河川での戦闘

本土決戦の行方2~人口が半分に~

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パラグアイは、ブラジル・アルゼンチンと言う地域大国を相手に、ウルグアイに対する干渉戦争を始めてしまいました。
当初は押していたものの、一度の海戦敗北から、状況は逆転して…ココまでのお話は

トゥユティの戦い

戦争やってても新年はやって来ます。明けて1866年。

ブラジル艦隊がパラグアイ川をさかのぼり、並行する川岸を「3国同盟」の陸軍がパラグアイの首都アスンシオンへと向かいました。兵数約5万。

3国同盟側も、多数の兵力を集め始めていますね。
この時期、パラグアイは国民すべての階層から徴兵していましたが、ブラジルの方は下層階級から兵士を徴募していたようです。この頃のブラジルは皇帝陛下のいらっしゃる「帝国」ですからのぅ(笑)

パラグアイ軍兵士

パラグアイ軍兵士

 

守るパラグアイ軍は、パラグアイ川とパラナ川の合流点の三角地帯に兵力を集中します。
その数は約3万人で、三国同盟軍を迎え討つ「防衛戦闘」なら、あながち不利だとも言えない人数ではあります。

要衝のパソデパトリアやウマイタ要塞などを中心に防衛ラインを敷き、三国同盟軍を足止め。
停滞する敵軍に、少人数の特別攻撃隊で繰り返し夜襲をかける…と言うのがパラグアイ軍の戦術でした。

ところが、夜襲作戦は考えたほどの効果を挙げることが出来ません。むしろ損害ばかりが増えてしまったのです。

芙蓉部隊

我が国で夜襲と言えば「芙蓉部隊」

 

うーん、そうなんだよね。
川岸の狭い地域で足止めされてる3国同盟陸軍だって、当然警戒してるものね。
こういう時は、ある程度の距離を攻めさせておいて、伸びた補給線をチマチマいたぶってやるのが定石なんだけどなぁ。

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4月には、ブラジル艦隊の援護射撃を受けた3国同盟の陸軍が、パラナ川を押し渡ってイタビル要塞を攻撃・奪取。

一部の部隊をパソデパトリアの背後にまで進出させます。

パラグアイ軍はこの攻撃を支えることが出来ず、パソデパトリアを放棄して後退。

しかしながらパラグアイ側の士気もまだまだ衰えず。
後退はしたものの、すぐ北のトゥユティ付近に展開して3国同盟軍を待ちます。

一方の3国同盟軍はこの勝利でも調子に乗りませんでした。
塹壕を掘ってパラグアイ軍の攻撃に備えていたのです。

パラグアイ軍の兵力は約2万5千。3国同盟軍は約4万5千。

この兵力差のため(反省もあったんでしょうが)、パラグアイ軍は打って出ることは避け、拠点を固守して三国同盟軍を迎え、機を見て別働隊を三国同盟軍の背後に送り込む(補給路攻撃?)…という作戦を立てていたようです。

たぶん、この作戦で戦えば、パラグアイ軍は(一時的かも知れませんが)3国同盟軍を食い止めることが出来たでしょう。
しかし、ソラーノ・ロペス大統領がこの作戦を変更しちゃうのであります。

ヒトラーとゲッベルス

軍事に口出ししちゃダメだってばよ。

 

後の、「私たちが良く知ってる三国同盟」のどこかの国でも、指導者が戦い方に口を出し、ロクなことにならなかった事例はたくさん有りましたね。
上手く行ってる時は、口出しも良いんですけどねぇ。

ソラーノ・ロペスは三国同盟軍の陣地に先制攻撃を行なえ、と命じちゃったんです。

1866年5月20日。
パラグアイ軍が全面攻勢に出ます。
くどいようですが、兵力は3国同盟側4万5千vsパラグアイ側2万5千。2万人少ない方が、陣地を出て攻撃。

10万とか15万人とかいるときの「2万人差」じゃないですから。ほぼ倍ですよ。

三国同盟軍はパラグアイ軍の攻撃に、ビックリしちゃったみたいですが、すぐに立ち直ってパラグアイ軍に対して反撃を行ないます。

攻撃に出るだけでも拙いのに、パラグアイ軍は全戦線で薄く広く、3国同盟軍に攻め寄せちゃったようなんですね。

小兵力で大兵力を攻めるんやもん、一点集中で敵に損害を強いたら、ササッと引き上げる…って戦い方しかないやろうに。

3国同盟軍は突撃してくるパラグアイ軍に銃砲撃を浴びせ、特に湿地帯を進撃路にしたパラグアイ兵は死傷続出。

地面の堅固な場所では騎兵部隊も投入されましたが、三国同盟軍の防御は堅く、騎兵も攻め寄せることは出来ません。

それでも、精強を誇るパラグアイ軍はジリジリと敵陣に迫り、白兵戦もアチラコチラで展開していきます。
そして、白兵戦になると、モノを言うのは気力の他に、体力と兵力です。

日露戦争の白兵戦

日露戦争の白兵戦

 

攻撃したパラグアイ兵が、陣地に籠っていた三国同盟軍の兵隊さんより、体力を消耗していたことは間違いないでしょう。
白兵戦に入った兵力量も言うまでもありません。

この「トゥユティの戦い」は現代に至るまで、
「南米史上もっとも血なまぐさい戦い」
と言われるほどの悲惨な戦闘になり、パラグアイ軍は惨敗を喫したのです。

戦場に残されたパラグアイ兵の遺体だけでも6000(戦死者1万以上)を数えたといいます。
三国同盟軍の被害も甚大で、死傷者8千名。この損害のために、敗走するパラグアイ軍を追撃できませんでした。

数じゃない(数も足りんけど)

自分の間違った作戦指示によって、トゥユティの戦いで大敗を喫したソラーノ・ロペス大統領。

2万5千の精鋭をぶつけても、それ以上に三国同盟は強大だった、と思ったか、あるいは自分の余計な口出しが拙かった、と反省したか…

この後の推移から考えれば、後者はあり得ませんけどね、反省して欲しかったな。

ともあれ、ソラーノ・ロペスの国内支配力は、敗戦にもかかわらずに揺らぐことはありません。
わずか1ヵ月でトゥユティの損害を補填し、約2万の新戦力を集めて見せたのです。

トゥユティの戦い

トゥユティの戦いを描いた絵画

 

ただ、その内実を見ると、パラグアイ軍は以前の精強なパラグアイ軍ではなくなっていました。
子供や老年兵も多く含んだ「寄せ集め軍」となってしまったのです。

兵数もたらず、質も悪く(兵隊さんには申し訳ないけど)ては、攻勢が取れる筈ありません。

ただ、さすがのパラグアイ国民も、ロペス政権を全面支持って訳ではなかったようです。
クーデター計画もあったようですが、発動前にバレてしまい、なんとソラノ・ロペスの実弟と義弟2人を含む数百人が処刑されたりしています。
恐怖支配とまでは言えないけどな、戦争中のクーデターだからなぁ。

そんなことで、「このままではジリ貧じゃ」とでも思ったのか、ソラーノ・ロペス大統領は9月に三国同盟軍の司令官である、アルゼンチンのバルトロメ・ミトレ大統領に和平会談を申し入れます。

思い出して頂きたいんですけど、戦争が始まったとき、ロペス大統領って、アルゼンチン(ミトレ大統領)に領内通過を断られています。
アルゼンチン国内の反体制派をけしかけて「断ったら反乱起こすんだぜ」とか約束もさせてました。反故にされちゃいましたけど。

そんなところに、よくぞ和平を持ちかけたモンですが、国の興廃を背負う政治家はこうじゃなくてはいけません。

しかも、ロペス大統領は交渉の裏でパラグアイ河沿岸の要塞強化工事もチャッカリやってたりして、なかなかの「政治家」ぶりなのであります。

バルトロメ・ミトレ

アルゼンチン大統領バルトロメ・ミトレ

 

そんな魂胆でやってるから、妥協点が見いだせる筈もありません。和平交渉はアッサリ決裂しちゃうのでありました。

アルゼンチン脱落

戦争は続くよ、何処までも♪。
もちろん、線路と同様に「ある程度」でありますが(笑)

パラグアイ軍は戦力の不足と錬成未了から、陣地戦を展開するしかありません。

ところが面白いもの(戦争の犠牲を面白がってるワケじゃありませんよ)で、防御に徹すると小兵力の側にも勝機が見えてきます。

三国同盟軍は1866年9月初旬に、パラグアイ軍2500が立て籠もるクルス砲台(パラグアイ河に面して、河面を射程に入れていました/以下出てくる砲台や要塞は全てパラグアイ河の通航を阻止できる立地です)を約1万4千の兵力で攻撃。

ブラジル艦隊の新鋭戦闘艦「リオ・デ・ジャネイロ」が、機雷に触れて沈没したものの、クルス砲台を占領。

しかし、9月22日にクルス砲台の上流側(パラグアイの首都寄り)にあるクルパイティ砲台を2万の兵力で攻撃すると…。

クルパイティ砲台は和平会談の間に防御が強化されていたのであります。

三国同盟軍は9000人に上る死傷者を出してもクルパイティ砲台を占領できず、後退してしまったのです。

パラグアイ軍の戦死者はたったの50人。
3国同盟軍、どえりゃあ負けっぷりだぎゃあ。

この大敗北で、三国同盟側では司令官が交代します。
アルゼンチンのバルトロメ・ミトレに代わり、ブラジルのカシアス公爵が三国同盟軍の司令官になったのです。

実は、この交代劇、キッカケは「クルパイティ砲台の攻略失敗」ではありましたが、アルゼンチンの国内事情によるモノと言った方が良さそうです。

カシアス公爵

 

クルパイティでの大損害で、アルゼンチン国内では戦争に反対するモノたちが暴動を起こし始めたのです。

もともとこの頃のアルゼンチンは、ブエノスアイレスを中心とする中央集権派と各州の地方分権派との対立が激しく、何かのキッカケで分裂傾向を示す国だったのであります。

件の反体制派ウルキーサさんは、今回も立ち上がりませんが、各州の「カウディージョ」(各地方の政治・軍事を掌握した指導者)が立ち上がりました。

カタマルカ州の「カウディージョ」、フェリペ・バレーラさんが中心となり、政府に反抗し始めちゃったのです。
ですから、アルゼンチンには軍事力を国外(3国同盟)に向ける余裕が無くなっちゃったんですね。
これ以降、アルゼンチンは同盟から大きく兵力を撤収してしまいます。

もう少し、早かったら…ソラーノ・ロペス大統領が望んだ展開になったんでしょうけど。

すでに、パラグアイの継戦能力は底をつき始めていました。

3国同盟崩壊?

3国同盟と言ったって、ハナからウルグアイは経済も軍事力も弱すぎて(ウルグアイの人、読んでたらゴメンやで。当時の話やから)。
その上、政権を奪われたブランコ党が勢力を盛り返し、コロラド党に対して内戦をおっぱじめたんであります。

3国同盟戦争時のウルグアイ指導者ベナンシオ・フロレス

3国同盟戦争時のウルグアイ指導者ベナンシオ・フロレス

 

ウルグアイもパラグアイとの戦争どころではなくなりました。

こうして戦争はブラジルvsパラグアイの様相が濃くなってきました。
まあ、アルゼンチンもウルグアイも「単独講和」はしていませんけどね。戦後になってパラグアイの領土を掠めるつもりなら、講和なんかしてられませんものね(笑)

ブラジルは人口も多いし、国土も広大なんですけど、この「大国さ」が裏目に出ちゃった感があります。

国土が広すぎて、(当時の事ですからね)地方からの兵士動員が難しかったり、せっかく動員しても移動が困難だったり、そもそも戦場まで遠くなっちゃったんで、補給ラインもすっごく長いし。

まあそれでも、パラグアイが損失の補填も困難(人口が少ないから)なのに、3国同盟側は(時間はかかるけど)いくらでも補充が可能でした。

しかも、戦争はパラグアイの国力を急速に疲弊させました。

物資不足が深刻化し、ついに「金属供出運動」が始まりました。どうも、この「3国同盟戦争」は後々の大戦争を彷彿とさせるなぁ。

もちろん、この「運動」は各家庭などから金属を集め、それで大砲なんかを作ろう、ってモノであります。
寺の鐘も供出したかどうか?までは、調べきれません。
まあ、耶蘇教寺院に鐘があっても、我が国の寺院のソレより、だいぶン小さいだろうけど。

輸入できないから、薬草を集めて医薬品を作ったりもしました。各家庭のご婦人から宝石を集め、ソレで士気高揚のために兵隊さんに配る勲章を作ったりしてました。

そんな「銃後」の苦闘を知ってか、ウマイタ要塞は頑強に抵抗を続け、パラグアイ河にニラミを効かせておりました。

トゥユティの大敗戦からなんと1年半以上も、です。

1868年2月、ブラジル軍はパラグアイ軍の頼みの綱「ウマイタ要塞」に総攻撃をかけました。

河川戦闘艇など40隻以上の大艦隊で攻撃するブラジル軍。
ウマイタ要塞はいつも通りに的確な防戦を遂行し、ブラジル艦隊を近寄らせません。

河川での戦闘

河川での戦闘

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ところが、この戦闘そのものがブラジルの仕掛けた罠だったのです。
激烈な要塞砲vs艦載砲のヤリトリの間に、こっそりとブラジルの3隻の河川戦闘艦が、ウマイタ要塞前をすり抜けてしまったのです。

3隻はパラグアイ河をさかのぼります。パラグアイ河を遡っていくと、ソコはパラグアイの首都アスンシオンなのでありまして。
ブラジル艦3隻はついに敵国首都を砲撃。
パラグアイ軍はカヌー隊で反撃を試みますが、蒸気動力の軍艦には歯が立ちません。かえって大きな損害を出してしまいます。

チンケな河川戦闘艦3隻ですから、アスンシオンの都市機能に大きな損害はありませんでしたが、大影響を受けたのがソラーノ・ロペス大統領。

前線で軍の指揮を取っているときに報告を受けた大統領は、ただちにアスンシオンの市民と政府を避難させることにしたのです。

「24時間以内に疎開せよ」と命じられたアスンシオンの市民は、取るものもとりあえず移動するしかありません。
多くは着の身着のままの移動であった、と伝えれています。

第23日東丸の最期

ドーリットル隊を運ぶ米機動部隊を発見後、撃沈される「第23日東丸」

 

チョットした敵の攻撃を受けて、バタバタとやらんでも良い「対抗策」を企画するのは、後の太平洋を挟んだ大戦争時にも見られますよね。
たとえば、ドーリットル空襲後の…

ウマイタ要塞陥落

ブラジル艦3隻は砲弾を打ち尽くすと、粛々とパラグアイ川を下って行きました。

アスンシオンの東にあるルーケに避難した政府と住民でしたが、ルーケの街に首都住民を全て収容できる建物がある筈もありません。

多くが野外生活を余儀なくされました。

3月、長くパラグアイ河の「門番」の任務を果たしたウマイタ要塞の守備隊主力が撤収。
パラグアイには要塞を維持するだけの国力も残されていなかったのです。
しかし、かつて精強だったパラグアイ軍。
3000名の「残留部隊」が主力の撤退を援護し、なんと7月まで粘って後方への撤収に成功しています。

1868年7月。3国同盟軍の遡上を挙止し続けたウマイタ要塞はついに、物資欠乏のため陥落。かつては2万の攻撃軍に大損害を強いたクルパイティ砲台も同時に降伏。

首都アスンシオンへの水路は大きく開いたのであります。

3国同盟軍はパラグアイの首都アスンシオンを目指して北上を開始しました。
ソラーノ・ロペス大統領は、首都の南35キロの地点にあるピキシリ川沿いにパラグアイ軍を展開して最終防衛ラインとしました。

バポールクエ国立公園の「船舶博物館」

パラグアイのバポールクエ国立公園にある「船舶博物館」
内陸国なのに船舶…

 

ココにかき集めたパラグアイ軍は1万3千と言われます。
3国同盟軍も、アルゼンチン・ウルグアイの兵力は前述の理由で減少しておりましたが、ブラジル軍の動員が本格化してきた事もあって、その数約3万8千。

その上戦争が長引いた上に、うち続く敗戦で、パラグアイ軍はボロボロになっていました。
成人男性だけでは足りず、老人・子供に女性まで前線に駆りだされていた、と言われています。

3国同盟軍は、それでも「精強パラグアイ軍」を警戒します。

ピキシリ川の防衛線に直接攻撃をかける事を避け、パラグアイ川の対岸に渡ってアルゼンチン領を進撃して、「ピキシリ・ライン」を迂回。

パラグアイ軍の後ろに回ると、アスンシオン手前のサンアントニオで再びパラグアイ河を渡河し、パラグアイ領に入りました。

もうこの時点ではパラグアイ河の「制川権」は完全に3国同盟軍のものですから、行ったり来たりし放題。

サンアントニオを占領した3国同盟軍は、ここで二分割。

本隊はアスンシオンに向けて進撃し、1万8千の支隊でピキシリ・ラインの背後からパラグアイ軍を襲撃。

パラグアイ軍はこれを迎え撃ったのですが、兵数3500。
衆寡敵せず、後退します。ソラーノ・ロペス大統領は増援を待って3国同盟軍に挑みますが、それでも兵数は4000に過ぎません。

現代のアスンシオン

現代のアスンシオン

 

パラグアイ軍は決死の奮戦をみせ、切り込み攻撃を含む猛攻もありましたが、結果は完敗。

4000のパラグアイ軍は全滅したと言われます。

アコスタ・ニューの戦い

1868年の暮れも押し詰まった頃、アスンシオン南方の田舎町イタ・イパテで、またしても国民をかき集めたパラグアイ軍が3国同盟軍を迎え撃ちます。

ソラーノ・ロペス大統領がイタ・イパテに集めたのは1万人弱だったようですが、その中には女性が含まれ、600人の女性兵士が実戦に参加したそうです。

電脳大本営的には、軍隊=国民を守る組織=女性を守るモノでありますから、コレはもはや軍隊とは呼べません。
武装群衆であります。

この戦いでは、ソラーノ・ロペス大統領もよく群衆を統率し、七日間にわたって3国同盟軍を食い止めて見せるのですが、やはり敗北。

ソラノ・ロペスの妻エリサ・リンチ

ソラノ・ロペスの配偶者エリサ・リンチ

 

8000人に上る死傷者を出して壊滅してしまった「パラグアイ軍」ですが、ソラーノ・ロペス大統領だけは60人ほどの直属の部下に守られて脱出します。
3国同盟軍も4000ほどの大損害を受けていて、脱出部隊を追う余裕がありません。

態勢を立て直すのに少し時間を掛け、3国同盟軍は1869年元旦、ついにパラグアイの首都アスンシオンに入城するのでした。

三国同盟軍はアスンシオンに「臨時政府」を作り、平和への準備を始めたのですが、ソラーノ・ロペスはまだあきらめませんでした。

ソラーノ・ロペスの率いる元?パラグアイ勢力は、アスンシオン東方の山岳地帯にあるピリベブイに「遷都」し、抵抗を続けます。

電脳大本営的に不思議でならないのは、事ここに至っても、ソラーノ・ロペスが正規戦志向だったことです。

ピリベブイに移って(追いやられて)も、ソラーノ・ロペスは徴兵を行って軍を編成しています。

元々50万人しか国民のいない国が、うち続く敗北でどんどん兵隊さんを亡くし、追い詰められてるんですから、徴兵対象は老若男女全くかまわず。
編成って言ったって、騎兵に馬は無く、歩兵には靴さえありません。手にする武器も刀剣や斧があればマシな方。

ソラノ・ロペスの「臨時首都」ピリべブイの位置

 

ソラーノ・ロペス大統領はそんな状態でも「抗戦」を選択したのです。大統領の実質的な奥さんのエリサさんも軍服を着て「夫」の横に立ったそうです。

このご婦人、私の興味を引き付けるので、別記事にいたします。

パラグアイ軍と三国同盟軍は小競り合いを続けましたが、ソラーノ・ロペスに利なく、1869年8月には新首都ピリベブイも陥落。

8月16日、撤退するソラーノ・ロペス大統領の小部隊を逃がすべく、パラグアイ軍約3500が追撃してきたブラジル軍約2万を迎え撃ちました。
コレが3国同盟戦争で最後の組織的抵抗となりました。

我が子の遺骸を前にしたパラグアイ兵

我が子の遺骸を前にしたパラグアイ兵

 

「アコスタ・ニューの戦い」であります。

パラグアイ軍のほとんどは少年兵です。
それも、6歳から9歳のガキすらも多く含まれ、成人兵は500人だけだったそうです。

それでもガキどもは勇敢に戦い、ソラーノ・ロペスの小部隊を無事に脱出させました。自分たちは全滅しましたが…

戦闘が終った戦場は、我が子の遺体をかき抱く母親たちの悲嘆の場と変わり、天地は女たちの泣き声で覆われたのであります。

終戦

ソラーノ・ロペスはパラグアイの大統領ですから、政治家であります。軍隊の指揮者でもありましたから、軍人の面も持っていました。

軍人にしろ、政治家にしろ、その使命は究極的には
「国家の繁栄を通じて、国民の幸福を最大限にする」
ってことでありましょう。

日本で言うと、小学校1年から3年のガキンチョを戦わせて、自分は逃げて、どんな幸福を国民にもたらすことが出来るんだろうか?この人。

それでもソラーノ・ロペスは戦い続けます、約半年の間。
1870年2月。
付き従う「国民」わずか400名。ついに北部の山岳地帯に追い詰められたソラーノ・ロペス「大統領」は叙勲式を行ないました。

ココまで付いてきた「国民」に、手作りの粗末な勲章を授与して士気を高めたのです。

1870年3月1日、ブラジル軍の攻撃が始まりました。

粗末な勲章をもらった者たちは次々に倒れていきます。

部下たちが倒れてただ一人となったソラノ・ロペスは、負傷しながらも最後まで敵と格闘、壮絶な戦死を遂げました。

「私は祖国とともに死ぬのだ!」

と言うのが最後の言葉だそうです。
あなたはそう望んでも、祖国は遠慮したかったと思うぞ。

パラグアイは死ななかったしな。

ソラーノ・ロペス最後の写真

ソラーノ・ロペス最後の写真

 

エリサ夫人と夫妻の幼子エンリケを載せた馬車も、ついにブラジル兵に囲まれます。
この馬車をソラノ・ロペスの長男のフアン大佐が、騎乗して護衛していたのですが、母親の目の前で戦死。

伝えられるところでは、エリサ夫人は夕闇迫る中で自ら戦場に穴を穿ち、最愛の夫と長男を埋葬したそうです。

ソラーノ・ロペス大統領の戦死で、3国同盟の戦争目的「ソラーノ・ロペス政権打倒」は達成され、5年の長きにわたって続いたこの戦争も終わりを告げたのであります。

この戦争の結果、パラグアイは国土の1/4をブラジルとアルゼンチンに割譲させられた上、賠償金(金額不明)も取られてしまいました。

人口は戦前の52万人から半分以下になり、特に成人男子の死亡率は80~90%。

3国同盟に擁立された新生パラグアイ政府は、財政再建のために国有地を売ったのですが、買い手は主にアルゼンチンの地主層であり、国内経済に対するアルゼンチンの影響力増大に手を貸したようなモノでした。

戦争後のパラグアイ領土、斜線の部分が取り上げられた

戦争後のパラグアイ領土、斜線の部分が取り上げられた

 

ココまで、あまり触れてきませんでしたが、アルゼンチン・ブラジル両国ともに、この戦争の戦費を大英帝国に大きく依存しており、経済的にイギリスに対する従属度が高まりました。

ソラーノ・ロペスを騙くらかしたアルゼンチンの反体制派ウルキーサさんは、戦争中は軍需物資を商売のネタにして財を成したのですが、その行動を避難されるようになって、ついに暗殺されちゃいます。

ウルグアイも何も得るものはありませんでした。
コロラド党とブランコ党の両党による政情不安も解消されないまま、今でも国内対立が見られます。

ソラーノ・ロペス大統領に対する、新生パラグアイ国民の評価は厳しく否定的でした。

「国を破滅させた当事者」でありますから、非難されて当然でしょう。生き残ったエリサ夫人も「パラグアイ居住」を拒否されています。

しかし、時とともに評価は変わるモノであります。

今ではソラーノ・ロペス大統領は、
「現職大統領が最後まで武器を取って戦い、戦死した史上唯一の例」
ということで、愛国者とされているのです。

現在ではこの4国は「南米南部共同市場(メルコスール=MERCOSUR)」(域内関税同盟+マクロ経済政策の協調)を作って協力関係にあります。

メルコスールを決めた条約は、パラグアイで協議され調印されたので、「アスンシオン条約」と言われています。

日本(だけ)が大事なのだ

さて、たいそうな長文にお付き合い頂いて恐縮です。

長々と遠く南米で、国がほとんど滅びても本土決戦を続けた話を書いてきました。

私が3国同盟戦争を勉強したい、と思うキッカケを作ってくれた帝国陸軍軍人・井田正孝は、当然この「本土決戦」の顛末を知っていていただろうと思われます。

つまり、本土決戦は日本人の半分くらい死んだって「勝ち目がない」ことは十分に判ってた筈。

武器すら行き渡らない「国民義勇戦闘隊」を何人揃えても、残念ながらマトモな抵抗にはならなかった、すなわち、敵に継戦を諦めさせるだけの損害を与える…なんて夢物語も良い所だと、十分に理解できてた筈なんです。

こんなの、マトモな「軍人」でしょうかね?

こんなアンポンタンと同じ発想をする「大日本帝国勝利説」を弄ぶ方もいらっしゃいますけどね、現代でも。

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