発見されたタロとジロ

「奇跡の船」の生涯2

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昭和20(1945)年8月、「宗谷」は横須賀でドック入りしていたのですが、ここで戦艦「長門」病院船「氷川丸」とともに空襲を受けています。

引揚げ船

このとき、敵機が落とした増槽が「宗谷」の機関室真上の天窓に衝突しました。増槽から漏れたガソリンは機関室に流れ込みましたが、ドック入りして機関が停止していたためか、そのまま蒸発するという危機一髪の場面もありました。

南極観測船としての公試中

南極観測船としての公試中の「宗谷」

幾多の危機を間一髪で切り抜け続けた「宗谷」は、こうして大戦争を生き抜いたのですが、お仕事の方は無くなったワケではありません。
いったん連合国に接収された「宗谷」でしたが、敗戦の年の10月には大蔵省へ返還されます。この時代、大蔵省だろうが第二復員省だろうが、日本が持っているフネには重大な任務がありました。

大日本帝国の領域のうちで、いわゆる「内地」と言われていた以外の地域から、日本人を連れ帰ってくる仕事です。「宗谷」は「引揚げ船」として働くことになったのであります。

引き揚げ船宗谷

引き揚げ船「宗谷」

 

収容した引揚者の居住区を仮設する、甲板上には急ごしらえのトイレや洗面所を増設するなど簡単な改装を受けた「宗谷」は支那・朝鮮半島・樺太・台湾・ベトナム…と休む間もなく駆け巡り、一万九千名に上る引き揚げ者を日本に連れ帰ったのです。
引揚げ船になったとき(海軍籍を離れた時、と言った方が良いかも)船名を「宗谷丸」と改めたのですが、船体に記載された船名はもとの「宗谷」のままでありましたので、この記事では「宗谷」で通しちゃいます。

昭和21年8月、旧満州からの引揚げ者収容のため葫蘆(コロ)島に停泊する“宗谷”

昭和21年8月、旧満州からの引揚げ者収容のため葫蘆(コロ)島に停泊する「宗谷」

この復員輸送の間に、船内で女の子が産まれたことがあったそうです。それも二回。その女の子はどちらも「宗谷」から一字を取って「宗子(もとこ)」と名付けられたと言います。
復員業務を3年ほど務めた昭和24(1949)年8月1日、「宗谷」は復員船としての任を解かれます。が、新たな任務が「宗谷」を待っておりました。

実は「宗谷」はその前年の昭和23(1948)年11月、塗装を商船風に改めていました。まだ制度上は日本の樺太庁の施政下にあった樺太の真岡と函館間を結ぶ輸送を行うためでした。真岡は、もちろん「あの」真岡です。

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占守島への輸送といい、「宗谷」はどうもソ連の暴虐とどこかで絡む運命なのでしょうか。
しかし、この後ではいろいろな意味で「ソ連に救われる」という皮肉が彼女を待っています。

喜びも哀しみも幾年月?

昭和13年に造られた「宗谷」は船齢10年少しですから、人間で言えばまだ働き盛りの筈でした。でも、大東亜戦争とその敗戦処理に酷使されていましたので、廃船も近いと判断されていたようです。

しかし海上保安庁と名前を変えて命脈を保っていた「海軍」には「保有する船舶の不足」という危機が忍び寄っていました。旧海軍時代に大量に徴用していた民間船の返還が進んでいたのです。
船の足りない海上保安庁の任務の中には、「灯台補給船」という灯台へ物資を補給するための船の運航もありました。
この灯台補給船の都合がつかなくなり、海上保安庁はやむなく「宗谷」を起用することにしたのです。

巡視船「みずほ」の煙突

巡視船「みずほ」の煙突

小樽に係船されていた「宗谷」はまたまた改装工事を施される事になります。昭和24(1949)年12月12日にGHQから海上保安庁に移籍した「宗谷」はソナーが撤去され、塗装は白に統一、居住環境改善のために売店(軍艦なら酒保ですな)など船内設備を更新したほか、激戦をくぐり抜けてきた船体のメンテナンスが行われました。
煙突には羅針盤のマークが描かれています。羅針盤のマークは海上保安庁のシンボルであります。

こうして当時の海上保安庁が保有する最大の船舶となった「宗谷」は、全国各地の灯台に補給品や必需品を届けて廻る仕事に就いたのです。

現在の灯台とは異なり、当時の灯台には「灯台守り」と呼ばれる人たちが住み込みで詰めていました。日本各地にある灯台への補給が必要なので、航路は幅広くて、日本の領海内のありとあらゆるところに出張したようです。
スケジュールはおおよそ春は本州・夏は北・秋は南・冬は瀬戸内海と予め決められていましたので、もう「宗谷」は氷の海を航海することはありませんでした。

灯台補給船宗谷

灯台補給船宗谷

 

航海する所は変わりましたが、「宗谷」が運ぶ物資は食料・燃料や雑貨などと変更がないように思われます。しかし厳しい環境に身をおいて、航海の安全を護り続ける灯台守りたちが充実した生活を送っていけるように、かつての「特務艦」時代には考えられない物品も「宗谷」は積み込んでいました。

灯台守りは「灯台に住み込み」であり、家族をお持ちの方も多くいました。これは「喜びも悲しみも幾年月」という映画で活写されているそうです。この映画には「宗谷」も登場するんだそうですが、そんなワケで「宗谷」は子供さんに向けた玩具なども運びました。
そこから、「宗谷」は「灯台の白姫」とか「海のサンタクロース」などと呼ばれるようになったそうです。

「灯台補給船」の「宗谷」が運んだもっとも変わったモノは現金でありましょう。
灯台守りさんの給料?いえいえ、もっと巨額な現金を運んでいるんです。
昭和29(1954)年。敗戦の後、長くアメリカに占領・統治されていた奄美諸島が日本へ返還されることになりました。
奄美諸島ではこの間、ドルが通貨として使われていました。返還と同時に、これを円に切り替えなければいけません。そのための「円運搬船」として、「宗谷」に白羽の矢が立ったのであります。

本土復帰直後の奄美大島

本土復帰直後の奄美大島

 

深夜に鹿児島港で現金を積み込んだ「宗谷」は、漆黒の闇を切り裂いて一路南下。奄美大島の名瀬に到着、名瀬市内で盛大に行われた「日本復帰祝賀式典」に一役買ったのでありました。

この灯台補給船のお仕事を続けること5年半。昭和30年になると、日本も戦争の打撃から立ち直り、経済成長の道を驀進しかけていました。

また改造

当時、「各国でそれぞれ船や人を出し合って、北極や南極の調査をやったろやんけ!」という話がありまして(第3回「国際地球観測年・昭和32~33年)、日本も国際社会への貢献を志しました。

この計画は昭和30年には「国際地球観測年(IGY)特別委員会」の「南極会議」で検討されることになり、第1回目の会議が7月にパリで開催されました。日本はこの会議に文書を送って参加の強い意志を伝えたのであります。

9月8日からブリュッセルで第2回の「南極会議」が始まりました。会議の初日、日本代表の東京大学・永田武教授は、わが国の白瀬探検隊の実績などを語り日本が南極観測に参加する意思がある旨を熱弁。
しかし、会場の反応は至って冷淡でありました。オーストラリア・ニュージーランド・イギリスなど大東亜戦争で我が国に痛めつけられた国々が
「日本に国際社会に復帰する権利はねえよ!」
などと抜かしやがったのです。
覚えてやがれよ、お前らなんぞ何時かは我が軍の前に平伏させてやる。ラグビーじゃリスペクトするけどな、それとは別問題じゃ。

我が国は水面下でアメリカ・ソ連などに手を廻し、ついに会議最終日に「南極観測参加」についての再討議に持ち込みました。
再討議ではアメリカとソ連が日本参加を歓迎し、かろうじてわが国の参加が承認されたのです。

宗谷の前に進み出て、力強く砕氷前進し脱出の水路を開く砕氷船オビ

「宗谷」の脱出水路を開くソ連砕氷船「オビ」

しかし、各国の観測基地の具体的な割り当てでは、我が国はもっとも観測が困難視されたプリンス・ハラルド海岸を提案し無ければなりませんでした。
承認されたこの海岸は人跡未踏の地で、接岸不能とされていた南極の空白地帯だったのであります。

この困難な観測任務に、我が国は当初外国船をチャーターして投入する予定だったそうです。ところが、砕氷船などそんなに沢山あるモノじゃないですし、日本隊が目指すのは有力各国の探検隊も手を出さないような危険地帯です。

新しく砕氷船を作る余裕は予算的にも時間的にもありません。となれば、「宗谷」が目をつけられるのは自然な成り行き、というモノでありましょう。
この南極観測船の候補としては灯台補給船「宗谷」と同様に砕氷能力を持っていた鉄道連絡船も候補に上がったのですが、その船名が「宗谷丸」というのも偶然とも思えないようなことであります(笑)

この老朽船を南極の厳しい気候に耐えて、越冬隊を送り届けるフネに改造するのは笑い事ではありません。しかも与えられた工期は限られていました。

改造の設計は出来るだけ短期に、工作の容易さも勘案して行われなければなりません。この設計作業は「船舶設計協会」に託されました。
この協会は戦艦「大和」級の設計者の一人として有名な牧野茂など、高い技術力を誇った大日本帝国海軍の技術者の集まりでありました。

彼らは帝国海軍技術の誇りを胸に、極めて短期間の間に膨大な設計作業をこなして見せたのです。

灯台補給船“宗谷”

灯台補給船「宗谷」

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改造の工事を引き受けたのは横浜の浅野ドックでした。昭和31(1956)年3月12日に着工すると、7ヶ月に及ぶ昼夜兼行作業を敢行、10月10日には海上保安庁に引き渡して東京に回航されました。
ところが実際には作業は完了していませんでした。浅野ドックの作業員たちは横浜から台船で東京の「宗谷」のもとへ「通勤」して作業を続行、ついに完成させたのでありました。
犬HKの「プロジェクトX」とか言う番組では、横浜中の作業員たちが手弁当で駆けつけて作業を仕上げた、との捏造演出をやらかしていますが、それは事実とは異なります。

冷静に考えてみれば、普段からやってない作業を、広さの限られた作業スペースで沢山の(ベテランとは言え)作業員が効率よくやれるワケないじゃないですか(笑)
「プロジェクトX」は比較的良質な番組という評判ですが、犬HKのやることはこの程度であります。ついでに申し上げたいのですが、愛犬家としては、「犬HK」という言い方は止めて頂きたいんですけどね(笑)自分でも使ってるけど。

南極へ

そしていよいよ11月8日。宗谷は南極へと旅立つのでありますが、老朽船改造の「宗谷」1隻では遠洋航海が不安だとされて、東京水産大学の練習船「海鷹丸」(1,450総トン)が改造されて随伴船として同行することになっていました。

「海鷹丸」は熊凝武晴(くまごり・たけはる)船長以下52名の乗組員と実習生27名が乗船して「宗谷」より先に出港していました。

宗谷の随伴船「海鷹丸」

宗谷の随伴船「海鷹丸」

老朽とは言っても基準排水量で3000トン以上あるフネの随伴に1450トン、それも練習生付きかよ、と思ってしまうのですが、これには理由がありまして。

船には、海に浮かんでる状態では見えませんが、「ビルジキール」ってモノが装備されています。横揺れ防止のためのヒレだと思っていただけば良いのですが、「宗谷」の砕氷船への改造に当たって
「氷に乗り上げて割っていくフネだから、ヒレが突き出てたら邪魔じゃん」
ってな意見が出てビルジキールを外してしまったんですね。ですから「宗谷」の航海には「揺れ」が大きな心配だったのであります。

実際、11月15・16日に「宗谷」はフィリピンの西方洋上で台風19号・20号に遭遇するのですが、その船体は激しくローリングしてしまいます。この時の艦の傾斜は38度。復路になりますがケープタウン沖の「暴風圏」では62度も傾いたそうです。

それで「随伴船」なのであります。

南極観測船宗谷、第一次観測時

「宗谷」第一次観測時

 

それでなくても目的地は「到達不可能」と言われる海岸。乗組員には家族と水杯を交わしてきた人もいたという航海でした。
敗戦に打ちひしがれていた日本が、世界に向けた新たな一歩。そのアピールのための任務だと思えばこそ、踏み出せた航海であったに違いありません。

昭和基地

「宗谷」は激しいローリングを伴いつつも順調に公海を続け、昭和31年12月19日に「海鷹丸」を伴って南アフリカ共和国のケープタウンに入港。
ここで態勢を整えると29日には「海鷹丸」とともにケープタウンを出港、いよいよ魔の「暴風圏」に突入するのであります。

昭和32(1957)年の元旦は激しい動揺の中で迎えることになります。乗組員・観測隊員ともに正装して後部ヘリ甲板に集合して新年の挨拶を交わします。前部マスト上には門松が立てられたと言います。日本のフネらしい良い光景です。

1月4日には「暴風圏」を突破、激しかった動揺が嘘のように治まると、「宗谷」の右舷45度に氷山が望見されました。10日には南極大陸の周囲を囲むパックアイスの縁に到着し、「海鷹丸」に別れを告げます。「海鷹丸」は氷をかき分けて進む能力を持ちませんから、ここに留まって海洋観測を行うのです。

宗谷第4次~第6次観測時

「宗谷」第4次~第6次観測時

「宗谷」はヘリコプターで上空より氷の状態を念入りに偵察。この偵察を16日まで続けてついに進入路を決めます。
「宗谷」は氷海に突入して砕氷前進を開始しました。1月20日。厚く固い「定着氷」の外縁部に到着。ここからの前進は困難な仕事でしたが、氷を爆破したり体当たり(チャージング)を繰り返したりで、さらに南極大陸に近づいて行きます。

1月24日。「宗谷」は南緯69度東経39度の地点に到達し、これ以上の前進は不可能と判断します。しかし、ここはもう南極大陸の岸辺と言える地点でありました。
観測隊はここから犬ぞり隊による偵察を開始、翌日には基地建設地点をオングル島に決定して荷物の陸揚げを開始。
1月29日にはオングル島に上陸してこの基地を「昭和基地」と命名。南極に高々と日章旗が掲げられたのであります。

南緯69度、東経39度の地点に接岸を完了、ただちに積荷を降ろす宗谷

南緯69度、東経39度の地点に接岸を完了した「宗谷」

 

この快挙はすぐさま遠い北半球の祖国にも伝えられ、号外が発行されるほどの大ニュースとなりました。
国民は日本の国力の回復を思い、歓喜に涌いたのでありました。

「宗谷」はこの後、さらに改装を重ねながら第6次観測まで南極観測船として働き続けます。

老朽船改造の観測船ですから、地球の自然の猛威には力不足は否めない場面は何度もありました。彼女の生涯で何度も絡むソ連の砕氷船に何度も窮地を救われたりするのです。
私なども幼いころに「宗谷がソ連のフネに救助を求める」などの犬HKニュースに接するたびに、悔しくて仕方なかったモノです。

巡視船宗谷

巡視船「宗谷」

 

観測船としての役目を終えると、この働き者は北海道第一管区の巡視船として、海難救助や冬期の北洋における医療活動に従事します。
救助した船125隻・救助した人数は1000名にも及びましたので、「宗谷」には「北の海の守り神」との異名が奉られる事となります。

ようやく「宗谷」が現役を引退するのが昭和53年でありまして、実に40年あまりも過重な任務をこなし続けたのであります。

最後に誕生エピソードを

「宗谷」はソ連から注文を受けたのにも関わらず、各種の事情から赤い悪魔の手に渡ることはありませんでした。
姉妹船3隻のうち、海軍に購入されたのは「宗谷」一隻だけ。残り2姉妹は陸軍に貨物船として徴用され、非業の最後を遂げています。
「宗谷」も「軍艦」として決して温存されたわけではないのに、激戦続く最前線近くをウロチョロしていたのに、なぜか大東亜戦争を生き延びます。

戦争が終わっても、「宗谷」に課せられた任務は過酷なモノばかりで、ついには南極へ。

「宗谷」がこのように太く長い「人生」を全うできたのは、艦長・船長をはじめとする優秀な水兵さん船員さんのお蔭があることは勿論です。

下松丸(松尾造船所初の建造船)

下松丸(松尾造船所初の建造船)

 

ですが、それだけではありません。普通では考えられないような「幸運」も、「宗谷」には付いて回っていました。

その「幸運」はどこからもたらされたのでしょうか。

電脳大本営には、その幸運の源は「宗谷」を生み出した造船所にあるように思われてなりません。
「宗谷」の誕生の経緯につきましては、既に述べさせて頂きましたが、建造を担当した川南工業の松尾造船所がかなりクセのある造船所なのであります。

川南豊作

川南豊作
「宗谷」産みの親

 

松尾造船所は「香焼島」という所にあるのですが、実はいったん倒産した造船所でありました。
川南工業の創業者である川南豊社長は造船に目を付けたのですが、香焼島に閉鎖された造船所があることを聞き、昭和11(1936)年3月、調査に訪れたのであります。
2.26事件で世情が騒然とした翌月ですね。廃造船所には、老人が一人いたそうです。
この老人は吉田三茂という名で、旧松尾造船所の守衛長を務めていた人だったそうです。
造船所の松尾孫八元社長によほど可愛がられたのか、造船所が閉鎖されてから12年も経過しているのに、旧社長の恩を思って毎日毎日、自腹で工場の警備に来ているというのでした。

視察の川南社長はこの吉田守衛長の話に感動して、即座に廃造船所の購入を決めたのです。条件は新造船所での吉田三茂氏の守衛長就任と松尾孫八元社長の顧問への就任でありました。

名称も「香焼島」ではなく、旧のままの「松尾造船所」と決められました。旧松尾造船所の工員さんたちも呼び集められ、造船には経験の無い川南工業のプロパー社員たちと力を合わせる体制が作られました。
川南工業は、社長の廃造船所視察の僅か3ヶ月後、第一船「下松丸」を建造。この「下松丸」建造中にソ連の貨物船発注に応札し、見事に受注するのです。

これほど素早く事業が軌道に乗ったのは、吉田守衛長の縁で旧造船所のノウハウを引き継ぐ事が出来た事が大きい事は誰にもお判りになるでしょう。

吉田守衛長は「宗谷」の活躍を見ることなく病に倒れてしまうのですが、川南社長は「たかが」守衛長の死に社葬を以て生前の貢献に報いたのでした。

吉田守衛長の碑

吉田守衛長の碑

何の物理的な裏付けもありませんが、こういった極々日本的な工場で作られた製品には、品質の保証が付いております。
品質の良いモノだけが、戦場でも稀に訪れる「幸運」を掴み取ることが出来るのではないか?と私は思います。

 

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-人物, 国防と民間人, 帝國海軍, 海上自衛隊と海上保安庁