1941、12月10日第二艦隊旗艦愛宕から文書受領する響

『響』は沈まず~不屈の駆逐艦~

スポンサーリンク

大日本帝国海軍を代表する幸運艦と言えば、「不沈駆逐艦」こと陽炎型8番艦「雪風」ですね。

雪風の対極にある…

お口の悪い方(口汚い儂に言われたら、相当におワルいお口だぞ)は、
「雪風は護衛対象は沈んで、自分だけ帰ってくる『不幸艦』じゃん」
などと仰いますが、沈んだフネの水兵さんを助けて帰るんだから『不幸』ではないと思いますよ。

でもね、多士済々の「帝国海軍駆逐艦」の中には「雪風」の対極にあるような「不幸艦」がちゃんといましてね。
不幸だからって、簡単に沈んじゃあ、電脳大本営の記事にはし難い。

良くも小っちゃな駆逐艦に、これだけ不幸が集まるよな、って程の損害を被りながら、大東亜戦争を生き抜いたフネがちゃんといるんであります。

雪風

帝国海軍の幸運艦代表「雪風」

 

そのフネこそ駆逐艦「響」なんです。今日は「響」の不幸話です。隣人の不幸は蜜の味(笑)ってか?
僚艦に落ちたかもしれぬ爆弾を、自分で受け取ったんなら、立派な帝国に対する貢献でっせ。

その駆逐艦「響」は特型(吹雪型)駆逐艦の中でも特Ⅲと呼ばれるグループの二番艦(特型全体では22番艦)。

罐に空気余熱器を採用、熱効率を上げて4基あった罐を3基にして重量を軽減したことが特Ⅱからの改造の特徴。
もともと特型は計画重量を著しくオーバーして誕生していたのです。

特Ⅲ型兵装配置イラスト

特Ⅲ型兵装配置イラスト

 

罐を一基無くしたことで、一番煙突が細くなったのが、外見上の識別ポイントになっています。
モデラーさんはじめ、マニアの方には言わずもがな、だけどね(笑)

スポンサーリンク

駆逐艦「響」は昭和5(1930)年2月舞鶴工作部で起工、昭和8(1933)年3月31日竣工。
舞鶴工作部って言いますのは「舞鶴海軍工廠」のことね。

この頃は軍縮条約の影響もありまして「格下げ」されちゃっていました。
格下げはされましたけど、駆逐艦の新シリーズがリリースされるときは、
「一番艦は必ず舞鶴で」
ってルールはずっと守られていました。
これには、いろいろと理由があるんですが、シリーズ1番艦は排水量の管理やいろいろなデータ収集で民間造船所には任せきれなかった、ってことで宜しいかと。

1928公試中の薄雲

煙突比較用に。
公試中の特Ⅰ型の「薄雲」

 

「響」は1番艦ではないけれど、駆逐艦の聖地と申しますか、母なる造船所で誕生したんですね。

修理してるときに晴れ舞台(笑)

「響」の誕生(昭和8年)からしばらく、極東の海は平和で、おおきな争いはありませんでした。

僚艦の「雷」が訓練中に同じ駆逐艦の「深雪」と衝突して「撃沈」しちゃったことが事件っちゃあ事件ですかね。
貴重な訓練を積んだ水兵さんが何人も亡くなってるんで、もちろん笑って済ませることではありませんが…

帝国海軍は遊覧船を運行してるワケじゃないんですから、特に「襲撃の訓練」をしてる駆逐艦に事故は付きまとうよね、と申し上げておきましょう。

支那の河川を航行中の雷

「雷」は「響」と同型、コンビを組んで行動することも多かったので。
場所は支那のどこかの河だと思われます。

 

で、昭和16年になると俄かに太平洋の波が荒くなってまいります。
アメリカとの決戦に勝つためには、「響」など駆逐艦の大活躍が求められる…と思ったのかどうか?までは知りませんけど、海軍は「響」に九三式探信儀を装備してやることにします。

「九三式探信儀」って言いますのは今風に言うと「アクティブ・ソナー」ですね。
ただ、このソナーには「ソナー・ドーム」の装備がなくて、送受波機も衝撃に弱いのが玉に瑕で。

敵潜水艦を見つけて、爆雷攻撃をやらかすぜ!ってときは、
「探信儀上ゲ!」
とかの命令が必ず出るんですね。
艦内に収容しないと爆発の衝撃で壊れちゃう、ってな代物でした。

93式探信儀

九三式探信儀大要図

 

それでも潜水艦を見つけられるってのは、大進歩なワケでして、特定修理ついでに「響」にも付けてやろうって事だったんですが、時期がムチャクチャ悪かった。

この年の10月11日には帝国海軍最後の大盛典となった
「紀元二千六百年特別観艦式」
が挙行されました。

帝国海軍連合艦隊の艦艇98隻が4列に居並び、その中を昭和大帝ご坐乗のお召し艦「比叡」がゆったりと進む。

指揮を執るは連合艦隊司令長官・山本五十六中将。

その上空には第一航空戦隊司令官・小沢治三郎少将隷下の航空機500機以上の大編隊…

海軍ファンならずともならずとも、一度は見たいじゃありませぬか、このお祭りは。

観艦式上空を飛ぶ九七式大艇の編隊

観艦式上空を飛ぶ九七式大艇の編隊

 

しかも参加する艦艇の乗員たちにとっては、一世一代の晴れ舞台。

ところが「響」ちゃんたら、探信儀付けるのに入渠中で、この大観艦式に参加できなかったんです。

天皇陛下に直接お目にかかる、たぶんもう一生巡ってこない大チャンスなのに。
お目にかかる、ってもお召し艦上から「閲兵」される陛下を、遠目に拝むだけなんですが…現代のような開かれた皇室じゃありませんから。

いや、儂は当時の皇室批判をしたいわけじゃないぞ。

特に昭和大帝におかせられましては、国民(臣民、言うた方が良いかな)に寄り添う姿勢は当時から顕著であらせられたからな。

いや、「響」乗員の無念の思いには、同情しても仕切れるモンじゃないですな。

コレが「響」のケチの付きはじめだったようです。そして、
「参加できなかった」
ってのまで、「響」の運命的なモノになってゆくのでありました。一生響いたんだな。

太平洋、北から南へ?

昭和16年も押し詰まってきたころ(12月11日)、「響」は僚艦「暁」(2隻で第6駆逐隊・第一小隊)とともに仏印(ベトナム)のカムラン湾に入港します。

大東亜戦争は航海中に始まっちゃってます。

響はカムラン湾近辺の哨戒を行いつつ、フィリピン攻略作戦のうちリンガエン湾への上陸などを支援。

本間雅晴

リンガエン湾上陸部隊は、本間雅晴将軍指揮でした。

 

その後バタビヤ沖海戦にも参加して、いったん本土に帰投して入渠整備。

昭和17年5月22日に徳山港を出港、大湊を経由して空母「龍驤」「隼鷹」の第四航空戦隊にくっついてキスカ島攻略へ。

ミッドウェイの陽動とされる「アリューシャン」作戦でしたが、敵もさるモノって申しますか?誘いに乗らず(つまり、アリューシャンはほったらかしで)攻略は順調に進んじゃいます。

ってことで、「響」は帝国海軍の初めての大失敗(ミッドウェイ)には「参加できません」でした。
もちろん「響」にとって悪いことではありませんけどね。

キスカ島は簡単に占領したんですが、その直後でありました。

6月12日、響は「暁」と一緒にキスカ島を哨戒中。
5機のB-24(PBYカタリナとの報告もあります)が飛来し、爆弾を投下。
そのうち1発が「響」の艦首右舷外板を貫通し、錨鎖庫で爆発。ほかに3発が至近弾。

この損傷で「響」は前部の主砲周辺まで浸水、3時間にわたる緊急修理で何とか浸水を食い止めます。

もう少し後だったり、南の方の激戦地だったりしたら、こんなにノンビリとは修理させて貰えませんから、「響」はココで終わってたんでしょうね。

しかーし、「響」でありますから、この程度では「危機脱出」とはいきません。

僚艦「暁」に後ろ向きに引っ張られて、修理のために大湊へ向かったのですが、損傷した艦首が波に叩かれて海中に垂れ下がってしまったのです。
これでは抵抗が大きくなってマトモには進めません。

1942.6月艦首損傷

昭和17年6月、「響」の艦首損傷

 

一旦停止して垂れ下がった部分をワイヤーで固縛する作業を行い、6月27日、ようやく大湊に帰投したのでした。

大湊で仮の艦首を取り付け、7月13日に横須賀に到着。
横須賀海軍工廠は連絡を受けて、「響」の新しい艦首を作って待ってたんですが、取り付け工事は意外に手間取ります。

特型駆逐艦は「戦時急造」なんか毛ほども考えてない、いわば「職人さん手作り」感が満載だからなぁ。
松型みたいに、どこで造ったか判らん構成部品を寄せ集めて「はい!完成」ってわけにはいかんわな。
儂は松型を馬鹿にしてるんと違うぞ。造り方を言うてるだけやから。

応急艦首

応急艦首
カッコ悪いが、仕方ねぇ

 

第六駆逐隊の僚艦は、8月28日付で南雲忠一中将指揮の第三艦隊(ミッドウェイで壊滅した第一航空艦隊に代わって編成された機動部隊)に配属替えとなります。

第六駆逐隊はガダルカナル島を巡る大激戦に奮闘することになるのですが、響は「長期修理中」のために、そこにも「参加できません」でした。

横須賀での「響」の修理は、断続的に昭和18年の1月22日まで続きます。
この間に艦橋の前に13ミリ連装機銃を装備するなど、武装も強化してるんですが、やはり長いですよね。

しっかり護衛

修理が完了し、訓練も重ねた「響」は昭和18年5月17日付で北方部隊に編入、電波探知機(逆探)や大発搭載装置を装備。

勢いに乗るアメリカ軍は、南の方ばかりじゃなく、北のアリューシャン方面でも反攻に出ます。

アリューシャンの情況は、アッツ島守備隊が玉砕し、よりアメリカ本土に近いキスカ島は孤立しています。

18年5月から、潜水艦による守備隊の撤収が試みられていましたが、損害も多く、狭い艦内には多くの兵隊さんを収容することは出来ません。

7月から、水上艦(つまり水雷戦隊)による脱出が試みられることになりました。

「響」は7月7日からの第一次撤退作戦に参加し、兵士収容部隊。

この救出作戦は、頼りの天候に恵まれず(霧が晴れちゃった)に中止となりました。
7月22日からの第2次作戦は奇跡的に成功、418名を収容して幌筵島に帰投。

スポンサーリンク

島風公試中

公試中の島風(二代目)

 

キスカ撤収作戦後の「響」は、8月9日から15日まで横須賀で魚雷発射管の改装を行い、九三式魚雷を搭載するようになっています。

その後は瀬戸内海で訓練となるのですが、その内海での魚雷発射訓練中でありました。
同じ訓練中の快速駆逐艦「島風」が発射した1本の訓練魚雷が「響」に命中。

もちろん訓練魚雷ですから爆発なんかしませんが、それでも舷側にでっかい穴が開いて、横須賀で修理(9月11日~16日)。
この期間を利用して、艦橋前の13ミリ連装機銃を25ミリに換装して防空力を強化。

修理後の「響」は水上機母艦「秋津洲」・特設潜水母艦「平安丸」(11,616トン)を護衛して上海に向かい、9月20日に上海を出撃して関東軍からの抽出部隊の護衛。

12月にはまた陸軍部隊の輸送。儂に言わせたら、「本来の海軍の仕事」をチャンとこなしておりますわな。

12月27日には空母「飛鷹」と「龍鳳」をトラックから呉まで護衛。(翌年1月2日着)

飛行艇母艦秋津洲昭和17年4月公試中

飛行艇母艦秋津洲
昭和17年4月公試中

 

昭和19(1944)年1月12日、「電」と「薄雲」といっしょに航空機輸送任務の空母「海鷹」を護衛してマニラへ(1月16日着)。
マニラのあと、シンガポール・パラオなどに寄港しつつトラック(2月11日)へ。13日にトラック出港、呉に帰投。

2月23日、空母「千代田」の輸送作戦の護衛(「雷」と特設運送船「国洋丸」同行)。
サイパン・グアム・パラオ・バリクパパンに寄港。

この航海中には、タウイタウイ近海でアメリカの潜水艦「ガンネル」に付け狙われたのですが、「電」とともにコレを翻弄して護衛の大任を果たしています。

この時期、まだボルネオ島のバリクパパンは大日本帝国の占領下にあり、本土で不足がちの石油も、ココなら入れ放題、満タン大歓迎。

余談じゃが、儂が若いころは日本もまだココまで豊かじゃなくて、儂自身も今よりももっと貧しくて、愛車のガソリン入れるのに「満タン」など言うたことが無かった(当時はセルフのスタンドもなかった)ぞ。

「響」も何度もバリクパパンで燃料満タンにして、パラオやミンダナオ島のダバオをうろちょろ(輸送船団の護衛がメイン)してたんですが、昭和19(1944)年4月10日には呉に帰ります。

帰着即日「響」は呉海軍工廠に入渠。4月30日まで修理と同時に2番砲塔を撤去して、代わりに25ミリ単装機銃2基を増備したりしてます。

僚艦がやられたことも

5月14日、修理と防空装備のなった「響」は「電」とともに、マニラからバリクパパンへ石油を積みに行く「建川丸」「あづさ丸」「日栄丸」のタンカー3隻を護衛中でした。

空母「千代田」

 

午前4時20分(「日栄丸」戦闘詳報による)。
セレベス海でアメリカの潜水艦「ボーンフィッシュ」がタンカーを狙って魚雷5本を発射。うち2本が「電」に命中してしまいます。

Wikiの記述だと
「これはタンカーを狙ったものが外れて偶然『電』に当たったものだった。」
ってんですが…。

通常、魚雷発射時には目標に合わせて深度を調定します。
駆逐艦とタンカーでは、水線下の船体の深さが大違いですから、ホンマにタンカーを狙ったんなら、魚雷は駆逐艦の艦底を通過しちゃってもおかしくない、と思うんです。

まあ、現実に魚雷2本は「電」を捉え、「電」は艦体がくの字に折れ曲がり、2分足らずで沈んでしまいました。

「響」は反撃しましたが、潜水艦を捕捉しきれずに取り逃がしてしまいます。
この時は「響」が生き残ったんでありますが…

「響」は9月5日、タマ25船団を護衛して高雄を出撃します。タマ25船団(高雄~マニラだからタマ)にはフィリピン防衛の増強のために、第八師団の兵員と装備・軍需品が満載されております。

6日未明、輸送船「永治丸」が機雷に触れ、船体が二つに折れ曲がり沈没。

「響」は沈没した「永治丸」に乗っていた兵士を救助しようと接近。
救助作業中の8時45分ごろ、「響」も触雷(魚雷説あり)。艦首部で爆発が起こり、一番砲塔すぐ後の左舷部が大破。

この爆発で「響」の艦首は前向けに垂れ下がってしまいました。

「響」触雷被害(昭和19年)

「響」触雷被害(昭和19年)

 

あれ?いつか見たような光景…

しかし今回は自力で航海することが出来ました。今回も後ろ向きでしたけどね。

出発点の高雄まで後進で引き返し、一番砲塔を撤去して応急修理。
修理は例によって時間がかかり、昭和19年10月20日からのレイテ沖海戦には「参加できません」でした。

9月28日には馬公まで移動し修理が続いたのですが、入渠中にも空襲を受けて対空戦闘を行っています。

11月に入ると、さらに基隆に移動。
基隆で待機中に艦内で赤痢患者が出てしまいます。
放っておけば、狭い艦内で赤痢が蔓延することは誰にでも予想できます。

しかし、大戦争中の駆逐艦の悲しさ。伝染病より任務が優先になってしまいます。

たまたま基隆には、損傷した特設運送船「護国丸」が居ました。

護国丸は「ヒ72船団(シンガポール発門司行き、護衛の駆逐艦含めてほぼ全滅)」に加わっていたのですが、爆撃を受けて速力が11ノットしか出なくなっていたのです。

「響」はこの「護国丸」を護衛して本土へ向かうことになりました。

11月7日、「響」は「護国丸」を守りつつ基隆を出港。しかし艦内では赤痢の蔓延は収まりません。

ついには護衛どころか、自身の航海にも人員が不足する事態が予想されました。やむなく「護国丸」と別れて「響」だけ先行、11月9日に佐世保に到着。

「見捨てられた」護国丸は11月10日の未明、古志岐島近海でアメリカ潜水艦「バーブ」に雷撃されて沈没してしまいました。

ガトー級潜水艦「バーブ」

ガトー級潜水艦「バーブ」

 

「響」の方はいったん呉に寄ったあとの11月16日、横須賀着。
すぐさま「検疫錨地」に隔離停泊処分。えっ、赤痢患者満載で呉に寄ったのか…

12月10日までの一ヶ月弱が艦内の消毒作業に費やされ、確認の検疫が終了した後にようやく修理。

折から主機損傷で横須賀にいた、同型艦「潮」の一番砲塔を移設することで「急速修理」をなし、1月20日に修理完了。

天一号作戦に参加…

修復の終わった「響」は1月25日付で第二艦隊・第二水雷戦隊の第七駆逐隊に編入されます。
2月18日から呉海軍工廠で整備と25ミリ単装機銃などの増備工事を行い、3月19日には「呉軍港空襲」を経験。

3月26日には「天一号作戦」の発動が決まり、整備途中の「響」も3月28日に呉を出て広島湾に移動。

つまり「響」は帝国海軍最後の「水上艦隊」の一員として、大戦艦大和とともに、敵に蹂躙されつつある沖縄を救いに行くのです。

仮想イラスト夕闇せまるガ島を砲撃する大和

仮想イラスト
夕闇せまるガ島を砲撃する大和

 

翌29日には、「戦艦大和」以下の参加艦と共に三田尻沖に移動します。
その途中の午前9時ごろであります。
周防灘の姫島灯台沖を通過中、響は後部檣楼の直下舷側が触雷してしまいます。

電探が故障し、電源供給が不能となり、速力も出なくなります。
機雷の爆発で「響」の艦全体が歪んでしまったのです。
特に酷かったのが燃料タンクの破損で、「響」は僚艦の「朝霜」に護衛されて呉に帰投することになりました。

駆逐艦「朝霜」は「響」の呉到着を見届けて護衛任務を完遂すると、4月7日に「大和」の水上特攻に同行。
「響」と「朝霜」が所属していた第二水雷戦隊は「初霜」「冬月」「涼月」「雪風」の各駆逐艦以外は壊滅してしまいました。

アメリカ軍の航空攻撃力が大戦艦「大和」に集中し、それでも「大和」が大日本帝国の造艦技術と水兵さんの練度を見せつけるかのように粘りに粘ったおかげで、4隻の駆逐艦が生き延びた、と言えそうな結果でありました。

坊ノ岬での矢矧、航行不能となり、駆逐艦磯風が近づく

軽巡「矢矧」航行不能となり、駆逐艦「磯風」が近づく

 

ついさっきまで「響」に付き添ってくれた「朝霜」は、不幸なことにアメリカ軍の攻撃前に機関の故障に見舞われて艦隊から落伍してしまいました。

速力が出なくなっても、沖縄を目指す「朝霜」を、アメリカ軍機が見逃す筈もなく、「第58任務部隊」の艦載機の攻撃を受けて沈没。
乗員は全員戦死の痛ましい結末となってしまいました。

「響」は触雷のために、この帝国海軍最後の艦隊行動にも「参加できません」でした。

昭和20年4月20日、ほぼ戦力としての存在感を喪失した「第二水雷戦隊」が解隊されます。
「響」は新しく編成された第一海上護衛艦隊の第一〇五戦隊に編入されました。

具体的にやってた事は、新潟港の岸壁に係留されての「防空砲台」。

8月15日の早朝にもアメリカ軍機と交戦し、近くの旅館に泊まっていた福井静夫大先生が「響」の機銃音で目覚めた話は有名です。

こうして「参加できない」駆逐艦・響の大東亜戦争は終わったのでありました。

帝国の敗戦後は武装解除されて、復員輸送に14回も従事しています。

コチラはなんの問題もなく、日本国民を本土へ連れ帰ってくれたのですが、武装解除されちゃった「響」が満足していたのかどうか?

復員輸送艦の仕事が一段落すると、「響」はソ連に「賠償艦」として取られちゃいます。
満洲の人々は、ソ連兵にひどい目にあったりシベリアに違法抑留されたり…ロクなことはないんですが、軍艦は別。

イギリスに賠償艦として取られると、すぐさまスクラップとして売られちゃうのですが、ソ連だと、ちゃんと軍艦として使ってくれたんです(そういえば「幸運の雪風」も台湾へ行ったおかげで、長生きしましたね)。

丹陽雪風を視察する蒋介石

丹陽(雪風)を視察する蒋介石

 

ソ連は「響」に「ヴェールヌイ」という名前を付けてくれました。ロシア語の形容詞で「真実の」とか「信頼できる」という意味の言葉だそうです。

うん、大損害でも沈まないから「信頼できる」なんだな(笑)

この艦名は数年で変更になったようですが、「30-bis(スコーリ)型駆逐艦」の一隻に受け継がれたそうです。

役目を終えた「響」改め「ヴェールヌイ」は標的艦として雷撃処分されました。

残酷なようですが、戦闘艦艇の最後としては「立派」であると言えましょう。

因みに、キスカの災難のあとに「響」の駆逐艦長になったのは「あの」工藤俊作中佐ね。

また、現海軍(海上自衛隊と仮称中)にも「ひびき」って艦があって、実はすごく重要なフネだったりするけど、また別の記事にいたします。

スポンサーリンク

-帝國海軍, 駆逐艦激闘譜