西郷隆盛

大津事件

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屈辱の長崎事件から5年。まだ清国への報復が済んでいないのに、またしても地名を冠した事件が、まだ弱小の大日本帝国を襲います。

大津事件です。
うち続く国難に、雄々しく気高き明治大帝と臣民たちは…

ロシア皇太子、日本訪問

誤解のないように、事件の起こった明治24(1891)年当時の日露関係について。
日本の外交関係は大津事件後に日清戦争、三国(仏独露)干渉、日露戦争と移って行きます。そのためか、この事件前からロシアと我が国は緊張関係にあったように思われがちですが、そんなことはありません。

友好関係にあったわけでも無いですけど。この当時の露日関係はラグビーで言えばトップリーグの中堅と関東社会人リーグ(トップリーグの下がトップイーストでさらにその下)の3部くらいの関係。

うむ、判りにくいですかな?野球ならプロリーグとそこら辺の少年野球以上の差でしょうね。要は眼中に無い、と言う関係です。

さて、その大ロシア帝国の次代を担う宿命のアレクサンドロビッチ・ニコライ2世皇太子(面倒なので以後はニコライ2世)は、容姿端麗にして優しい言動で国民からは大人気。

ニコライ二世

ニコライ二世
若い時は甘いマスクだったんでしょうね。

帝室バレエ団のプリマドンナ、クシェンスカと恋に落ちて逢引きを重ねるなどスキャンダルも起こす庶民派ぶりです(この辺りは日本でのニコライ2世の行状に関係しているような気がしますので、ご記憶のほどを)。

しかし父皇帝ニコライ1世は生来の優柔不断で実行力に欠ける、として厳しく帝王学を叩き込んでいるのでありました。

1891年の3月、皇帝ニコライ1世は皇太子に極東巡察を命じました。

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主な目的はロシアが国力を傾けて建設を計画していた「シベリア横断鉄道」の起工式への臨席です。
そのついでに、極東各国を視察させて弱冠24歳のニコライ2世に将来の帝王としての自覚を持たせ、同時にロシア帝国の力を世界に見せつけてやる、という「砲艦外交」の一面もありました。

ニコライ2世はアドリア海のトリエステ港(現イタリア、当時はオーストリア帝国領)から「極東巡察」に出発しました。従兄弟でギリシアの第二皇子であるジョージ(ゲオルギオス)親王を伴っての出港でありました。

ニコライ2世とジョージ親王の乗艦は旗艦「バーミチャ・アゾバ」。新鋭の軍艦7隻を率いてスエズ運河経由でインド、シンガポール、オランダ領東インド、フランス領インドシナ、香港と回り、最後の訪問国として日本が計画されていました。

ニコライ2世が出港したトリエステ港(当時はオーストリア領)

ニコライ2世が出港したトリエステ港(当時はオーストリア領)

日本では長崎に到着、およそ1ヶ月滞在し、九州、神戸・京都・琵琶湖など関西各地、東京そして青森を回る予定になっていたのです。
もちろん、日本を出るとウラジオストックに向かいシベリア鉄道の起工式に臨席することになっていました。

大日本帝国の対応

「ロシア帝国皇太子ニコライ2世訪問」の知らせを受けた日本ではさまざまな憶測が飛び交いました。

シベリア鉄道の建設はロシアの極東進出策の一面もあり(っていうか進出策そのものです)、皇太子の訪問は日本占領のための下見であるという説がまことしやかに囁かれるようになってしまいました。
西南戦争を生き延びて密かにロシアに渡った西郷隆盛が、ニコライ2世とともに帰国する、というデマも飛び交っていたのです。

大日本帝国は二十数年前には盛んに攘夷運動をやっていた国であり、今は必死に西洋列強をキャッチアップしようとしている国です。特にロシアは北辺で国境を接する超大国。
その超大国の次代の皇帝が訪問してくるのですから、嬉しさよりも恐怖が先行したのも当然だったでしょう。

ニコライ2世の座乗艦バーミチャ・アゾーバ

ニコライ2世の座乗艦バーミチャ・アゾーバ あらま、機帆船だったのね。

 

国家の正式な行事として明治天皇との面会をはじめ、宮中舞踏会などさまざまな歓迎式典が準備されました。
訪問先として選ばれた各地でも県や市をあげて失礼がないように、また皇太子を喜ばせるように様々な歓迎儀式が予定されたのでした。

もちろん事件や事故を未然に防ぐため厳重な警戒態勢も築かれました。

そしていよいよ明治24(1891)年4月27日午前9時。ニコライ2世とジョージ親王を乗せた「バーミチャ・アゾバ」は長崎に到着したのであります。

到着当日の昼過ぎには、ニコライ2世とジョージ親王が早くも「お忍び」で長崎に上陸しました。事前に通知を受けた日本側は慌てて警備体制を整えましたが、お二人は変装した上で人力車に乗り込んで長崎市内へ。

鼈甲屋、骨董品店、陶器店、勧工場(商品市場)などにお立ち寄りになって日本の珍しい商品を買い漁ったそうです。
日本の私服警官がニコライ2世たちと距離を置いて警戒していたのですが、店員や市民は正体には気づかなかったといいます。

ホンマかなあ?目立つと思うけどなあ。

この後、ニコライ2世とジョージ親王は毎日のようにお忍び上陸を繰り返しました。買い物中に見かけた女の子(もちろん日本人)に豪華な簪(かんざし)を買ってあげたり、写真店で人力車に乗った写真を撮らせたり、あげくは腕に龍の刺青を入れさせたり。

ニコライ2世とジョージ親王、写真館を訪れる

ニコライ2世とジョージ親王が写真館で撮らせた写真

大国の皇太子とは思えぬヤンチャっぷりですが、どうやらニコライ2世とジョージ親王は日本がお気に入りになってしまったようです。

5月3日、ついにヤンチャ王子たちはやってくれました。

この日の夕方、長崎県警に「芸舞妓5人が稲佐郷のロシア将校休憩所に招かれた」という連絡が入ったのです。稲佐郷と言うのは当時ロシア人たちが集中して居住していて、一種の「ロシア租界」となっていた土地です。
県警には皇太子と親王が、この夜稲佐郷に出向くことが知らされていましたので、県警関係者は一層の緊張を強いられる事になったのであります。
簪(かんざし)を買ってあげた「女の子」とは年齢の異なる「女の子」と戯れようというヤンチャ王子たちの目論見はミエミエでした。

芸妓さん

本文とは全く関係ありません

 

午後9時過ぎ、皇太子・親王以下10人ほどのロシア人が休息所にお入りになって宴会が始まりました。
ここにはウラジオストックで9年間暮らしたためにロシア語が堪能な、お栄さんという女性がいました。このお栄さんが皇太子を「懇ろに接待」する大役を果たしてくれたようです。
接待は長時間にわたり、ヤンチャ王子たちがアゾバ号に戻ったのは翌日午前4時ごろだったと言います。以降の呼び名は午前様王子。

5月4日午前10時、やっとのことで午前様王子一行が正式に長崎を訪問。

長崎訪問はまだ続きますが、面倒なんでもう割愛します。
ここまでで午前様王子が羽を伸ばして、はしゃぎまくってる様子がお判りいただけようかと存じます。
うるさい父皇帝から遠くはなれて、その気持ちも判らんわけではありませんが、接待側の迷惑など気にも懸けぬようにも思えます。大国意識丸出しかな。

まあ、いずれにせよ、王子サマたちが日本大好きになってしまったことは間違いないことでありました。

なんで鹿児島へ?

5月5日午後3時。午前様王子ご一行は要人や市民多数の見送りを受けつつ長崎を出航して鹿児島に向けて出港しました。

長崎から神戸や京都にも行く予定なのに、わざわざ遠回りして鹿児島へ?
これが後の不幸な事件の遠因となってしまうとも知らず、午前様王子たちは上機嫌で鹿児島へ向かいました。
午前様王子の父帝ニコライ1世はシーボルトと面会したことがありますから、鎖国下で西洋文明を必死に取り入れていた薩摩藩の事を、午前様にも話していたのかも知れませんね。

ところが、「恐ロシア」の幻影におびえる大日本帝国の臣民は思い込んでしまったのです。午前様王子の鹿児島生きには、一つの目的があるのだ、と。

西郷隆盛

西郷隆盛の軍服姿

「西郷隆盛生存・帰国説」です。西郷隆盛は西南戦争で死なず、ロシアに逃げ延びていた、午前様一行とともに帰国したのだ…

5月8日午前8時。アゾバ号が鹿児島港に到着。日本側は長崎と同様に官民挙げての歓迎ですが、めんどくさいので詳細は省略。

5月9日正午。アゾバ号が神戸に到着。夕方、神戸停車場からお召し列車で京都に向かい、18時20分京都七条停車場(現在の京都駅)に到着しました。多くの要人・市民の歓迎と、天皇警護に匹敵する大規模な警備体制が執られた中を人力車に乗った午前様王子一行は河原町三条の常磐ホテル(現京都ホテルオークラ)に向かったのでありました。

ディナーの時間に合わせて、特別に「五山の送り火」が焚かれ、山に浮かび上がった「大」や「舟形」に午前様たちは大感激したのでありました。
21時半、ニコライ2世とジョージ親王はお忍びでやっぱり祇園へ。
芸妓や舞妓との席で午前様は舞妓に刺青を見せびらかして2時までお楽しみになったのでした。

5月10日は朝から知事らの案内で用意された公式行事をこなします。とは言え、遅くなってしまったという理由で知恩院や清水寺の見学はパス。お疲れかと思いきや、夜には復活するのが午前様王子。
この夜もお忍びで円山へお出ましとなり、芸妓らと午前2時ごろまでお過ごしになったのでありました。

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5月11日8時半、一行は琵琶湖遊覧のため人力車で滋賀県大津市へ(大津は京都市に隣接してます)。
三井寺を見学後、汽船「保安丸」で琵琶湖遊覧したあと、「常磐ホテル」に帰るため四十両の人力車の列を連ねて滋賀県庁をご出発。

沿道には午前様皇太子を一目見ようと市民が押し寄せ、この日のために召集された滋賀県警の警官168人が十間ごとに並んで行列の進行につれて移動する警備ぶり。

護衛の犯行

やがて一行は繁華街の京町通り(現在はシャッター商店街)にさしかかりました。

大津事件の碑

大津事件の現場、碑も見えます。

 

沿道警備に当たっていた警官の津田三蔵は、自分の前を皇太子の人力車が通過するのを敬礼で見送りました。見送った後、やにわに持っていたサーベルを抜いて、皇太子に背後から斬りつけたのです。

大津事件のイラスト

ロシアのサイトからパクった大津事件のイラスト
史実と全然違うし。
すぐ近くに寺はねえし。

刃先は帽子を裂き、皇太子の右こめかみから前に傷を負わせました。
悲鳴をあげて逃げる午前様。犯人津田三蔵はさらに一太刀と人力車を飛び降りて西に逃げた皇太子を追いかけます。

ここでジョージ親王が人力車を降りて津田三蔵に立ちはだかりました。午前様の片割れのくせに、勇敢な親王です。その日に土産物として買って持っていた「竹杖」で応戦したのです。

一瞬ひるんだ犯人を、皇太子の人力車の車夫・向畑次三郎が足に組み付いて引き倒し、さらに親王の車夫・北賀市市太郎が津田の落としたサーベルで津田の背中に斬りつけました。そこにようやく周りの警官が集まり犯人を取り押さえることができました。

津田三蔵は西南戦争に従軍して勲章を頂戴し、これが彼の誇りとなっていました。
津田はニコライ2世が鹿児島へ立ち寄ったことから、西郷帰還の噂が真実であり、西郷を敵として戦った自分の勲章が取り上げられる、と思い込んでしまったのでした。

皇太子は数メートル先の「永井長助呉服店」に逃げ込んでおり、床机に座って手当てを受けました。
傷は頭部右こめかみに2ヶ所で、ひとつは前から後ろにかけて長さ9センチ、深さは骨に達し、もうひとつはその下で長さ7センチで深さが骨膜に達するほどの重傷でした。ただ、幸いにも命に別状はありませんでした。
ニコライ2世は手当てを受けながら
「今日、はからずも1人の狂人のために微傷を負いましたが決して貴国を悪くは思っていません。京都で2、3日治療すれば全治するでしょう。早く東京に出て天皇陛下にお目にかかりたい」
と語ったと言います。もう午前様王子、とか言うのはやめます。

事件はたちまち東京に伝えられました。
明治大帝は直ちにニコライ2世に遺憾の電報を打ち、さらにロシア皇帝にも親電で事件を報告しました。もちろん気になるのは親日的な王子より、冷徹にどんな出来事でも自国有利に使い倒す専制皇帝ニコライ1世の動向です。

大帝は皇族の代表として北白川宮親王を、宮内省の侍医局長・池田謙斎、海軍軍医総監・高木兼寛の2医師とともにお見舞いのために京都へ派遣。
その直後、大帝のもとに政府の重鎮が集合して御前会議が開かれました。
重くるしい空気の中で対ロシア政策が検討されましたが、有効な手立てなど有ろうはずがありません。

ひとまずは天皇より軫念(しんねん=天子が心を痛める)の詔勅が下り、深夜に臨時列車を仕立てて外務大臣・青木周蔵と内務大臣・西郷従道を京都へ派遣することになっただけ。また、政府は事件の重大さを考慮して新聞原稿の検閲を行うことにいたしました。

午後10時にはニコライ2世皇太子はロシアの侍従軍医長スミールノフの治療を受け、軽い食事をとって就寝。流石に芸者を上げる元気は無かったようですね。

大騒ぎ

5月12日になると明治大帝おん自ら、新橋駅午前6時半発の臨時列車で京都へ。大日本帝国・日本国の歴史を通じて天皇陛下が予定もなく出御された試しはこれ以前も以降もありません。

大帝がおん自ら動かれた故でしょうか、皇族・華族代表・元老・衆議院議員総代・全国の各県知事・東京市の代表などがお見舞いのため続々と京都へ向かいました。

この事件は新聞で一般市民にも伝えられました。
国民は自発的に見舞いの手紙や電報を大量に出しました。
寺や神社、教会などでは御負傷病魔退散の祈祷や長い祈りが捧げられました。
東京市内の諸学校は2日間の休学、東京米商会所・株式会所なども哀悼の意を表して休業、銀行は戦争勃発を恐れてか貸し出しを停止。

芝居小屋・相撲など諸興行物も休業、遊郭・茶屋・料理屋・芸妓なども鳴り物を慎んでの営業。山形県金山町では犯人津田三蔵と同じ「津田」姓と「三蔵」名を付けることを禁止。津田さんは苗字を変えさせられたんでしょうか?

松方正義首相は閣議を開き、犯人の津田三蔵を死刑にする方針をまとめます。

明治大帝の特別列車は午後9時15分に京都停車場に到着しました。
東海道線はまだ単線で、上り列車とのすれ違いが大変なのでしたが、鉄道マンたちは必死のやりくりでお召し列車をほとんど停車させず、通常の所要時間を3時間以上詰めていました。

大帝はロシア公使にすぐにホテルに見舞う旨を伝えたのですが、
「皇太子が天皇陛下のお見舞いを受けるとなれば正装してお迎えせねばならず、夜間のご静養中の身として誠に辛く、医官も心配です。どうかご慰問は明日に御延期いただきたく存じます」と断られてしまいます。

京都御所に一泊された明治大帝は翌朝、早速皇太子を見舞って朝食をともになされました。大帝は深く遺憾の意を表し、皇太子の回復後は東京へ来てもらいたい、とお告げになるとニコライ2世は
「陛下をはじめ日本国民皆に感謝している」との言葉を返されたモノです。
ところが、午後になると本国の母・皇太后の命令で皇太子は乗艦アゾバ号に引き返して静養、と決まります。

これには警備云々を超えた意味があります。

ニコライ2世の艦隊は、すべての艦が大日本帝国海軍の艦艇の性能を凌駕していました。即ちアゾバ号に乗られてしまうと、我が国にはニコライ2世の帰国を押しとどめる手段がないのです。

5月16日にはロシア皇帝の命令が来着し、予定をすべてキャンセルしてニコライ2世の帰国が決定します。帰られてしまうと戦争を仕掛けられる恐れは絶大です。

明治大帝は最後のお別れにと神戸御用邸での午餐に招待し給うのですが、警備への不安からロシア側がこれを辞退し、代りにニコライ2世がアゾバ号にと天皇を招待します。

アゾバ号以上の速力を持った軍艦は当時の帝国海軍にはありません。

もし陛下をお乗せしたまま、アゾバ号に出港されてしまえば大日本帝国に打つ手が無いのですが、明治大帝は一切構わず招待をお受けになりました。なんというご胆力でしょうか?

自決

大日本帝国臣民の自主的な「お詫び」は続いていて、ついに一種のピークを迎えることになりました。

5月18日の午後7時。京都府庁前で一人の若い女性が帯で足を結び、剃刀で自分の喉と胸を切り裂きました。
彼女は事前に府庁に遺書を投げ込んでいました。

日本国人の思ふ事小女に同じ故に、日本帝国へ此心をあらはす為此度に至り候間御察し被下度候

少女、とは「私」の事です。現代の我々から見ると少し意味が取りづらい文章ですが、「日本人の心は私と同じ。わたしの死を持って日本人の贖罪の気持ちを汲んで下さい。」

という事なのでしょうか。

女性は東京で住み込み女中をしていた畠山勇子(27歳)でありました。
日頃から政治小説や政治新聞を好む、当時の女性としては異様ともいえる女性で、変人扱いをされることも多かったようです。
大津事件の発生とともに「国家の一大事」としきりに嘆いたのですが、周囲には相手にされません。
しかしニコライ2世が帰国することを知って伯父の元に相談に行きます。「このままロシアに帰しては申し訳ない」と訴えるのですが、伯父にも施せる策がありません。「一介の平民女が何の役に立とうか」となだめる以外にありませんでした。

この自決は大日本帝国臣民を感動させ、盛大な追悼式が行われたほか、海外でも詳しく報じられたようです。国内では小泉八雲が「勇子、追想記」と言う一文を書くことになります。
畠山勇子のお墓は、京都市下京区の末慶寺というお寺にあります。

5月19日、ニコライ2世一行の乗るロシア艦隊はウラジオストックにむけて出港していきました。
が、日本にはまだ犯人津田三蔵の処罰問題が残されておりました。

処罰

政府筋では、ロシア皇帝の怒りを恐れるあまり、犯人津田三蔵を死刑にしたかったのです。しかし、津田の犯罪は傷害にしかすぎません。
そこで津田に対して刑法第73条の
「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス」
を適用しようとしたのです。拡大解釈もいいところですが、司法の独立が担保されていない当時のこと、裁判官には大きなプレッシャーです。

新聞各紙もこれに同調して、「津田三蔵死刑」の大キャンペーンを張ります。

しかし、大審院長(最高裁裁判長)児島惟謙は圧力に屈しませんでした。児島は首相・法相あてに「謀殺未遂罪」の適用を上申。ちゃんと地ならしをした上で大津地裁での大審院公判に臨み、無期徒刑の判決を下したのでありました。

児島惟謙

児島惟謙

この公平な判決は海外、特にロシアで好感もって迎えられることとなりました。
それを知ると新聞各紙は手のひらを返して児島惟謙大審院長を褒め称えたのでありました。マスゴミの歴史は古いんですね。

5月末には事件で延期・中断していた各地の行事・式典・祭りなどが再開され、ようやく大日本帝国は日常を取り戻したのです。

9月29日には北海道釧路の監獄で津田三蔵が肺炎で死去。

長崎事件との差

数年まえの長崎事件と同様に、弱小の大日本帝国はまたしても明治大帝の果断とご指導によって救われることとなりました。

もちろん臣民たちの国を思う一途な気持ちも見逃すことは出来ません。

両国ともに我が国を威嚇するための「砲艦外交」であったことは間違いありませんし、支那、ロシアどちらも優にわが国を奪い取るだけの能力を持っていましたが、その対応は全く異なっていました。

何とかイチャモンを付けて戦争を引き起こそうとはやり立った支那。
皇太子に傷を負わされながらも、冷静に我が国の対応を見極めていたロシア。
日本は不幸にもこの両国と戦争をすることになってしまうのですが、ロシアとは戦争が終わった後は「蜜月」と言っても良いような良好な関係が出来上がります。
「蜜月」は第一次世界大戦中にロシア帝国が滅びるまで続いたのであります。電脳大本営が時おり「第一次大戦への陸兵派遣を拒んだことが、大東亜戦争敗戦の遠因」と申し上げる所以であります。

支那は日本に敗れるとズルズルと衰退し、ついに大東亜戦争終了後まで統一政権さえできない混乱へと落ち込んでいったのでありました。

わが国には「おそロシア」っていう言葉が伝統的にあるように、「ロシアは恐ろしい国」と言う感情が私たちを支配しています。
でも、その恐ろしさは「話せば判るもの」と言えないでしょうか?
もしくは「理屈が通じる相手」ではないかと思うのです、限定的ですが。

一方の支那は話も判らず、理屈も通じない、いわば基地外民族。

戦争は、敵を一つずつ片づけていかなければなりません。

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