秋水空戦イラスト

日欧連絡路とロケット戦闘機

2016/06/12

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アメリカの民間を狙った戦略爆撃に苦しめられる大日本帝国。

陸海軍の輿望を担って、新兵器の開発が進められていました。
ロケット戦闘機です。陸海軍共同開発なんですが、今回はそのうち海軍の試作機をモチーフに、「原因不明で失敗しても諦めるな」と言うお話であります。

無念の失敗

昭和20年の7月7日神奈川県追浜飛行場において、大日本帝国初の液体燃料ロケット戦闘機「秋水」の試験飛行が行われました。

テスト飛行に出る秋水

テスト飛行に出る秋水

テスト・パイロットは海兵七十期の犬塚豊彦大尉。
犬塚大尉の合図でエンジンが始動され1段、2段と出力が上げられます。午後4時55分、ついにクルマ止めが外されて、もの凄い轟音とともに320メートルを滑走し、20度の角度で上昇していきます。

その目を疑うような力強い上昇は16秒間続き、関係者から拍手が沸き起こったその時、高度350メートル付近で突如エンジンが停止してしまいました。機体は余勢で500メートル付近まで上昇、水平飛行に移り、滑空状態で旋回して滑走路に戻ろうと試みたようでしたが、犬塚大尉の経験よりも沈降速度が速かったのか、翼端を倉庫の屋根に接触、墜落大破してしまいました。

テスト飛行で墜落した秋水

テスト飛行で墜落した秋水

この事故で犬塚大尉は頭骨が折れ、入院先の病院で何度も事故を詫び「カルピスが飲みたい」と言ったのを最後に殉職、「秋水」も大日本帝国の空を護ることなく敗戦の日を迎えることになりました。
ここまで参考にさせていただいた本
日本初のロケット戦闘機「秋水」―液体ロケットエンジン機の誕生

設計図、届かず

1944年4月。ロケット戦闘機 Me163B・ジェット戦闘機Me262の資料などを積んだ伊号第29潜水艦は木梨鷹一中佐の指揮のもと、ドイツが占領していたフランス・ロリアン軍港を出港、故国を目指しました。

木梨鷹一

木梨鷹一

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航海は苦難に満ちていましたが、第二次ソロモン海戦で発射した6本の魚雷で空母ワスプ、駆逐艦オブライエンを撃沈、戦艦ノースカロライナを大破した名艦長と鍛え上げられた乗組員によって乗り切っていきます。

ついに7月14日、伊号第29潜水艦はシンガポール軍港に無事到着しました。
伊29潜に便乗していた巌谷英一海軍技術中佐は、一刻でも早く戦勢振るわぬ母国に最新の武器情報を届けるために、資料のうちほんの一部を持って空路日本へ向かいました。

ロリアンを出港する伊29

ロリアンを出港する伊29

伊29潜の方はシンガポール出港後バシー海峡で浮上航行中、アメリカ海軍の潜水艦「ソーフィッシュ」に撃沈されてしまいました。

木梨艦長は二階級特進しましたが、先帝陛下に拝謁を賜るほどの栄誉を持つ潜水艦乗りとしてはあっけない最後ではありました。やはり日独連絡の重責で、心身ともに疲れ切っていたのではないでしょうか。

ともあれ、巌谷中佐が空路を取ったおかげで「噴射機関」関係資料の完全な損失は免れることができました。
しかしながら巌谷中佐が手元に置いたのはMe163B の機体外形3面図・ロケット燃料の成分表と取扱説明書・ロケット燃料噴射弁の試験速報・実況見分調書(巌谷中佐による)だけでした。

我が国初でたぶん最後になるロケット戦闘機「秋水」はコピー品ではないのです。
発想と機体外形はドイツから譲ってもらったものの、「飛行機」を構成する大部分の技術は大日本帝国オリジナルで形成されており、アメリカの激しい空爆下、僅か1年でこれを試験飛行まで持ち込んだ我が国の技術力は、現代の私たちが誇りとしなければなりません。

機体関係では、内部の桁構造やキャノピーはMe163と全く違うものですし、Me163の機首についている発電プロペラは廃止(バッテリー搭載)。

主翼も木製に変更し、翼幅も拡大されています。えっ?無尾翼はパクリだろって?
よくぞ聞いてくださいましたね。無尾翼はリピッシュ博士の専売特許ではありませんよ。我が国でも東京帝国大学航空研究所が無尾翼機の設計を手がけていましたので、この研究が大いに役立ちました。
一方、ロケットエンジンの研究は昭和15年頃から陸軍航空技術研究所が行っています。
この陸軍のロケット研究が皆さんご存知、イ号一型無線誘導弾(通称エロ爆弾)の液体ロケットエンジンに発展するわけです。

さらに海軍側でも、三菱重工長崎兵器製作所で酸素魚雷に替る魚雷の駆動力として高濃度過酸化水素と水加ヒドラジンの化学反応による駆動(いわゆるワルター機関ですね)の研究が完成しつつあり、同じ化学反応を利用したロケットエンジンの研究も進展していたのです。

まあ、悔し紛れにここまで書きましたが、伊29潜が無事日本に帰り着いていたら、ドイツの資料が日本の技術者の手に渡っていたら「秋水」はもっと早く完成して、B29を叩き落していただろうことは間違いないところです。

*Me163、秋水には「航続時間の短さ」という弱点があり、ドイツでは滑空して戻ってくるMe163が連合軍戦闘機に狙われる、という事象があったのですが、戦闘機が海を渡ってこなければならぬ我が国ではどうだったのでしょうか?
この辺りの検証はヨーロッパ戦線に詳しい方たちにお願いしたいところです*

遣欧潜水艦作戦

1941年6月、独ソ開戦でそれまで活発だったシベリア鉄道経由の日本とドイツ・イタリアの陸上連絡路が途絶してしまいました。

生ゴム・錫・モリブデン・ボーキサイトなどの原材料を欲していたドイツは海上封鎖突破船をインド洋経由で日本(占領した東南アジア)に送りますが、アフリカ沿岸でイギリス海軍や南アフリカ連邦軍に妨害されるようになりました。

この状況で、レーダーなどの技術が必要だったドイツと日本側との思惑が一致、お互いの潜水艦による交通が企画されたのです。
参考;深海の使者

日本側からは5回に渡って伊号第三十潜水艦、伊号第八潜水艦、伊号第三十四潜水艦、伊号第二十九潜水艦、伊号第五十二潜水艦の順番で派遣され、完全に往復に成功したのは第二回の伊8のみです。(伊30は帰ってきたシンガポールで自軍の機雷で爆沈、伊29は前述、他の2隻は往路撃沈される)

伊号第二九潜水艦乗員とスバス・チャンドラ・ボース

伊号第二九潜水艦乗員とチャンドラ・ボース

当然ドイツ側からも潜水艦が派遣されてもよさそうなモノですが、ドイツは自軍の水兵による派遣はなぜか行わず(敗戦直前を除く)、Uボートを通商破壊戦用に大日本帝国海軍へ譲渡する、という形を取りました。
日本への廻航は、遣欧潜水艦に便乗して行った日本海軍の水兵の手によって行われたのです。

積極的?だったのはイタリア海軍です(?マークは、大型潜水艦を持たないドイツに強要された部分もあるため)。
コマンダンテ・カッペリーニ、ルイージ・トレッリの2隻が日本軍占領地域までたどり着きました。とりわけルイージ・トレッリは伊30が失敗したウルツブルグ・レーダーの技術移転を、技術者とともに成功させました。

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瀬戸内海を航行するコマンダンテ・カッペリーニ

瀬戸内海を航行するコマンダンテ・カッペリーニ

この2隻の潜水艦はイタリア降伏とともにドイツに接収され、ドイツの崩壊後は日本海軍へと所属を変え、「枢軸3か国の海軍で戦い抜いた潜水艦」となりましたが、昭和21年に紀伊水道でアメリカ軍の手で海没処分されました。
アメリカというのは、つくづく軍艦に対する敬意の無い奴らですね。

空路で連絡出来なかったのか?

海がダメでも空があるさ、となるのが普通でしょう。
我が国には世界に冠たる長距離機を作り上げた実績がありました。

「航研機」です。

航建機イラスト

航建機イラスト

航研機は陸軍のバックアップを得て、東京帝国大学航空研究所が中心となって作り上げた実験機。
旋回するにも細心の注意を要するほど実用性の全くない機体でしたが、長距離無着陸飛行の世界記録を樹立してしまいました。

それは1938年5月13日から。から、というのは一日ではこの大記録は樹立出来なかったからです。

木更津→銚子→太田→平塚を周回するコースは1周401.759km。13日から3日目の15日、27周を無着陸で廻ってついに前世界記録を樹立。
さらに2周を追加して5月15日午後7時21分に木更津飛行場へ着陸しました。
周回数29周、総飛行距離11,651km、飛行時間62時間22分49秒でありました(FAI公認)。

航研機

航研機

さらに、我が国の長距離機研究は陸軍を中心に進められました。

キ77は、研究機ながら偵察・連絡機へのスライドを前提にしていました。陸軍と、当時はまだ売国路線ではなかった朝日新聞社が開発費を分担、立川飛行機と東大航空研究所が開発・設計を担当。
航研機に比べればはるかに実用性能が向上した超・長距離機で、1942年11月に2機だけ完成しています。

キー77(A-26)長距離機

キー77(A-26)長距離機

1943年(昭和18年)6月、その2機のうちの2号機をドイツに向かわせる計画が発動されました。
ドイツへは満州あるいは支那の占領地域の空港から、ドイツ占領下の東欧までユーラシア大陸を突っ切るのが最短距離(大圏航路は考えてませんよ)でしょうが、大日本帝国はなぜかソ連の領空を通過することを遠慮してしまいます。

キ‐77の2号機は7月7日、朝日新聞社のパイロット5名と陸軍将校3名を乗せて、シンガポールからインド洋を経由してドイツ領へと飛び立ったのです。

しかし、2号機はそのまま連絡が取れなくなってしまいました。

連合国(もちろんソ連含む)の該当するような撃墜記録は現在まで発見されていません。天候によるか、機体の故障による墜落が疑われるところですが、残骸が発見されることもありませんでした。

大日本帝国の空路でのドイツとの連絡努力はこれっきりで終了。
全くの原因不明のまま、あっさりと諦めてしまったのでありました。

イタリアは成功していた

キ‐77の2号機による日欧空路連絡作戦の失敗以前に、同盟国イタリアでは空路による日本との連絡が計画されました。使用機はSM(サヴォイア・マルケッティ)75。

サヴォイア・マルケッティSM75日伊連絡機

サヴォイア・マルケッティSM75日伊連絡機

我が国の航研機やキ‐77とは全く違い、民間航空機として開発されたものでした。軍用機を通り越して実用の塊として生まれたのに、その長距離性能に目を付けられ、東洋の同盟国に派遣されることになったのでありました。

計画は1942年6月9日に準備が完了。ドイツがソ連に攻め込んでいることを利用し、占領下にあったウクライナのザポリージャという土地の飛行場を出発地に設定。
日本側はソ連を刺激することを必要以上に恐れて難色を示したようで、アントニオ・モスカテッリ機長は「日欧連絡」を示唆するような証拠などを一切持たず、ソ連領内に不時着するような場合は機体と書類をすべて破壊するように命令されていました。

6月29日にはイタリアを出発、その日のうちにザポリージャに到着。
ザポリージャ飛行場の滑走路はソ連らしく草地で、700メートルしかなく、燃料を満載した過荷重状態のSM75が離陸するのは困難でした。
しかしモスカテッリ機長は滑走路の状態などものともせずに日本へ向かって飛び立ったのでありました。

東へと向かうモスカテッリとクルーは、アラル海の北岸・バイカル湖上空・タルバガタイ山脈と通過するコースをたどり、ゴビ砂漠上空をも通過します。
この間、ずっとソ連領空です。もちろん無線封止ですが、当然視認は避けられず、対空砲火・迎撃戦闘機の妨害を回避しながらの大飛行でありました。

yak-1日伊連絡機を迎撃したと思われるソ連戦闘機yak-1 カタログスペックは零戦なみ。

日伊連絡機を迎撃したと思われるソ連戦闘機yak-1
カタログスペックは零戦なみ。

6月30日の22:00にはついに黄河を目の下にします。ユーラシア大陸は巨大で、モスカテッリ機長はさらに半日以上の飛行をしなければなりませんでした。
1942年7月1日15:30、ついにイタリアが同盟国に派遣したSM75は草地のザポリージャ飛行場から東に6,000 kmを無着陸で飛行。
大日本帝国の影響下にあった内モンゴル・包頭の飛行場に到着したのでありました。
残りは東京まで2700キロ。SM75とモスカテッリ機長にとっては軽いものだったでしょう。しかし、モスカテッリ機長は気分がすぐれませんでした。
思っていたほどの大歓迎をされなかったからです。歓迎されないのは大日本帝国の本土に着いても同じことでした。
大日本帝国はソ連が日本に対して戦端を開くことを異様に恐れてイタリアの連絡飛行を歓迎していなかったのです。

怒りと失望のうちにモスカテッリは帰国の途につき、今度の飛行も成功。
イタリアは「日欧連絡」に初のチャレンジで完全に成功したのですが、大日本帝国の対応に失望し、二度とSM75を派遣することはありませんでした。

ヨーロッパには行かずに(非公認)世界記録を樹立

2号機を日欧連絡飛行で失ったキ‐77。
残された1号機は、昭和19年7月2日、新京・ハルビン・白城子を結ぶ三角コースで、着陸することなく57時間12分をかけて16,435kmを飛行し、航続距離と速度の国際記録を達成しました。
ただし戦時下であったたので、FAIは公認せず、正式な世界記録とはなりませんでした。

一号機は敗戦まで残存したのですが、米軍が研究のために取り上げてしまいました。

護衛空母「ボーグ」で輸送されるキー77

護衛空母「ボーグ」で輸送されるキー771号機

 

この輸送に使いやがった護衛空母「ボーグ」は、最後の遣欧潜水艦、伊52を大西洋上、艦載機で撃沈した可能性が高い、といういやらしいオチが付きましたところで、今週のお話はおしまいであります。

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-伊太利, 同盟諸邦の軍備紹介, 帝國海軍, 帝國陸軍, 独逸, 航空機, 航空機
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