マルレイラスト

少年兵、広島に突入す~陸軍海上挺身戦隊2~

2017/08/13

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陸軍特幹(船舶)制度で集められた少年たちは、フィリピン防衛のために粗末なベニヤ板のモーターボート「マルレ」を操り、見事な活躍の末に散っていきました。

第二次海上挺身戦隊を編成

30部隊編成された陸軍海上挺身戦隊がフィリピン・台湾・沖縄で防衛任務に就くべく海上輸送されたことは、前の記事で紹介いたしました。

このうち、第30戦隊(富田稔大尉)は宮古島に配備の予定でした。番号順に戦地に送ったためか、宮古島の防備を軽視したためなのかはっきりしませんが、第30戦隊の出陣は遅れにおくれてしまいました。

陸軍は海上挺身戦隊をこれ以上拡充するつもりはありませんでした。

その為、海上挺進戦隊の訓練のための陸軍船舶司令部・船舶練習部・第十教育隊は昭和20年1月20日で解隊、幸の浦基地(広島市)も閉鎖と決まり、居残っていた第30戦隊は宿無しになってしまうことになったのです。

第12戦隊の大殊勲と全滅を聞いていた第30戦隊の隊員たちは焦りました。

2名乗船の震洋

2名乗船の震洋 マルレとは似て非なるものですが。

第30戦隊は独力で鹿児島まで列車移動し、鹿児島で任地である宮古島への船便を探すことにしたのです(第30戦隊副官の記憶によります/電脳大本営的にはかなり疑問がありますが)。

第30戦隊の副官の交渉により4隻の貨物船に分乗(同一の護送船団)して沖縄に渡ることになったのですが、3月1日、奄美大島に寄港した際に米空母艦載機F6Fヘルキャットの大編隊に襲われ、マルレを全部喪失してしまいます。

F6Fヘルキャット

F6Fヘルキャット

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生き残った隊員たちはやむなく幸の浦基地に戻ることになったのですが、これは方針変更した陸軍にとってはもっけの幸いでした。

隊長の富田少佐(鹿児島で待機中に昇進)以下を新たに30個も編成することにした「第二次海上挺身戦隊」の教導隊にすることができるからです。
捷号作戦に失敗して追い詰められた大日本帝国は日本本土を決戦の地とする「決号作戦」を策定していたのです。

このなかで第12戦隊が上げた大戦果のように、泊地に侵入してくる敵船舶に対して水上特攻が計画されていたのです。
第一次海上挺身戦隊は完全な特攻ではありませんでしたが、今回は全艇特攻とされていました。海上挺身戦隊だけでなく、大日本帝国陸海軍は全て特攻が予定されていた、と言っても過言ではない「作戦」だったのです。

集められた少年兵たちの年齢はさらに下がり、15歳か16歳のまだ子供たちが中心でした。
この「子供たち」に短期間でベニヤ板製のマルレ(○の中にレ)の操縦を叩き込み、恐怖と混乱を乗り越えて敵艦に体当たりする精神力も養成しなければなりません。
その教育係として、ほんの数か月前に教育を受けた第30戦隊員たちは年齢の近いこともあってピッタリだったのです。

他の配属先から

陸軍海上挺進戦隊の戦士の「供給源」となった特別幹部候補生(船舶)制度は、戦況逼迫による有能な下士官の不足に急きょ対処するためのものでした。

緊急の制度らしく、初採用の昭和19年4月から同年8月、12月と採用が続きました。著述によってはこれを1期・2期・3期としたり、1期の前・中・後としたり、混乱が見られます。
特幹制度そのものが、敗戦によって空中分解のように消えてなくなっていますので、公式の期別もはっきりしていないのが現状です。その為、この記事では8月採用を2期、12月採用を3期と表現しています。

「決号作戦」が策定されたころ、特幹(船舶)第2期の少年兵たちはすでに短縮された課程を終了して、船舶工兵・船舶整備・船舶輸送等に配属された後でした。
珍しいところでは、希望者は鉄道隊に配属されたりしています。

この2期生たちが第二次海上挺進戦隊の主力としてかき集められ、第一次の30戦隊が舞い戻った江田島の幸の浦基地に集合したのです。

細かな時期がはっきり判らないのですが、昭和20年の4月には富田少佐と第30戦隊員を中心に第二次海上挺進戦隊の訓練が始まっていたようです。

このころは既にアメリカ軍は爆撃の方針を変更していました。大日本帝国の戦力を徹底的に壊滅させるため、軍事・軍需関連に対する精密爆撃から、一般市民に対する殺戮に切り替えていたのです(東京大空襲/クリック注意残虐写真あり/は3月10日)。

アメリカ軍の無差別爆撃は東京・大阪・名古屋などの大都市はもちろん、地方都市をも標的とするようになり、広島の周囲でも姫路・岡山・呉・高松・松山などの各都市が焼き払われていきました。

しかし広島は難を免れており、訓練は順調に進んでいました。

8月6日

昭和20年8月6日。
サイパンを離陸したアメリカ陸軍の戦略爆撃機B29が、広島市の上空で原子爆弾を爆発させました。

B29

B29

運命の日は月曜日で、前の日は第二次海上挺進戦隊の上部組織である船舶司令部もお休み。幹部の多くは広島市内に家庭を持ち、そちらに帰っていました。
幹部たちの代わりに、第30戦隊の富田隊長が幸の浦基地に詰めていたのです。富田少佐は幸の浦の広島市内に面する執務室の、海岸を見渡せる窓を開けて事務作業を始めたところでした。

午前8時15分、富田少佐は室内に閃光を感じ首筋に熱波を受け、轟音を聞きました。海岸に集積されている訓練用ガソリンの爆発か?

あわてて飛び出しますが異常はありません。
しかし、狭い海峡を挟んだ広島市の上空には異様な雲が立ち上りつつありました。

陸軍船舶司令部練習本部(宇品)から撮影した被爆直後の広島市街

陸軍船舶司令部練習本部(宇品)から撮影した被爆直後の広島市街

幸の浦基地内の損害が無いことを確認した富田少佐は、情報を得るために宇品の船舶司令部に電話を掛けましたが不通。さすがに軍隊らしく無線に切り替えると漸く連絡が取れました。
船舶司令部でも、広島市内が炎上中であること以外は情報がありません。

そうこうしている内に、船舶司令部は混乱に巻き込まれていきます。
市内から火傷を負った市民が救助を求めて船舶司令部の構内に押しかけてきたのです。
船舶司令部には「凱旋館」と呼ばれている大広間があり、司令部ではここに市民を収容して、軍医、衛生兵、看護婦を総動員して救命・救護に当たらせました。

押し寄せる市民は増え続け、その勢いは一向に収まる気配がありませんでした。午前8時50分、異様な状況を察知した船舶司令官・佐伯文郎中将は独断で、似島にあった陸軍検疫所を市民に開放して重篤なものを収容することを決しました。

同時に佐伯文郎中将は重大な決定を下します。隷下の船舶部隊を広島市民の救援に投入しようというものでした。
午前9時、佐伯司令官から海上挺進戦隊の富田少佐に「救助作業に出動すべく待機せよ」の命令が通達されています。
この命令では敵が原子爆弾を使用した、と指摘しています。

江田島、広島

江田島、広島

それにも関わらず、佐伯司令官は自分の部下たちを市民救援に向かわせるとともに、自らも市内中心部で指揮を執る決断を下したのでした。

*佐伯中将は巣鴨において回想録を書いており、以上の事実が記述されていますが、準皇族扱いだったチョソじゃない、朝鮮の王族李鍝(い・ぐう)殿下の救出にも関わっていたようです。

い・ぐう(李鍝)殿下

李鍝殿下

それによると、李鍝殿下は電脳大本営が考えていたように(記事はコチラ)瀕死の状態で発見されたのではなく、一見健康な状態だったと言います。

それはさておき。
富田少佐は部下を督励して、第30戦隊を基幹として「広島救援隊」の編成準備に取り掛かりました。

海上挺進戦隊に集められた3000名あまりの少年たちのうち、2000名が幸の浦に駐留していました(1000名は既に九州中心に待機中)。

富田少佐は情報収集のため、偵察任務の「第一次救援隊」を編成。これは第30戦隊の隊員(直属の部下)10名と軍医で構成。大発で幸の浦から船舶司令部のある宇品へ向かわせました。

救援拠点、確保

第一次救援隊の隊長は第30戦隊の中隊長の一人、面高俊信大尉。
自分の片腕の一人を真っ先に行かせるところに、富田少佐の本気を感じ取ることができます。

第一次救援隊の幸の浦出発は午前11時。
9時に「災害出動」の命令を受けてわずか2時間。たった15分で宇品港の船舶司令部専用の桟橋に到着したのですが、そこは既に地獄の様相を呈していました。

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真っ昼間なのに夕暮れのように薄暗い岸壁には、血の海から這い出てきた市民の群れが救助を待っていたのです。
全身血だらけの市民がうめき声を上げて横たわっていたのです。

連れている軍医はただ一人、医薬品の準備も無い救援隊は心の中で負傷者に詫びながら市内へと向かいました。
彼らの任務は状況の偵察と救援拠点の確保です。市民を助けたくても、先ずは任務を果たさなければなりません。

第一次救援隊はまだ熱い地面を踏みしめて市内を進み、崩れ残った広島電鉄本社に目をつけ、ここを海上挺進戦隊の救護本部としました。

広電本社ビル海上挺進戦隊の救助本部が置かれた

広電本社ビル海上挺進戦隊の救助本部が置かれた

結果的に第一次救援隊のこの行動が、広島市民の救援活動を大きく助けることになりました(と言っても、被害の巨大さから考えると焼石に水でしたが)。

佐伯司令官も奮闘していた

これから、普通の流れなら広島市内の惨状を書いていかねばなりませぬ。
ですが、あまりにも悲惨でかつ腹立たしくて、私には無理です。

幾つか上げております画像でご想像願いたいと存じます。

広島陸軍第二病院の臨時救護所

広島陸軍第二病院の臨時救護所

代わりに、めったにネットにも出ないし、図書館でも中々お目にかかれない「船舶司令部の活動」について記述しておきます。

原爆の投下と同時に第二総軍(「決号作戦」で西日本防衛を担当)司令部や中国総監府の指揮機能は完全に麻痺してしまいました。

横たわる負傷者、おそらく生き延びてはいないでしょう

横たわる負傷者、おそらく生き延びてはおられないでしょう

しかし、広島市でも南の端の宇品町に駐屯する陸軍船舶部隊とその司令部(司令官佐伯文郎中将)の損害は軽微でした。爆心地からは4km離れていて、比治山という小さな山と海から吹いている風が大被害を防いだのでした。

午前8時06分、佐伯中将は窓から強烈な青白の閃光を感じると同時にドーンという轟音を聞きました。直ちに第二総軍・県庁・市役所に電話したのですが不通。
ただちに部下の将校を各方面に斥候として派遣し、市内各所で火事が発生、道路は寸断され、各所に多数の死者・負傷者が救助を待っていることを把握します。

8時50分。報告を取りまとめた佐伯中将は隸下の海上防衛隊長・野戦船舶本廠長・船舶練習部長・教育船舶兵団長・船舶砲兵団長に対して、市内の火災消火と負傷者の救助を命令しました。
広島船舶隊長には、似島の陸軍検疫所(病院機能があった)を市民に開放し患者を移送するように独断で決断し命令。

10時00分、甚大な被害が判明した第二総軍司令部に救護班を派遣。

11時30分、中国地方所在の隸下部隊に対して
「日常業務ヲ停止シ、全力ヲ挙ゲテ広島市ノ復旧・救援ニ従事セヨ」
と命令。

12時前、江田島幸の浦の船舶練習部教育隊(十教、海上挺進戦隊の教育部隊)が到着、広島電鉄本社で負傷者の救護を開始。

13時20分、宇品地区の水道が止ってしまったため、江田島幸の浦基地から濾過装置の輸送を指示。

14時頃、中国総監府の副総監が二葉山の防空壕に避難した第二総軍司令部を訪問。
副総監は中国総監との音信不通と、県庁・市役所・警察機関の全滅を告げて、事態収拾について軍への権限委任と罹災者の救援を要請しました。

これを受けた第二総軍は、既に救援活動の指揮をとっている船舶司令官(佐伯中将)を、「広島警備担任司令官」に任命する事を決定。

16時50分、佐伯中将は船舶倉庫長に罹災者救助のため乾パン・作業着・缶詰め等の交付を指示。
この前後に、佐伯中将は次の「第二総軍命令」を受領しました。

『船舶司令官ハ在広島部隊並ビニ逐次到着スル陸軍部隊ヲ併セ指揮シ、速ヤカニ戦災処理ニ任スヘシ。戦災処置ノタメ、警備ニ関シ在広島部隊ヲ区処スヘシ』
『中国地方総監・広島県知事及ビ広島市長ハ、予メ計画スルトコロニ従イ、速ヤカニ官民ノ救護給養並ビニ災害ノ復旧ニ任スヘシ。広島近傍ノ警備ニ関シテハ、船舶司令官ノ区処ヲ受クヘシ』

命令を受けた佐伯中将は、隸下の部隊に救援・警備のため担任区域を割り当て、一方で在広島の陸・海軍、官公庁に対し、翌7日午前10時に第二総軍司令部へ代表者を参集させるよう要請。

7日午前10時、第二総軍主催の連絡会議が開かれ、それを踏まえ午後2時に船舶司令官が『広警船作命第一号(広島警備命令)』を発しました。
これは、隸下部隊・海軍増援隊・中国憲兵隊・中国地区鉄道司令部・中国軍管区派遣部隊・中国地方総監府と県・市に対して担任区域を割当てて、9日までに第一次の救護と死体の収容完了を命令したものです。

大やけどの子供、陸軍船舶司令部撮影

大やけどの子供、陸軍船舶司令部撮影

こうして被爆直後に指揮系統が確立し、組織だった救援活動が行われたのです(戦力不足・資材不足によって、満足な救援とはなりませんでしたが、それは別の問題とすべきだと、電脳大本営は考えています)。

「被災者代表」の広島市も、昭和48年の『広島原爆戦災史』で船舶司令部、特に少年兵たちの救援活動に感謝しています。

『市中心部の陸軍諸部隊をはじめ、各官公庁が壊滅したなかにあって、宇品地区の船舶司令部・部隊だけでも残って勇敢に救護活動を展開したことは、惨禍の増大を防ぐ上で大きな役割を果たした』

少年兵たちの救援活動はポツダム宣言の受諾をもって、軍隊が解散することとなり、第二総軍司令官は船舶司令官が担任していた「戦災処置・警備」の任務を解き責任と権限を県側に引き渡したのです。

『この日までに軍隊が果たした救護・復旧作業は、遺憾なくその機動力を発揮し、被爆直後の大混乱の中にも、実に多大な成果をあげたが、この日を限って軍隊による救援復旧作業が停止された』

機動力とは陸軍海上挺進戦隊の小型ボートに他なりません。

少年兵たちは、瓦礫に覆われ道路をふさがれた広島市内を(7日には陸軍部隊によって負傷者の搬送ルートは啓開されたのですが)マルレと大発に乗って縦横無尽に走り、被災者の救助に当たったと思われます。

大発

大発

報われぬ救援

陸軍海上挺進戦隊の少年兵たちは、先帝陛下の玉音を(ラジオで)生まれて初めて聞くと、自分のマルレを江田島の海岸に積み上げ、ガソリンを掛けて焼き払いました。もちろん命令によるものです。

これで彼らの戦争は終わったはずでした。しかし、現実はそれほど甘くはありませんでした。
そう、被曝。原爆症が少年兵たちを襲ったのでした。

原爆投下の当日に広島市内にいた被曝者には「被曝者手帳」が交付され、十分とはいえないまでも、治療費などが補助されました。
しかし海上挺進戦隊の少年兵たちのように、後日市内に入って被曝した者へは戦後長く援助がなく、高額な治療費を自弁するほかありませんでした。

海上挺進戦隊の苦難はそれだけではなく、「被曝」へのいわれなき差別もあったそうです。「被曝者の娘と結婚は出来ない」と言われたり、被曝者と判ると、次の日から倉庫係に配置替えされたり。

被曝に対する無知からくるものでしょうが、国民を助けるために奮闘した戦士に対して、同じ日本人が取り得る態度とはとても思えません。
戦後の我が国を汚染していた売国思想の影響があるのでしょうか。

軍隊は国民を守るもの

長々と書いて、本題の海上挺進戦隊の少年兵からお話が離れてしまいました。ここまで駄文にお付き合い頂けて感謝申し上げます。
今少しだけ、読み進めていただけると大変ありがたいと存じます。

実は、海上挺進戦隊をはじめとする陸軍船舶司令部の救援活動を「広島に戒厳令を敷いた」などとして非難する輩がいるのです。
この人たちは、沖縄戦においても軍隊が県民を殺した、自衛隊の離島配備は島民の生命を危うくする、などというたわけた主張をする人々と重なっています。

ですが、陸軍船舶司令部の司令官、佐伯文郎中将の行動を見ていただけば、自分に与えられていた喫緊の使命である「海上挺進戦隊の戦力化」などを即座に放擲して市民の救援に赴いたことはよくお判りでしょう。

佐伯中将は命令を下すだけでなく自らも広島市内へ進出、市役所跡に張った天幕を司令部として救援活動を指揮督励したのです。

少年兵たちと同じく、ムシロ一枚を寝具としての生活でした。
付言すれば、佐伯中将はこの大災害が原子爆弾によるものであり、放射能による健康被害もおぼろげながらも理解していました。

軍隊はその国の国民によって構成され、国民の税金で活動しています。
巨大な官僚組織の一面もありますからお役人一般の弊害もありますが、軍隊は「国を守るもの」ではなく「国民を守るもの」なのです。国民を守るために、効率が良いから国を守るのです。

そのことは今も昔も変わりなく、当の軍人や自衛隊員が最もよく理解してくれていること。

海上挺進戦隊の少年兵たちは、電脳大本営にそう教えてくれています。

今回のお話の参考にさせていただいた本は原爆と戦った特攻兵 8・6広島、陸軍秘密部隊(レ)の救援作戦です。

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