秋津洲艦型図1

世界で唯一?飛行艇母艦「秋津洲」

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大日本帝国海軍が、技術的に世界を圧倒していた分野があります。潜水艦?いえいえ、違います。水上機、それも大型の飛行艇であります。

飛行艇で漸減作戦

二式大型飛行艇とライバルのPBYカタリナと比べるまでもないような性能差でありますが、一世代前の九七式大型飛行艇でもカタリナよりずっと上の性能なのであります。

二式大艇一二型 PBYカタリナ
全幅 38.00m 31.7 m
全長 28.13m 20.1 m
全高 9.15m 6.2 m
自重 18,400kg 9,500㎏
最大重量 32,500kg 不明
最高速度 470km/h 280 km/h
航続距離 8223km 3,790 km
武装 20mm機関砲×5、7.7mm銃×4 12.7mm銃×2、7.7mm銃×3
爆装 最大2トン 最大1.8トン

(Wikiより転記)

武器の優劣と言うのは、この表のようなおもてに出てくるスペックだけで決まるものではありませんが、我が大型飛行艇は防御力・機動性・安定性・離着水性能など、どれをとっても列国の飛行艇を凌駕しており、陸上機さえも上回るほどだったのであります。

二式大艇

二式大艇

大日本帝国海軍はこのアドバンテージを十分に活かす作戦を検討しておりました。

海軍大学校

海軍大学校

海軍大学校が昭和11年に軍令部に提出した「対米作戦用兵ニ関スル研究」と題する文書に
「開戦前敵主要艦艇特ニ航空母艦ALニ在泊スル場合ハ敵ノ不意ニ乗ジ航空機(空母艦載機並ニ中艇、大艇)ニ依ル急襲ヲ以テ開戦スルノ着意アルヲ要ス」
とあるのです。ALは真珠湾のことです。

あれっ?真珠湾攻撃は山本五十六ー黒島亀人ラインの独創じゃねえの?
違いますよ!ちゃんと文書が残ってるんですから。

紀元2600年大観艦式の上空を飛ぶ九七式大型飛行艇

紀元2600年大観艦式の上空を飛ぶ九七式大型飛行艇

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海軍の対米作戦計画はフィリピン救援に出撃して来るアメリカ艦隊を、潜水艦・航空機・水雷戦隊の攻撃で徐々に勢力を削ぎ、帝国海軍主力の待ち構える戦闘水域で完全に撃滅しようというものでした。
敵主力が真珠湾から出てきてくれないとその作戦の実行が出来ませんから、航続力の大きい飛行艇を使って突っついてやろうって事です。

九七式飛行艇

飛行中の九七式

この文書は後段で「而シテ現状ニ於テハ大艇、中艇ハGK(マーシャル諸島)東端付近ヨリ出発シ予メ洋上静穏ナル地域ニ配備セル水上機母艦ニ於テ中継補給ヲ行フ等ノ手段ヲ講ズルヲ要ス」と述べています。

離水寸前の2式大艇

離水寸前の二式大艇

この中継補給用の水上艦艇こそ、世界で唯一の飛行艇母艦「秋津洲」であります。「潜補型」(伊三百五十一型/建造一隻のみ)と言う補給用潜水艦もありましたが、就役が昭和20年ですのでここでは触れません。なお、潜水艦を補給に使った水上機の作戦は「R方面航空隊」の記事で少し触れております。

類別は水上機母艦ですが

大日本帝国海軍はこうして「飛行艇母艦」の整備を志したのであります。

ここで、水上機と飛行艇の違いをはっきりとさせておかなければなりません。

水上機とは水面に浮かぶことが可能で、水面から離水したり水面に着水することが出来る飛行機です。飛行艇だって水上機の一種なんでありますが、機体の下に別体の浮舟(フロート)を持たず、胴体を直接水に浮かべるタイプの水上機を特に「飛行艇」と言います。
したがって単に「水上機」と言えば、陸上機の降着装置の代わりにフロートをぶら下げた飛行機と考えて頂ければ宜しいのです。

零式観測機

水上機の代表格、零式観測機

水上機はフロートをぶら下げている分、余計な空気抵抗があって艦上機(「水上機も広義の艦上機ですが)や陸上機に比べて各種の飛行性能は劣ってしまいます。ところが飛行艇なら陸上機並みに「胴体だけ」ですから、余計な空気抵抗の心配はありませんね。機体下部をボート型に整形しなけりゃいけませんから、多少のハンデはありますが。

ところが、水上機に比べて利点のある飛行艇なんですが、エンジンが水をかぶる危険があるのです。エンジンをなるべく高いところに置いてやる必要があるんです。
その為に「小型の飛行艇」と言うものは実現が非常に難しかったのです。

川西11試夜偵不採用ガルウィング・翼端引き揚げ

水上機の川西の意欲作、11試夜偵。
ガルウィング・翼端のフロートは引き揚げ式。陸上ではこんなにカッコ良い。

 

一般的に飛行艇はパラソル翼が使われますが、これも翼に取り付けたエンジンをなるべく水から離すため。我が九七式大艇もパラソル翼ですね。
二式大艇は高性能を狙って各種の工夫で水の跳ね上がりを抑え、背の高い胴体に肩翼形式で主翼を取り付けて空気抵抗を減少させたのであります。

水上ではこの不安定ぶり、結局不採用

水上ではこの不安定ぶり、結局不採用

さて、長大な航続力を誇る「大艇」ではありますが、さすがにマーシャル諸島からハワイまではさらに遠い。中継基地が要るわけですが、我が国の勢力圏には適当な島もない。我が勢力圏で最もハワイに近いのがマーシャル諸島なんですから当然ですけど。

そこで「飛行艇母艦」を「洋上静穏ナル地域」に配置して中継基地代わりにしようというワケですね。この場合、搭乗員たちの休養も大切ですし、機の整備も必要になるかも知れません。つまり、艦上に巨大な「大艇」を引き上げることが出来ねばなりません。

実は、大日本帝国海軍の艦艇類別に「飛行艇母艦」はありません。この記事の主人公「秋津洲」も「水上機母艦」に類別されています。ただ、多くの水上機母艦の中で、飛行艇を甲板に乗せる能力があったのは「秋津洲」だけなのです。故に、電脳大本営では特別に(勝手に)秋津洲を「飛行艇母艦」に類別しているのです。

航空母艦だってそうですが

類別はさておき、大日本帝国海軍は昭和14年の計画で「飛行艇母艦」の建造に取り掛かったのであります。
まったく新しい艦種ですから、造兵側もいろいろと悩んだようです。結局3つの案が最終的に比較検討されました。

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大型案 秋津洲 小型案
排水量(基準) 11000トン 4650トン 2350トン
全長 173メートル 114.8メートル 97メートル
速度 25ノット 19ノット 20ノット
航続力 8000カイリ 5000カイリ
搭載機 飛行艇4+水上機4 飛行艇1(停泊時のみ)
燃料(補給用) 1200トン 689トン 458トン
魚雷(補給用) ナシ 36本 ナシ
800キロ爆弾(補給用) 52個 30個 16個
500キロ爆弾(補給用) 80個 15個 8個
250キロ爆弾(補給用) 152個 100個 54個
50キロ爆弾(補給用) 144個 100個 30個

実はこの年、海軍は水上機母艦「神威」を飛行艇母艦に試験的に改装しています。「神威」は元々は電気推進の実験艦を兼ねた給油艦として建造されたフネで、排水量1万トンありますから規模としては大型案相当です。

1937の神威

神威(昭和12年)

その「神威」でも飛行艇母艦に必要な装備を積み込むと、搭載機を降ろし完全な「航行できる補給基地」と化してしまいました。この経験があるんだから、比べるまでもなく大型案一択だと思うんですが、艦政本部の結論は大型案と小型案の間で中型の艦形となりました。

航空母艦や潜水母艦、もちろん水上機母艦にも言えることですが、航空隊や潜水隊の司令部を収容して機能させ、乗員の休養施設を備え、しかも整備をしてやるだけの設備が必要です。小さなフネでは実現できないのであります。

「秋津洲」の場合、複数(計3隻の計画)建造しなければ大艇のハワイ襲撃が出来ないとされていましたので、大型艦が出来なかったのかも知れませんけど。
電脳大本営としては、福田啓二造船中将(平賀譲に代って造船官のトップに君臨していました)が排水量3万トンの巨大飛行艇母艦を提案しており、これを採用して欲しかったなあ、と思いますね。いざとなったら空母に改装できるようにしてさ…

空母への改装ってのは、甲板はともかく艦内設備を考えると飛行艇(水上機)母艦が一番理に適ってると思うんですよね。

「秋津洲」の誕生

昭和15年10月29日、「秋津洲」は神戸川崎重工業で起工されました。正式な命名は半年以上あとですけど。同時に水上機母艦に類別されています。 昭和16年7月25日に進水、昭和17年4月29日竣工。
残念ながら、真珠湾攻撃は艦載機だけで立派に遂げられた後でありました。

飛行艇母艦秋津洲昭和17年4月公試中

飛行艇母艦秋津洲
昭和17年4月公試中

初代艦長は黛治夫大佐。黛は砲術の大家とされ「大和」の副長も務めてきた大物であります。飛行艇母艦の艦長はいささかお門違いのような気もしますが、海軍の秋津洲に寄せる期待の大きさが判ろうというものであります。

黛治夫

黛治夫

この期待に応えるかのように4月21日、神戸沖で公試を行っていた秋津洲は米軍のB25中型爆撃機を発見。黛艦長お得意の砲撃で撃退!と報告しています。
あれっ?ドーリットル空襲って4月18日じゃなかったっけ?これは完全な誤認・誤射。
まあ、黛艦長は「秋津洲」を特徴付ける迷彩塗装の発案者で、厚化粧と揶揄されながらも改めなかった気骨の人でもあるので、大目に見てやってください。

黛艦長はちょっと置いときまして、完成した『秋津洲』には飛行艇を運用する航空隊の司令室をはじめ、航空隊員士官・准士官の居室、兵員室が設けられています。
整備能力としては電気・機械・木工などの工場があり、発動機調整所・兵器調整所・計器試験所など「航空機工作艦」としての体裁もちゃんと整っておりました。

さらには前線に単艦で進出する事を考慮し、移動飛行艇基地としての通信能力も重視されていました。「秋津洲」の特徴である艦尾のジブ・クレーンには無線空中線支塔が設けられていて、クレーンが起倒旋回して十分な長さの空中線を展張できるようになっています。

艦内でも艦橋内に広い通信指揮所兼受信室、気象作業室などが準備されていました。

秋津洲艦型図1

秋津洲艦型図1

糧食や真水などの生活必需品も大量に積み込んでいました。その量は10名から13名の乗員がいる飛行艇8機を、2週間程度まで独力で支援できるだけの物。つまり自艦の乗員(竣工時で350名ほど)以外に百数十名(司令部要員がいますから)の生活を支えるだけの補給物資を積んでいるのです。

飛行艇の攻撃用の補給物資は上の表の通りで、飛行艇8機が5~6回の出撃を繰り返せるだけの搭載量でした。

これだけの設備と搭載量を、よくぞ軽巡洋艦並みの船体に詰め込んだものです。

さらに、「秋津洲」はちゃんと自重31トンに達する二式大艇を、一機だけですが艦上に引きあげることが出来たのです。まあ、かなり傾いたようですけどね。しかも航行すると不安定なんで、停泊してるときだけですけどね。

表立った戦果はありませんが

連合艦隊にはいった『秋津洲』は南方に進出し、マーシャル諸島で第一四航空隊(飛行艇部隊)の支援に従事しました。

米軍のガダルカナル上陸に伴う攻防戦がはじまると、ソロモン群島のショートランド泊地、ブーゲンヴィル島ブカなどに進出してガ島攻防を支援(R方面航空隊の記事をご参照ください)。

昭和18年にはいり戦況が徐々に悪化して制空権を喪失すると、いくら高性能を誇るとはいえ、二式大艇の運用は難しくなってしまいました。秋津洲の飛行艇母艦としての必要性も薄れてしまいました。

そのため、魚雷艇4~6隻を輸送できるよう小改装が施されたほか、兵員輸送などの業務につかわれるようになって行きました。

飛行艇母艦という本来の役目を奪われ、代理輸送艦として雑多な任務を(輸送艦の任務も重要なんですが)果たしていた「秋津洲」に、ようやく活躍の場が与えられるのは昭和19年3月まで待たねばなりませんでした。

この月、工作艦「明石」が撃沈されてしまったのです。「明石」は苦戦を続ける連合艦隊にはなくてはならぬ補助戦力でしたが、護衛もなく航行させられていたのです。「秋津洲」は艦内の大きな工作能力を活かし、工作艦の代用とされることになったのでした。

工作艦明石

工作艦「明石」

「秋津洲」はいったん内地に里帰り、呉で工作艦としての艤裝工事を行なうと勇躍、再び前線へと向かいました。

しかし9月24日。フィリピンのコロン湾において米空母機の攻撃を受けて沈没してしまいます。
世界唯一の飛行艇母艦「秋津洲」はわずか2年5ヶ月しかない生涯を終えたのでありました。

世界で唯一か

既に申し上げたように、大日本帝国海軍における「秋津洲」の類別は水上機母艦でありました。電脳大本営の知る限り世界の海軍でも正式に「飛行艇母艦」と類別された軍艦はありません。
我が国ではあまり知られていませんが、世界一の陣容を誇ったアメリカの水上機母艦でも「カタリナ」を艦上に引きあげて支援していたわけじゃありません。

それに対して「秋津洲」は戦場で二式大艇を艦に乗せており、電脳大本営が勝手に「世界で唯一の飛行艇母艦」と認定しても、だれからも文句は出ないのでありますが。

しかし、お邪魔虫が一匹いるんですよ。盟邦ドイツなんですけどね。3機も艦上に上げとる!

飛行艇母艦ブッサルド

飛行艇母艦ブッサルド

此奴の類別は「カタパルト艦」と言うらしいですけどね。悔しいったらありゃしない(笑)

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