「きりしま」から発射されるSM3ミサイル

帝国海軍の情報戦~インテリジェンスとインフォメーション~

2016/11/12

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北朝鮮が弾道弾を我がEEZに打ち込んだのに続き、5度目の核実験に成功して、ミサイル搭載が可能になったと主張していますね。

嘘つき捏造民族チョソの言うことですから、マトモに聞くことは出来ませんが、放っておくことも出来ません。こういう時に頼りになるのが「情報活動」なんです。
ところが、情報活動って言うと何だか暗くて薄汚いモノとしか考えられないアホな左巻きたちがいっぱい我が日本の空気を吸いやがっています。

大東亜戦争の我が海軍の情報活動を見ながら、情報活動って何だろう?を考えてみませんか。

海軍の情報活動

大日本帝国海軍は日露戦争の時に「通信情報(シギント)」の重要性に気づいたと思われます。

情報とは、もっと違った意味じゃないの?って言うのが電脳大本営の主張でありますが。

通信情報

ウラジオストック艦隊の装甲巡洋艦「ロシア」「グロンボイ」が東京湾頭に来襲したとき、焼津(静岡県)の虚空蔵山の山頂にあった海軍無線電信所が通信を傍受、その行動を逐一トレースして大本営に報告したのです(和智恒蔵大佐の記録)。

焼津市の船舶無線電信発祥の地記念塔

焼津市の船舶無線電信発祥の地記念塔、海軍施設の跡に建っています。

その後、第二・第三太平洋艦隊(バルチック艦隊)の来襲を特設巡洋艦「信濃丸」が発見・無線連絡、連絡を受信した連合艦隊は迎撃に大成功。これも立派なシギントですね。

こうして海軍が通信傍受の重要性に気づいたのは陸軍より僅かですが早かったのですが、第一次大戦から大東亜戦争あたりまで見ると、海軍の通信解析能力は陸軍にはるかに劣るものでしかありませんでした。

大連で抑留者を乗船させる「信濃丸」

大連で抑留者を乗船させる「信濃丸」

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1929年に軍令部第二班(情報担当)に「4課別室」が設置され、多摩川橘村と言う所の通信傍受所で、暗号解読作業が開始されました。
開始してほどなく、陸軍の情報部門と共同でアメリカの外交暗号(グレーコード)とアメリカ海軍の2字換字式暗号を解読したようです。

ただし、この時の4課別室要員は中杉久治郎中佐以下7名という陣容。
アメリカの暗号は解けても、英国までは手が回りませんでした。
対ソ、対支に対英米まで手掛けていた陸軍とは比べるまでもありませんし、同時期のイギリスの通信情報部が数百人の要員だったのに、少なすぎる人数ですね。
ある意味で通信暗号の解読は「手作業」ですから。

一応褒めるところは褒めておかないといけません。昭和7(1932)年になると上海に「X機関」と呼ばれる対支通信傍受組織が作られました。
X機関は第一次上海事変の時に、支那の航空兵力が杭州に集結するのを察知。2月26日早朝に海軍航空隊が杭州飛行場を急襲して、支那航空戦力の壊滅に一役買ったのでありました。

たぶんこの時の主力、3式艦上戦闘機

たぶんこの時の主力、3式艦上戦闘機

人的情報

中野学校などを擁していた陸軍に比べ、海軍の人的情報(ヒューミント)取得に対する努力は無いも同然に近いものでした。

もちろん海軍でも陸軍の特務機関に対応する「特務部」と言う組織を持っていました。
アメリカ戦略局(OSS/後のCIA)の公表している調査資料では、海軍特務部は青島・上海・広東・シンガポール・スラバヤ・ラバウルなどに支部があり、情報収集を行っていました。南シナ海では特務部要員が漁船員となって情報を集めていたようです。
イギリス情報部の資料ではこの「漁船」はベンガル湾のアンダマン諸島やニコバル諸島まで進出していたようですが、まだ未確認です。

また上海では海軍特務部が設立した商社(萬和公司)が軍需品を調達しながら情報活動を行っていました。

これら特務部で有名なのは小柴直貞大佐で、大佐の提供する東南アジア情報は「K情報」と呼ばれて軍令部で重宝されていたようです。
1941年8月の北部仏印進駐以降は小柴大佐はバンコクに移動、タイ王国に対する親日工作に当たり、親英派の多かったタイを中立を守るまでに導く働きをしています。
ただし、イギリスはバンコク=東京間の通信を傍受していて、この工作の経緯と結果はイギリスに筒抜けだったようです(あくまでも英側の記録によれば、ですが)。

大本営発表

さて、こうした海軍(もちろん陸軍も)の情報活動は大東亜戦争直前から戦争中に至るまで継続していきます。

大東亜戦争に至るポイント・オブ・ノーリターンと言われる南部仏印進駐に比べて、平穏に行われた北部仏印進駐でも米英の内情を良く偵知して外交交渉を有利に運んでいます。

そこまでは良かったのですが。ここから皆さんよくご存じの戦いの事例です。
1944年10月12日、台湾沖海空戦が生起します。
フィリピン奪還を目論む米軍は、ハルゼー提督指揮の第三艦隊を投入してフィリピン・台湾・沖縄の大日本帝国航空勢力の撃滅を図ってきました。

それに対して福留繁中将の第二航空艦隊(源田実の切り札・T部隊含む)が迎撃戦を展開したのですが…

実際のところ、台風の荒天でも出撃・攻撃可能なまでに錬成された(筈の)T部隊をはじめ、第二航艦の搭乗員たちはまだまだ未熟でした(もちろんこれは搭乗員の責任ではありません)。
10月16日までの攻撃に、のべ1200機に及ぶ航空機を投入して300機以上の損害を出してしまったのに、アメリカ艦隊に与えた損害は重巡洋艦キャンベラと軽巡洋艦ヒューストンが傷ついた程度でした。

1935年時点の「ヒューストン」

1935年時点の「ヒューストン」

ココで問題としなければいけないのは、コスパの悪さではなくて「大本営発表」であります。
この辺りの経緯も有名で、皆さんも良くご存じだろうと思いますので、簡単に触れておきますと、10月19日における「大本営(海軍部)発表」は(Wiki丸パクリです)

「我部隊は10月12日以降連日連夜台湾及「ルソン」東方海面の敵機動部隊を猛攻し其の過半の兵力を壊滅して之を潰走せしめたり」「(一)我方の収めたる戦果綜合次の如し」

  • 轟撃沈 航空母艦11隻 戦艦2隻 巡洋艦3隻 巡洋艦若(もしく)は駆逐艦1隻
  • 撃破 航空母艦8隻 戦艦2隻 巡洋艦4隻 巡洋艦若は駆逐艦1隻 艦種不詳13隻
  • 撃墜 112機(基地における撃墜を含まず)

「(二)我方の損害 飛行機未帰還312機」「本戦闘を台湾沖航空戦と呼稱す」

と言うものでした。盛りも盛ったり、と言う発表ですが、この原因は未熟な(何度も言いますが搭乗員の責任ではありません)パイロットが初めての戦闘に冷静さを失い、海面で爆発する味方の被撃墜を命中弾と誤認したり、統制のとれない攻撃で同じ敵艦の小損害を複数の艦の大損害と思いこんだり、と言ったことが何重にも起きたのだと考えられています。

実は、大本営(少なくとも海軍部)は10月16日の段階で敵機動部隊の健在に気が付いているのです。またまたWikiからです。

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10月16日には索敵機が台湾沖で空母7隻を含むアメリカ機動部隊を発見したとの報告があった。壊滅したはずの米戦力が発見されると連合艦隊(日吉)司令部で、連合艦隊航空参謀淵田美津雄中佐、軍令部航空参謀鈴木栄二郎中佐、第二航空艦隊兼T攻撃部隊航空参謀田中正臣少佐、連合艦隊情報参謀中島親孝少佐の4人で再検討が行われた。1949年7月31日に淵田美津雄がマッカーサーからの質問に答えた陳述書によれば、田中を招致して、淵田と鈴木で田中の持参した資料を検討し、中島の意見も求め、その結果いくら上算しても空母4隻撃破程度で撃沈はまずあるまいと結着した。

一方、陸軍でも情報参謀の堀栄三は航空兵からの聞き取り調査や、米軍捕虜の尋問などから真相に気づいていました。

台湾沖航空戦の「大戦果」を伝える新聞

台湾沖航空戦の「大戦果」を伝える新聞

堀の警告はフィリピン防衛の第14方面軍司令官・山下奉文大将に知らされていましたが、大本営陸軍部の(台湾沖航空戦大勝利の)認識を改めるには至りませんでした。

大本営海軍部の「超誇大公告」は陸海軍の情勢判断を誤らせてしまったのです。
陸軍はフィリピンの主島のルソン島に兵力を集中して米軍を迎え撃つ計画だったのですが、「米空母壊滅」を真に受けて急遽レイテ島での決戦を企図。せっかく山下大将が築き上げた防衛体制を台無しにしてしまいます。

山下奉文

山下奉文

海軍の方も栗田健男中将率いる第1遊撃部隊をレイテ湾に突入させる、史上空前の壮大(かつ複雑怪奇)な作戦計画を発動し大敗北。ついに水上艦艇での組織的な抵抗力を喪失することとなってしまいました。

栗田健男

栗田健男

大東亜戦争の開戦まで、海軍も「情報収集」は規模は小さいながらもちゃんとやっています。防諜面ではのちの目を覆いたくなるようなザルぶりの兆しはあるものの、シギント、ヒューミントともに成果もあがっていました。

どうしてこんな惨めなことになってなってしまったんでしょうか?

ここで、「情報」と言うものを整理しておきましょう。

一般的に政府や軍組織が取り扱う「情報」はシギント(相手の通信を傍受して収集する情報)、ヒューミント(聞き込みや情報提供者を通じて手に入れる情報)、オシント(新聞や雑誌、放送、現代ならインターネットなどで公開されている情報)、イミント(航空機などで撮影した画像情報)っていう所でしょうか。

現代では他にもテリント、エリントと呼ばれる電子情報も重視されているようですが、私には区別すらつきません。メインに扱ってる時代が時代ですから、無視します。

今まで、紹介してきましたように、大日本帝国海軍は「シギント」「ヒューミント」はしっかり収集していました。「オシント」の収集努力も続けていました。

良く言われるように、大日本帝国軍は情報をまったく軽視していたわけではないのです。では何故に台湾沖航空戦みたいなことが起きてしまったのか?

電脳大本営的には以下のようなことが原因でありますが、少し回りくどくなります。
「情報」関係ってその性格からか、残されてる資料が異常に少なくて推測で補っていかないといけませんので、どうかご容赦ください。

インテリジェンスの取り扱い

大日本帝国の陸海軍で「情報」を取り扱っていたのは、陸軍が参謀本部第二部、海軍が軍令部第三部です。どちらも「作戦」を担当する第一部と、形の上では並列関係なんですが、力関係は大きな差がありました。

どっちが大きかったかはもちろん皆さんのご想像どうりです。

さらに、この記事の副題を思い起こして頂きたいのです。
「インテリジェンスとインフォメーション」です。インテリジェンスは皆さんよくお判りですね。
では「インフォメーション」はいかがでしょうか。

台湾沖航空戦に出撃した搭乗員たちが「空母○○撃沈!」と言う報告を上げたとすれば、それはすでにインテリジェンスになっています。しかし本来これは

「投下した魚雷が敵空母○○(と思われる)に向かって行くのを視認、水柱は認めず。」とか「部下の投弾後、海面に爆発を確認。」

といった報告多数であったはずです。こういった報告が「インフォメーション」なのです。

搭乗員たちに判るのは「インフォメーション」だけ(まれに攻撃中に敵艦が沈むことはあるでしょうが、艦名は判断が困難だったはず)で、インフォメーションとは「生情報」と言っても良いでしょう。

航空隊幹部がこう言った報告を受ける訳ですが、そこで「この命中報告はあれと同一」「この爆発は時刻から味方機の被撃墜」と分析をしなければなりません。その集積から「敵空母1撃沈、2損傷。大巡1損傷」と言った戦果が導かれるわけです。これを「インテリジェンスの生産」と呼ぶそうです。

当然、航空隊の現場では次の攻撃準備のため、あるいは守備に移行するために即座にインテリジェンスを生産する必要があります。でも本来は専門部署にインフォメーションを送り、そこで生産されたインテリジェンスを「次の戦い」に活用すべきなのです。

つまり、現場(航空機の搭乗員に限りません)は出来るだけ見たまま、聞いたままの「素材」を報告し、専門家がそれを整理・分析して「情報」に仕上げる、これが正しい「情報活動」。
専門家は部隊にいても構いませんが、専門部署にも生情報(インフォメーション)が上がらなければなりません。

ところが海軍だけではなく陸軍にも外務省にも政府直轄でも、「インフォメーション(生情報)」を専門に分析する部署はありませんでした。インフォメーションを取りまとめる部署すら見当たらないのです。

前に述べた参謀本部第二部と軍令部第三部が「インテリジェンスの生産」に当たっていたわけですが、配当された人員は少なく、転勤も多いために専門家も育たず、作業もはかどりませんでした。

いきおい、作戦立案部門には軽く見られ信用されなくなり、配属される人員の質も下がり、ミスも増え…と言う悪循環に陥ってしまっていました。

海軍だけじゃない

イギリスのMI6とかアメリカのCIAなどは、本来この「インフォメーションを分析してインテリジェンスを生み出す」部門です。どうもインフォメーション(ナマ素材)の収集活動ばかりに注目が集まってしまいますけれど。

集めてもらった「情報」の分析活動なんて見た目の派手さは無いし、面白くもありませんからね。
ですが、このことが致命的に重要だったのです。

台湾沖航空戦で、陸軍の情報参謀・堀栄三は二航艦が得たのと同じインフォメーションをもとに独自のインテリジェンスを産み出しています。これはピタリと「台湾沖航空戦の真実」を射抜いていますが、フィリピン防衛に活かされることはありませんでした

堀 栄三

堀 栄三

このことは、「参謀本部の闇のようなもの」であると、上のリンク先電脳大本営の記事、「参謀本部はアカだらけ」でも指摘しています。しかし、他にもある理由が考えられます。

それは「陸軍はレイテ島防衛がしたかったのではないのか」と言うことです。
確かに陸軍は「海軍に騙された」とは言えるのですが、レイテ島も手放したくない、との気持ちがどこかに無かったでしょうか?
その気持ちがあったればこそ、情報参謀・堀栄三の忠言には聞く耳を持たず、大本営海軍部のヨタ情報をやみくもに信じ込んでしまったのではないでしょうか。

逆に言えば、レイテ島にも守備を広げるための根拠が欲しかったんではないのか?ということです。

海軍の方はもっと深刻です。
台湾沖航空戦の「勝利」が無ければ「レイテ沖海戦」は出来ません。せっかく決めた捷号作戦など、米軍の戦力を少し削れなければ実行できるワケの無いモノなのです。でも海軍中央は「決戦」したかった(現実にはさせたかった、です)。

今一度の決戦をやるために敵空母を叩く「戦果」を切望したのではないでしょうか。

こういった陸海軍の「願望」を実現するために「台湾沖航空戦の勝利」は絶対に必要だったのです。

もし「インテリジェンス生産」の専門部署がちゃんと機能していたら?

こんな「大盛り戦果」が一般公開はともかく、作戦部局で攻勢作戦の裏付けとして採用される事は絶対に無かった、と考えられないでしょうか?

良く言われる皇軍の「情報軽視」とは、こういった背景があったことを知っておかないと、正しい戦訓を知ることは出来ない、と思うのであります。

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