全力公試の成績表

 

6時間の平均で平均速力25.4ノットを発揮している事が判ります。この時、燃料消費量は毎時あたり石炭41.5tと重油10tだったことも。

金剛の罐は36基ですから、1基につき毎時1.15トンを罐に放りこんでやる必要があります。
毎分毎分19kgです。
自動投炭機もあったのですが、罐のなかで平均して効率良く燃やしてやるのは人力に依るほかなかったんだそうです。
蒸気機関車の例ですが、「30分で600kg」が投炭量の目安とされていたそうです。ほぼ同レベルなんですが、大変な重労働です。
蒸気機関車の機関助手は55歳で退職したら、平均余命が5年と言われていたそうです。

しかも石炭は燃えた後に灰が出ます。灰というよりはむしろ砂利です。
燃料炭は徳山の燃料廠で造られた練炭で、燃えカスはかなり少なくなっているんですけれども、灰分を5%としても毎時60kg弱、10%としたら120kgほどの熱せられた砂利が出てくることになります。
これを灼熱の罐から掻き出し、海水をぶっかけて冷やしてから艦外に放り出す必要もありました。

尚、金剛型が全力運転になると、通常3交代のシフトが2交代になった、と言う記録もあるそうです。

M33一等戦艦敷島黒い汚れは石炭搭載の跡

明治33年英国
一等戦艦敷島
黒い汚れは石炭搭載の跡

さらに、石炭は燃料補給の際にも苦労しなければなりませんでした。
画像は日露戦争時の一等戦艦敷島が英国で竣工した時なんですが、白い艦体を汚しているのは石炭の粉なんだそうです。

昭和初期に海兵団で訓練を受けた人の回想記から引用します。

我々が「八雲」での訓練中に燃料補給はなかったが、隣に碇泊していた「矢作」が補給作業をやっていたので、その様子を説明しよう。
低い石炭船の船倉から、外舷の高い軍艦に、すべて人力で積み 込むのであった。十メートルもある外舷に板で階段を造り、その一段ごとに兵員が腰を掛け、下の石炭船から丸い大きな竹籠にいっぱい石炭を入れては、次から 次と手送りで上に揚げるのだ。当然、頭上から石炭の粉末が降ってくるので全身真っ黒になってしまう。下の段に居る者ほど気の毒だ。たぶん新兵であろう。よく見ると顔の皮膚が荒れないように手拭いで頬かむりをし、白粉で化粧をしている。さらに眼鏡を掛け、口にはマスクを当てているが、なにしろ重労働だから汗 に粉が混じり、白と黒とがクシャクシャになっている。

1943、6月給油艦に横づけした潮

昭和18年、給油艦に横づけした駆逐艦「潮」

こんな燃料補給、とはいかなかったんです。

軍艦の燃料が石炭から石油に移っていくのは、熱量(同重量で石炭の1,5~2倍)の問題だけではなかったんですね。

この問題はすでに大正の中ごろから民間でも論じられていました。

当時の世界最大の産油国は米国なんですが、その米国を仮想敵としていた大日本帝國とその大海軍はどこから石油を持ってくるつもりだったんでしょうか?

以上、たまたま見つけた小学生の集合写真から巡らせた思いでありました。

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-帝國海軍, 燃料・動力
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