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帝国海軍燃料事情・・・松根油

2016/09/11

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大東亜戦争中は松の根っこから取る油=松根油を使うほどに油が不足してたんですが、それ以上に人手不足だったんです。

大東亜戦争の戦争目的

大東亜戦争は、支那市場の支配を目指す米国によって我が国への石油輸出が止められ、その代替供給先を確保するための戦争、と言う意味合いが強い戦争であったと思います。

緒戦ではパレンバンの油田を抑えることに成功したのですが、海軍はこの石油を本土に安全に送り届けることにはほとんど無関心であったように思えます。

能登呂型給油艦

海軍の保有するタンカーは艦隊への給油専門で、国内への重油輸送には使われませんでした。
能登呂型給油艦

戦況が有利なうちはまだ表面化しなかったのですが、徐々にタンカーを含む商船が米潜水艦によって撃沈されるようになります。(この事情は別の機会に書かせて頂く予定です)

そして1944年になると、たび重なるタンカーの喪失で南方からの石油輸送は激減しました。

人造石油

このころになって、大本営は原油生産の見直し(増産)を試みますが、石油産業の技術者は南方に派遣されており、掘削機などの資材も送られていて、増産は進みませんでした。
また、人造石油(石炭油化・オイルシェールなど)の生産量も計画の僅か10%程度で低迷していました。

人造石油7カ年計画と実績(単位=1,000キロリットル/年)

 
年度 計画 実績 %
昭和12 87 5 6
昭和13 146 11 8
昭和14 489 21 4
昭和15 930 24 2.5
昭和16 1,243 194 15
昭和17 1,807 238 13
昭和18 2,233 272 12
7カ年計画計 (6,935) (765) (11)
昭和19 220
昭和20 46

 

『現代日本産業発達史ーⅡ石油』より

満鉄が比較的順調に生産していたオイルシェールからの人造石油も、朝鮮海峡が米潜水艦の脅威にさらされるようになり、途絶えがちとなります。

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松の根っこからガソリン

この逼迫した状況のなか、ドイツの駐在武官から朗報がもたらされました。曰く、

「ドイツでは松の木から航空燃料を生産している」

出撃準備中の零戦52型丙(A6M5)

出撃準備中の零戦52型丙


この情報に海軍は「水からガソリン」詐欺に引っ掛かりかけた過去も忘れて飛び付きます。

軍令部・海軍軍需局・海軍燃料廠で検討し、農商務省の山林局やら林業試験場まで巻き込んで「松根油からガソリンを製造可能、国内松林から100万リットルが採れる」
との報告を上げ、何時でも革新的技術に懐疑的な陸軍も、つい同調してしまいます。

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勤労動員と供出の果てに

昭和20年3月には「松根油等拡充増産対策措置要綱」が閣議決定され、この年の松根油生産予定は42万キロリットルとされました。松の木200本分の燃料で飛行機が1時間飛ぶ、とされたのです。

*零戦52型は燃料満タンで570リットル、巡行時消費70~80リットル/時・4式戦疾風なら巡行時消費100~120リットル/時で、空戦時の燃料消費量は3倍以上になります。

敗戦時の4式戦

敗戦時の4式戦
片矢印マークが第85戦隊、菊水マークは第22戦隊、
後列は一式戦です。

戦前には、松根油は塗料原料や選鉱剤などとして利用されており、専門の松根油製造業者もあったのですが、その生産量は6,000キロリットル/年に過ぎませんでした。
松根油の製造には老齢樹を伐採して10年程度経った古い伐根が適するそうで、収率は20%~30%と言われます。

ちょっと想像すればすぐに判ることですが、伐採されて10年も経った松の根を掘り起こすには大変な労力が必要になります。
国民に勤労奉仕が求められ、のべ4000万人が動員されて山中の松の根を根こそぎ掘り起こしたのです。

これを乾留(空気を絶って蒸し焼きにする)するワケですが、そのための釜が足りません。
鉄不足のなか、家庭から鉄器が供出されて(史料によって食い違いがありますが)20年6月までに3万~4万個の乾留釜が生産されました。

努力の方向が違うと

こうした努力によって昭和19年度で14,000キロリットル、昭和20年度(4月~8月)には40,000キロリットルの松根油が生産されたのです。
*「日本海軍燃料史」によれば合計20万キロリットル。

多大な犠牲の上に生産された松根油ですが、このまま零戦や疾風に入れられる燃料ではありませんでした。

飛行機のエンジンをうまく回すためには、こんな工程がさらに必要でした。

出来た松根油を、いったん各地の第一次精製工場に持ち込んで、軽質油とその他の成分に分けてやります。
この軽質油を、さらに第二次精製工場で水素添加処理を施し、他の成分も加えて航空揮発油にしなければいけなかったのです。

第二次精製工場は海軍第二燃料廠(四日市)と第三燃料廠(徳山)とされました。
しかし四日市では空襲の被害で最終製品の製造が出来ず、徳山でも1945年5月14日から生産を開始して500キロリットルほどが完成しただけでした。

国民みんなに苦労させて、やっとの思いで松根油から造られた「航空揮発油」ですが、ここまできてもまだ「品質良好」とは行かず、エンジンに対してもテストと調整が必要でした。
進駐してきた米軍がジープにそのまま入れたところ、2~3日でエンジンが掛らなくなったと言います。

結局、松根油から航空用のガソリンを製造するだけのノウハウが、日本には無かったと言うことなのでしょう。
原油からですら、高オクタン価の高性能ガソリンを製造出来なかった国に、「松からガソリン」はとてもムリだった、と言うことです。

海軍の不明

そもそも、松200本で飛行1時間なら、一本の松で18秒しか飛べないことになり、バイオマスとしては効率にも再生産性にも欠けます。さらに乾留の燃料や水素添加などを考えると全く無駄なことをしたものです。

『米国戦略爆撃調査団報告』は松根油計画を
唯一の影響は日本が労働力と装置の不足している最中に、その双方を奪い取ったこと
と評しています。

もちろん国の存亡がかかっていますから、不経済であったり、自然破壊につながったとしても一概に批判したり否定したりすることはできません。

しかし、このような無駄な努力をせざるを得なくなってしまった、その原因は追求しておかなければなりません。

その原因は大東亜戦争の真の目的である「石油資源の確保」を見失って、艦隊決戦を求め続けた海軍の不明にある、と言うのは言いすぎでしょうか。

さらに戦後、昭和20年代後半には台風・豪雨などで各地で土石流による被害が頻発して、松の根をむやみに掘り起こした報いを受けることとなります。

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-帝國海軍, 帝國陸軍, 政策・戦略・戦術, 燃料・動力
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