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防共と望郷~今村方策大佐、支那に死す~

2017/05/19

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昭和20年の8月15日、大日本帝国の敗北で大東亜戦争は終わりました。
しかし、樺太で、千島列島で、満州でなお国民を守って絶望的な防御戦を続けてくれた部隊があったことは、みなさん良くご存じのことと存じます。

共産軍を防ぐため

同じ大陸でも、支那本土はソ連軍の侵攻もなく、占領地の治安も悪くなく、軍人・居留民の引き上げは比較的穏やかに行われたとされています。

しかし、国民党政府と共産党は「抗日」で連携していたとは言っても敵対関係にあり、国民党政府そのものも地方軍閥の寄合所帯でして、蒋介石に反旗を翻す機会を狙っている者がゴロゴロいるのが実情でした。支那国内は今からでは想像できないほどの混乱状態にあり、日本人も支那人も日本軍の武力で平穏な日常生活が維持されていたのが実情なのです。

3式中戦車

3式中戦車

そんな事情に流されながら祖国日本の将来のために、共産主義の拡大を防ぐために、敗戦後も戦い続けた人々がおられました。
この記事は孤立無援のなかで見事に指揮を執った大佐と、その人たちをほとんど騙して「残留」させた卑怯者どものお話であります。

舞台は北支、北京にほど近い山西省は太原の周辺であります。
ここには北支那方面軍(下村定大将)隷下の第一軍が駐屯して、国民党の閻錫山率いる山西軍、支那共産党の八路軍と対峙していました。

第一軍の司令官は澄田賚四郎(すみだ・らいしろう/「らい」は貝へん+来の旧字体ですが、この記事中では「賚」で代用いたします)中将、参謀長は山岡道武少将。

第一軍の上級部隊は北支那方面軍(在北京、下村定中将)さらに上は支那派遣軍(在南京、岡村寧次大将)で、隷下には第114師団、独立混成第3旅団、独立歩兵第10旅団、独立歩兵第14旅団、第5独立警備隊と砲兵大隊1個他、といささか寂しい内容でした。

第一軍は兵員数10万に迫ることもあったのですが、大東亜戦争の戦勢が傾くにつれて部隊を南方へ引き抜かれてしまい、敗戦時は兵員数5万名あまりで要地を確保していました。

山西省は「先進工業地帯」だった

山西省は辛亥革命いらい、閻錫山(えん・しゃくざん)という軍閥が勢力を張ったところでした。紆余曲折はありましたが、閻錫山は蒋介石の国民党政権に従うフリをしながら、独立王国を形成しようと努力を重ねていました。

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敗戦時の山西省

敗戦時の山西省

閻錫山は、形の上では日支戦争で日本軍に追い払われたことになっていますが、実態は現地の第一軍とは水面下で仲良くしている、という関係でした。共通の敵は支那共産党(八路軍)のゲリラどもです。

閻錫山を支えたのは、山西省に眠っている豊富な地下資源でした。資源が有れば先進工業国から投資があり、工場も進出します。先進工業国とは、大日本帝国のことであります。

閻錫山はこれを利用して、自分の配下に武器を供給する軍需工場まで建設していました。
大日本帝国の敗戦の時点で、支那国内で他省に製品を出荷できるのは山西省だけ、と言われていたのです。

なかでも太原には、東洋紡・浅野セメント・大倉商事・東亜煙草などの日本企業が進出していましたし、華北交通の社員もたくさんいました。
太原にはまた、重工業・軽工業の工場を一手に握り、34の会社を統括経営する国策会社の「山西産業株式会社」がありました。
この会社は山西省の豊富な地下資源をすべて押さえていました。これらは、山西に日本軍が侵攻したとき閻錫山が残していったものですが、そのあとは軍が管理していたのです。
軍の管理では効率経営に限界があり、いったんは各財閥の共同経営となりましたが、それでは軍の思うような製品の製造が出来ず。

ついに満洲からあの河本大作を呼び寄せて経営にあたらせることになったのでした。

95式軽戦車、戦後撮影

95式軽戦車、戦後撮影?

日本軍が占有していたこうした山西省すべての重要施設は、日本の敗戦で閻錫山軍が接収しました。しかし、これらの施設をちゃんと動かし生産を続けることは支那人にはできませんでした。
日本の技術者なしではやっていけないことは、閻錫山にはよく理解できていたのです。

山西産業も支那側に接収されて西北実業公司と名前を変えたのですが、河本大作は閻錫山から、従来どおり経営してほしいと依頼され、総顧問に就任しています。そして戦前同様に実権を握っていました。

河本大作

河本大作

山西省の在留邦人の要になる組織は「太原日本居留民会」でしたが、河本はその会長も務めていました。
在留邦人には祖国の状況が事実以上に悲観的に伝わり、太原が日・閻の協調で平穏であったこともあって、「荒廃した祖国に帰るより、太原に残っていたほうが良い」という気分がありました。
河本大作は居留民会長としてそんな気分を煽っていたようです。

そんなこんなで大東亜戦争が終わったとき、太原には2万人以上の民間人が在留していたのです。

武装解除せず

民間の企業なら権利関係を調整できれば、敗戦後もそのまま営業を続けることができるでしょう。しかし軍隊となればそうはいきません。敗戦側の軍隊は武装解除されて祖国へ送り返されるのが当然です。

支那大陸でも、その通りに日本への帰還が行われていました。支那派遣軍も北支那方面軍(司令官は敗戦後すぐに根本博中将に交代)もそのように命令していたのですが、他の戦域とは違った事情もありました。
それは大日本帝国の戦争の主たる相手の国民党政府が遠く重慶に引っ込んでしまっていて、日本軍の降伏を受けることが出来ない、ということでした。

基本的に降伏を受け入れるのは、そのとき対峙していた部隊です。それでは日本軍は共産党軍(実態は左巻きの馬賊/この後国民党軍の武器を奪って成長します)に降伏してしまうことになります。

日本軍の大量の武器弾薬が支那共産党に渡ることになって、国民党にとっては非常にまずい事でした。蒋介石は「国民党軍が到着するまで日本軍は武装解除せず、自衛を認める」と指示を出したのです。

これが太原の第一軍と閻錫山にとっては大変都合のよいことでした。
閻錫山は来たるべき国共内戦で戦力を確保したいのです。本拠の重慶から遠く離れて、自分の領分は自分で守らなければなりませんし、あわよくば内戦の混乱に付け込んで支那全土の支配権をも狙っていたことでしょう。
閻錫山は「10万の支那兵より1万の日本兵」ということを身をもって知っていましたし、支那の指導層の一員のくせに常々周りの者にそのように話してもいたのです。

閻錫山は第一軍に対して、兵員の残留をもちかけました。

閻錫山の残留要請は第一軍にとっても渡りに船でした。第一軍は司令官である澄田賚四郎の戦犯問題を抱えていたからです。
澄田の戦犯容疑は、前任の第39師団長時代の部下の蛮行の責任問題とされていますが、うやむやにされてしまって、今からでは真実の追及は難しいと思われます。

部下たちが「司令官を助けよう」とするのは理解できないわけではありませんが、澄田賚四郎の場合はその手段が完全に間違っていたばかりではなく、どうも澄田自身が「こうやって儂を救え」と命じていたように思われます。

第一軍は参謀長の山岡道武少将を中心に、主力をに残留と引き換えに澄田四郎の免責を申し込んだのです。
基本的に澄田程度の戦犯であれば、扱いは現地の司令官に任されていましたから閻錫山は快諾。
こののち、米軍からの取り調べを受けたことはありましたが、それ以上に責任を追及されることはありませんでした。

身勝手な理由

戦犯など、そもそも我々日本人が裁くべきもので、澄田がこの裁判を逃れたこと自体はめでたいというべきだと思います。しかし、その手段が酷すぎました。

97式中戦車

97式中戦車

民間人は河本の画策もあって一万人以上が残留することになるのですが、軍隊はそう簡単ではありません。軍司令官といえど、士官はともかく兵隊さんたちは「陛下の赤子」を預かっているだけです。
敗戦であれ、戦争が終われば無事に故郷へ帰してやる責任があるのです。また、上級司令部を通じての「陛下の命令」なくして勝手に軍を動かせば、軍法会議が待っています。

そのことは第一軍の将兵たちはよく判っていました。兵隊さんの気分は「故郷へ帰れる」が大勢だったようです。閻錫山は一万人の日本兵の残留を求めてきました。とてもそれだけの「志願者」が出るとは思えない状況になっていたのです。

澄田・山岡は河本とも連携して、悪謀を巡らします。

澄田・山岡と参謀の岩田清一、元泉馨旅団長らが「残留工作」の中心となりました。
残留の理由として、「祖国の将来のために資源を確保する」「主力を無事に帰すためのしんがり部隊」などをあげますが、思うようには集まりません。

残留を策謀する首脳陣は、中堅士官を使って兵隊さんたちに義理人情で残留を半強制したのです。
もちろん「祖国の将来のため」を信じて残ってくださった人もおられますし、閻錫山側の好待遇に惹かれた方もいました。
5万人余りの兵員たちの感覚は当然一様ではないのです。

閻錫山は2万人の残留を求めていましたので、指揮官としては師団長クラスが必要でした(澄田・山岡は戦闘指揮能力がないことは自覚できていたようです)。その点元泉馨少将が積極的な残留派だったのは好都合でした。
しかしながらさすがに2万人の要求は大きく、山岡参謀長を中心に「残留派」は様々な策謀を巡らしています。
故郷からの便りにも、独自の検閲を行って正しい日本国内の状況を知らせないようにしていたようです。

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八路軍の攻勢

支那大陸の大日本帝国陸軍に責任を持つ支那派遣軍も、第一軍の動きがなんだかキナ臭いことを察知して指導に動いたり、米軍の視察も入ったりで、結局山西省に残留した(させられた?)第一軍の兵士は2600名となりました。
2600名の部隊の名称もいろいろ変転し、最終的には「特務団」に落ち着きました。

大隊相当の「歩兵団」が6個と工兵隊、通信隊が残留日本軍のすべてでした。
残留将兵(将はないか)は2年間の残留、山西軍の教育に当たる、実戦には参加しない、等の澄田・山岡・元泉らの約束を信じていました。

一方で支那共産党の八路軍は主力を山西省に集中していやがったのです。

八路軍総司令朱徳の直系の家来、徐向前の20万もの大軍が太源南部に。
東は猛将の賀龍が統率する10万が北京に通ずる鉄道を占拠。

山西省は共産軍の攻囲で孤立してしまっていたのです。

このような状況であった昭和21年6月、蒋介石は「解放区」(支那凶産党の支配地域)への総攻撃を命じます。
すでに破綻していた「国共合作」が公式に破れて、支那大陸の歴史名物、内戦が始まったのです。

蒋介石には勝算がありました。400万に上る正規軍、200万の地方軍(山西軍もこの中)。対する中凶軍は90万。さらに国民党軍には大日本帝国やドイツ第三帝国を打倒した優秀な武器が際限もなく送られてきていました。
一説では当時の金額で46億ドル相当といわれる膨大な援助でした。

しかし、蒋介石は自国に歴史を知らなかったようです。
支那の歴史上、反乱軍は必ず正規軍に勝つのです。正規軍の装備は反乱軍を潤すことも、支那歴史の常識です。

この不愉快な状況下、「特務団」は否応なく戦闘に巻き込まれていきます。

ヒーロー誕生

蒋介石が攻撃を命じた翌月、7月に特務団の第二歩兵団が攻撃を受けます。
賀龍の率いる10万の大軍が襲い掛かったのでした。

第二歩兵団(第二団)の団長は今村方策大佐、砲兵出身でした。
今村大佐は山西軍も指揮下に置き、城壁にありったけの大砲を並べて機動守備を繰り広げました。
対する猛将・賀龍は中凶得意の人海戦術。攻めれば逃げる山西軍陣地を奪取すること数度。そのたびに奪還する第二団。

最強皇軍の伝統は敗戦を経てなお、中凶軍を圧倒していました。兵力差もなんのその、今村大佐はついに賀龍の部隊を退けたのでありました。

しかし、中凶の人海戦術も侮れません。今村大佐の第二団以外は苦戦続き。
賀龍は歴戦の将軍だけあって山西軍で恐るべきは「特務団」のみと見抜き、残留日本軍にだけ人海戦術を仕掛けていた気配があります。

ついに昭和22年8月、石炭山地の陽泉を護っていた第五団が襲撃を受けました。
救援要請に第一、第三、第四、第六の各団が山西軍2個師団を引き連れて出発します。指揮は残留積極派元泉馨。
元泉は八路軍にさんざん引きずり回され、その間に第五団は全滅してしまいました。

同時期に参謀の岩田清一も拙い指揮によって損害を被っており、特務団では「総隊長」の人選を巡って議論が交わされるようになります。

おかしなことに、残留日本軍の母体第一軍の司令官・澄田賚四郎を推す声はありませんでした。
また、もっとおかしなことに、危機にある自分の部下たちを澄田賚四郎は指導しようとはしなかったようです。

これについて澄田は帰国してから綴った自伝で、「私は数万の将兵を率いた身であるので、たかだか数千の兵を指揮することは出来なかった。」と言っています。

そのたかだか数千の兵の命と引き換えに、戦犯裁判を逃れたことには一切触れずに…

山岡逃亡

閻錫山の山西軍の損害も大きくなり、河本大作の勧めもあって日本兵は国民党の正規軍に昇格されることになりました。昭和22年7月のことでした。

名称は独立第十総隊、総隊司令には今村方策大佐が抜擢されたのでありました。以降、残留日本兵部隊を「十総隊」と記します。

昭和23年6月。今村大佐の必死の努力もむなしく、十総隊の損害は止まらず。
当初2600名の残留将兵だったのに、この時の兵力は1200名になってしまっていました(途中で帰国できた方々もいますので、戦死者は少ないのですが)。

だれもが前途に暗鬱な見通しを抱いていたその時、実戦指揮では全く役立たずだった第一軍参謀長の山岡道武少将が「逃亡」しました。

97式中戦車チハのイラスト

97式中戦車イラスト

「帰国して日本から義勇軍を連れてくる」と閻錫山と今村大佐、生き残りの将兵を騙して日本へ帰国してしまったのです。

GHQの占領統治下にある日本で、支那大陸への義勇軍が組織できる訳もないのですが、山岡道武が義勇軍を募った形跡も一切ありません。
卑怯者とは山岡のためにあるような言葉です。まあ、上には上が居ますけどね。

敗北

山岡逃亡の直後、「晋中の戦い」が始まります。
すでに山西省は孤立させられていました。太原にはアカの支配を嫌う多くの人びとが流入し食糧事情が深刻な問題になっていました。

一方の支那凶も、兵隊たちに喰わせないと兵力が維持できません。喰わせてくれる大将にくっつくのが歴史的に見た支那人の生き方です。

「晋中の戦い」とは太原郊外の畑からの食糧争奪戦でした。

結果は山西軍の大敗北。十総隊だけは今村大佐の機略縦横の指揮で大損害は免れますが、山西軍とともに太原城内(大陸の都市ですから、太原にも市街を囲む城壁がありました)に押し込められてしまいます。

この戦いで元泉馨旅団長も戦死。死の状況には二説あり、負傷した元泉が参謀に「儂を撃て」と命じた、というものと、負傷して隠れていたのを支那兵に見つかって撃たれたとするものです。

太原籠城

山西省の晋中平原に布陣していた閻錫山配下の山西軍にも、十総隊にも、もはや野戦で凶産軍と雌雄を決する兵力は無くなってしまいました。
追い詰められた閻錫山軍は、城壁を巡らした太原に続々と集まって来ます。

飛行場はまだ閻錫山軍と十総隊が7か所も握っていて、食糧弾薬は送られてくるのですが、肝心の援軍は到着しません。
蒋介石は支那全土で追い詰められつつあり、それどころでは無かったのです。

昭和23年の秋には西(汾河が流れている)を除いて、太原は凶産軍に攻囲されてしまいました。

この状況に、太原に残っていた日本の民間人から帰国希望が殺到します。
さすがの閻錫山もこれ以上日本人を引き留めておけなくなっていました。閻錫山はここを守って死ぬことなど、これっぽちも考えてはいませんから、逃げた後の保身上、あまりにアコギなことはやりにくかったのです。

この時期「たかだか数千の兵の指揮は執れぬ」とほざいていた澄田が、ついに閻錫山軍の「総顧問」に就任して太原防衛の作戦指導をしています。
やったことは、城壁に近い民家を壊して回っただけですが…

昭和23年10月13日、ついに太原東部の牛駝塞の山西軍が襲われて全滅。
敵を見ると逃げる山西軍を支えて十総隊は奮戦します。

昼夜の区別なく、凶産軍を壕内に誘い込んで肉弾戦に持ち込む戦法で牛駝塞もいったん取返します。凶産軍は各地で逃亡する国民党軍のアメリカ製兵器を奪い取り、兵力だけではなく装備でも十総隊を圧倒するようになっていました。

凶産軍の砲撃は激しく、背丈より深く掘ってあった塹壕も、膝丈まで埋まってしまった、と言います。
弾薬が尽きると石を投げて応戦し、食糧が尽きれば角砂糖を舐め、水もなく、なぜか残っていた酒を飲んで凶産軍を拒み続けました。

閻錫山

閻錫山

しかし、僅かな十総隊の兵力では凶産軍を阻止することは出来ませんでした。
今村方策大佐は「牛駝塞の防衛は臥虎山高地にあり」とみて、ここで頑張り通します。凶産軍の機関銃、迫撃砲の猛射の中に身を晒し、微動もせずに的確な指示を送り続けたそうです。

しかし、ついに牛駝塞司令部の建物に凶産軍の砲弾が直撃、十総隊と山西軍は太原市内へ封じ込められてしまったのです。

この牛駝塞を巡る戦いで、今村方策大佐は100人以上の部下を戦死させ、50人余りが捕虜となってしまいました。十総隊は部隊としての戦闘力をほぼ喪失してしまいましたが、凶産軍の戦死者は一万八千名を超えます。

帝国陸軍の歴史上、これほどのキル・レシオを記録した部隊はないでしょう。
しかし、戦いは利あらず。十総隊に残された道は敗北だけでした。

澄田賚四郎逃亡

太原城内では、一人の男が焦っていました。澄田賚四郎です。
澄田は閻錫山から戦犯を免責されたことは前述しましたが、用心深く東京裁判の終了を待っていたのです。

東条英機らに死刑判決が出て、裁判が終了すると、中凶軍の攻勢でした。
中凶軍に捕まれば、やはり殺されてしまうでしょう。「総顧問」の立場も顧みず、澄田は閻錫山にうるさく帰国の便宜を図るように要請します。

自分も逃げるつもりの閻錫山は、民間の残留者とともに、飛行機便で澄田を逃がしてやることにしました。
このとき、澄田賚四郎は何を思ったのか河本大作を誘いました。しかし河本は「自分は居留民会の会長である、すべての居留民が逃げるまで責任がある。」として太原に残り、凶産軍の捕虜となりました。

澄田ほどの卑怯者と比べてはかわいそうですが、さすがに満州の黒幕だけのことはあります。

ともかく、第一軍司令官澄田賚四郎は元部下が死闘を繰り広げているのを横目に、飛行機で帰国の途についたのです。

自決

今村方策大佐は部隊の投降を決めました。刀折れ、矢尽きた部下たちに自決とこれ以上の抵抗を禁じたのです。

大佐は共産軍と交渉し、部下たちの安全を約束させました。支那凶など、約束を守る筈がないと思われるでしょうが、同じ「兵隊」として激烈な戦闘を繰り広げ、英雄的な戦いを敢行した敵にはある敬意のようなものが生れます。

今村方策はこれに賭けたのでした。実際に十総隊の生き残りたちは数年の捕虜生活はあったものの、無事に日本へ帰っています。

この交渉がまとまった翌朝。今村方策は袖口に縫い付けてあった青酸カリを服用して自決を遂げてしまいました。

今村均

今村均

残された十総隊は共産軍の捕虜収容所へと送られましたが、その隊列の先頭には、今村隊長の遺骸を収めた棺が押し立てられていたそうです。

今村方策大佐はかの今村均大将の実弟です。

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