日露戦争、騎兵の襲撃を撃退

日露戦争、もう一人の東郷

スポンサーリンク

日露戦争では多くのロシア将兵がわが国の捕虜になりました。

わが国は国際法に定める以上の待遇でロシア将兵を扱い、ついには敗北したロシア兵は「マツヤマ」(松山収容所が最も有名だった)と叫びながら投降した、と言われるほどになりました。

日本の将兵も捕虜になった

戦争は相手があるものですから、当然日本軍にもロシアほどの人数ではないものの捕虜はでました。

海で

まず思い当たるのが「常陸丸事件」でしょう。

開戦直後の明治37(1904)年6月15日、玄界灘を大陸に向かっていた陸軍の徴傭運送船「常陸丸」と「佐渡丸」がロシア・ウラジオストック艦隊の装甲巡洋艦「ロシア」、「リューリク」、「グローモボイ」に捕捉され、それに先立って広島に向かっていた「和泉丸」も沈められてしまいました。
*ウラジオ艦隊の艦名を覚えといてくださいね*

新造時のグローモボイ

新造時のグローモボイ

乗船していた英国人船長をはじめとする士官の多くは戦死または自決しましたが、多くの捕虜が出ています。

「常陸丸事件」以前からウラジオ艦隊は暴れまわっておりまして、4月25日には海軍の御用船「金州丸」が襲われて降伏交渉の行き違いから船員・下士官・兵卒ばかり76名が戦死、交渉のために露艦に赴いていた士官全員が捕虜になる、と言う痛恨事も起きています。

また、旅順港閉塞作戦でも捕虜が出ています。

陸で

陸戦においては、もちろん海戦よりも捕虜になってしまう機会が多くなります。

スポンサーリンク

特に日露の対戦では「奉天大会戦」の最中とその後に、わが国の捕虜が多くなってしまいました。
奉天大会戦そのものがかなりムリをした戦いでしたし、その後はミシチェンコ中将のコサック騎兵隊による機動戦が活発化して、小部隊が襲われて部隊ごと捕虜になってしまう事例が出てきたことによるものです。

代表的な人を紹介しましょう。村上正路(むらかみ まさみち)大佐です。

第7師団隷下の歩兵第28連隊長として旅順攻囲戦に参加。
明治37(1904)年11月30日、他連隊の兵も含めた志願部隊を率いて203高地の頂上の奪取に一時的ではありますが、成功しました。
この功績で乃木希典第3軍司令官から感状が授与されています。

31年式速射砲

31年式速射砲
日露戦争の主力砲でした。

これほどの指揮官でしたが、奉天大会戦中の明治38(1905)年3月10日、森林内での乱戦(かなり不利な状況だったようです)で負傷しロシア軍の捕虜となってしまいました。

捕虜の数は数え方にも(開戦直後の民間人などを入れるか入れないか、等)よりますが、ポーツマス条約によって解放されわが国に帰ってきた人数は2000名に上ります。
*2000名の内訳は概算で陸軍1500名、海軍20名、軍属240名、商船員160名など*
この他にさまざまな事情で、戦争中に解放・奪還された人もいます。たとえば旅順に囚われて、陥落で救い出された兵士などです。

もちろん、わが国が得たロシア将兵の捕虜には比べ物にはなりませんが、少なくない数の皇軍兵士が捕虜になっていたのです。

露都の近くで

これらの皇軍兵士たちは、移動が困難だった重傷者を除いては一箇所の捕虜収容所へ送られました。

日本軍将校が収容された建物

日本軍将校が収容された建物

当時の露都、サンクトペテルブルグの南方200キロほどのところにある、メドヴェージと言う村にその捕虜収容所は作られていました。
メドヴェージ村を駐屯地とする連隊が満州に行っており、その兵舎を利用できたためとか、捕虜たちにロシアの広大さを見せつけるためとか、首都の近くで管理が行き届くからだとか、なんでメドヴェージ村だったかはよく判りません。

判りませんが、ともかく皇軍兵士はメドヴェージ村での捕虜生活を送ることになったのです。

メドヴェージ村の捕虜収容所の内部は捕虜たちの「自治」が行き届いていました。

兵・下士官の収容施設

兵・下士官の収容施設

前出の村上大佐が最も高位だったために、日本兵捕虜たちの「首長」を務めていました。

私たちは、大東亜戦争に紛れ込んで火事場泥棒を働き、シベリアで日本人を虐待したソ連の記憶がありますので、「さぞ悲惨な生活を」と思ってしまいますがどうもそんな事は無かったようです。
ロシア帝国はわが国ほどではありませんでしたが、人道的と言う以上の待遇をしてくれていたようです。

たとえば一番肝心の食事を見てみましょう。時期によって変動が有るのですが(基本的に後になるほど質も量も良くなります)、半白パン3斤・角砂糖3個半・野菜入りのスープ・蕎麦飯・牛肉110gとお茶。これが下士官・兵に与えられた一日の食事。
肉の量はどうやら日露両国で示し合わせていたような感じです。

半白パンがどんなモノか良く判りませんが、一日にパン3斤は普通の日本人には多過ぎるんじゃないでしょうか?
捕虜の中の代表(海軍中尉・櫻井久我治)がロシア側と交渉して、パン代の一部を現金で受け取り、野菜類を購入できるようになったようです。

将校用施設内部

将校用施設の内部

お酒も当初は禁じられていましたが、天長節(11月3日)等にはビールが支給されるようになりました。
日本人には寒過ぎる気候に捕虜たちは不満もあったようですが、寝具や衣類も不足なく支給されていました。
3ヶ月もかかりましたが祖国との通信も許されていたので、日本と手紙のやり取りも出来たのです。

スポンサーリンク

特別待遇

ただ、情報の取得や退屈しのぎには苦労したようです。

一般の兵士たち(将校も含めて)はほとんどの人がロシア語を解せず、新聞や雑誌を読むことが出来ませんし、そもそも新聞や雑誌の入手も制限されていました。

これは治安維持を考えれば、ロシア側からすれば当然と言えましょう。

同様の理由で外出も規制され、一日の散歩時間や行動範囲も階級によって細かく制限されていたのです。士官であっても散歩は週に数回、買い物に行くのも苦労していたようです。

捕虜である限り、村上大佐であってもそれは同様。一般の兵士たちよりは自由が利きましたが、全く自由な行動が出来たわけではありません。

ところが、メドヴェージ捕虜収容所に収容されていた日本人捕虜の中で、ただ一人特別待遇を享受していた将校がいたのです。

外出時間も範囲の制限も無し。生活する部屋さえ他の収容者とは異なり、だだっ広いワンルームを幾つかに仕切り、キッチンや客間も備えていました。

それどころか、「奥様」同伴でお手伝いの女性まで伴っていたのです。

夫婦で捕虜に

それは東郷辰二郎少佐、陸大出のエリート軍人です。なんと開戦直後にロシアに囚われた「捕虜第1号」です。

中朝国境の義州総領事館付き武官で、どうも情報収集に当たっていたように思われるのですが、捕虜になった経緯は諸説あってはっきりしません。

①情報収集と居留民避難に当たっていたところを、ロシア騎兵部隊の包囲を受けて降伏

②より多くの情報を得るために、通訳の女性(佐々木フミ;東郷少佐の妻名目)と下女・吉村トクを同行させて自らロシア軍に赴いた

というのが主な説なんですが。
①説だとロシア側が東郷少佐だけ厚遇する理由がさっぱり判りません。
②説ならロシア側が「内通者」と解釈して厚遇するかも知れませんが、それなら捕虜収容所に入れませんよね。

東郷少佐は村上大佐に次ぐ「捕虜部隊の副指揮官」として捕虜たちにも大きな顔をしているのです。
それでいて、自分だけ「妻」同伴,それもお手伝いさん付き。
私は東郷少佐の食事内容の資料を持ちませんが、他の捕虜たち(将校と兵には差がありましたが)と同じとは思えません。自分だけ良いモンを喰ってたんじゃないでしょうか?

大東亜戦争とは違って

捕虜になる、という事は祖国の存亡を賭けた戦いで、少なくとも一時的に不利な状況となってしまったことを意味しています。
海軍なら戦闘艦艇ではないにしても乗艦を沈められている可能性が高いです。

捕虜たちはその責任感に悩まされ、鬱屈した精神状態に追い込まれた人もいたようです。
しかし、あくまでも表面的には、ですが結構気楽に異国の捕虜生活を楽しんだ人の方が多いように思われます。

たとえば、将校捕虜たちはそれぞれの国の相当官の(日本人の捕虜が少尉なら、ロシア軍の少尉の)給料分の手当てを支給されていたのですが、これでは少ないとの苦情を日本の外務省宛に出しているんです。
自分たちの不満だけではなく、兵は日用品を買う手当てを貰ってないので何とかしてやってくれ、と言う要求も一緒にしていますが。
住居・食事つきで敵国で暮らしているのに、金は最低限でええやろ!と思ってしまうのですが、外務省は外務省で真面目に対応しました。

アメリカ政府にこのことを伝え、日本におけるロシア兵捕虜の待遇を知らせ、ロシア政府に「ウチの捕虜にも良くしてやってくれ」と要求して貰ったのです。

ロシア外務省も律儀なもので、すぐさま陸軍大臣に伝達し兵卒にいたるまでの待遇が改善されたことがあります。

国のためになすべきことはやったんだから、捕虜になったことなどいささかも恥じてはいないように思えます。

大日本帝国としても「捕虜になるな」とは思っていなかったようです。
メドヴェージ捕虜収容所への手紙の出し方をわざわざ官報で紹介し、各メディアもそれを転載したりしているのです。

帰国の途上

やがて戦争は日本の見事な勝利で終結、捕虜たちは帰国できることになりました。
帰国ルートはヨーロッパを経由することになり、まずはドイツへ。

ドイツ皇帝と皇后両陛下よりねぎらいの御言葉とチョコレートや煙草の下賜を頂戴しています。
民間人も歓迎してくれ、観光に連れて行ってくれたりしています。
その民間人の内の一人が、第一次大戦で青島におり、陥落と同時にわが国の捕虜になる、と言う因縁もあるのですが、名前を失念してしまいました。

でも、因縁と言えばコチラの方が爽快でしょう。

帰国の途中、セイロン島コロンボにて

帰国の途中、セイロン島コロンボにて歓迎式典

捕虜たちは2隻の客船に分乗して日本に向かいましたが、途中でセイロン島に立ち寄りました。
日露の海戦史に詳しい貴方!ピンと来たんじゃないですか?

そうですよ、「常陸丸」と「佐渡丸」「和泉丸」「金州丸」などで捕虜にされた人々にとって、恨んでも恨みきれないウラジオストック艦隊。

振り回していた上村第二艦隊についについに補足されて、「リューリク」は撃沈され「ロシア」「グローモボイ」はボコボコに。
ほうほうの体で逃げていったのがセイロンです。修理は出来ていませんでした。

自分たちの乗った非武装船を撃沈し、捕虜にした敵艦の悲惨な姿。
これこそ長くヨーロッパロシアで苦労した人たちにとって、最高のプレゼントではなかったでしょうか。

帰国しても差が

戦争中は捕虜に対して寛大なところを見せた大日本帝国でしたが、彼らが帰ってくると厳しさを見せます。

捕虜代表だった村上大佐は俘虜審問委員会の取調の結果、
「敵弾に倒れ、人事不省に陥って敵手に落ちた」
と判定されました。
勇敢に戦った結果だとして軍法会議に付されることはなかったのですが、第7師団司令部付を経て休職、1907年2月27日には後備役となってしまいました。
要はクビ、ですね。

第7師団司令部付の時代には、下級将校が敬礼をしてくれませんでした。
また、明治43年(1910年)には本籍地を山口県から兵庫県に移しています。
なんとなく捕虜経験者に対する差別を感じさせるじゃありませんか?

ところが、です。
特別待遇を受けていた東郷辰二郎少佐の方は、いったんは「連隊付き」の辞令を貰いますがそれ以上のお咎めは無し。
陸軍少将になってすぐに退役したんですが、大佐の定年までは充分に余裕のある年齢でした。
そもそも東郷「少佐」は陸大2期卒、同期生が3人も陸軍大将になっています(菅野 尚一、鈴木孝雄、森岡守成)。東郷辰二郎はその3人にも劣らぬスピードで中佐、大佐と昇進を重ねているのです。

東郷辰二郎は病気(痛風)だったみたいです。その療養のための退職だったようなのです。

病気で前途をたたれたものの少将にまでなった、公式には何の功績があったか判らない東郷少佐。
乃木将軍から感状が出るほどの勇戦の士であり、捕虜収容所では良く部下を統率して母国へと無事に帰還させた村上大佐は…

日露戦争の捕虜は「光」だけではありませんでした。

スポンサーリンク

-人物, 帝國海軍, 帝國陸軍, 政策・戦略・戦術
-, , , , , , ,