新司偵

武装司偵の苦闘

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大日本帝国陸軍はアメリカ軍が「超空の要塞」こと「B-29」を開発中であるとの情報を得て、「B-29」を迎え撃つべき防空戦闘機がまだない事に大きな焦燥を感じていました。

新司偵の高高度性能が

昭和18(1943)年8月、陸軍は対策委員会を設置してB29への対応策を検討させました。
そしてようやく昭和19(1944)年5月、立川陸軍航空工廠に対して一〇〇式司偵(新司偵)3型(キ46-III)を、20ミリ機関砲2門を搭載する高高度防空戦闘機に改修・試作するように指示が出されたのです。
本格的な日本本土空襲の開始に僅か一ヶ月だけ先立つ指示でした。

B29

B29

 

この頃のB29の出撃基地は支那大陸奥地の成都で、行動半径の関係もあって北九州が辛うじて爆撃目標になる程度だったのですが。
しかし同時期(昭和19年6月19~20日)に行われたマリアナ沖海戦で海軍は惨敗。絶対国防圏の一角が失われ、サイパン島を基地にしたB29の来襲が確実になってきたのです。

陸軍航空工廠は「新司偵」の改装を急ぎ、既存の偵察部隊の中に次々と「高戦隊(高高度戦闘機部隊)」が併設されて行きました。

これはその内の独立飛行第十六中隊高戦隊(後に独立飛行第八十二中隊になります)の奮闘のお話。この独立飛行中隊が武装司偵隊で最多の戦果を上げた部隊だと思われます。

百式司令部偵察機

百式司令部偵察機3型

 

独立飛行第十六中隊は防空戦闘機隊である「飛行第十三戦隊」所属の偵察隊で、来襲してくる敵を発見する任務に従事していました。「独立」後は近畿・中部の防空を担当する中部軍の指揮下に入り陸軍大正飛行場をベースに偵察を担当。
その部隊に「武装司偵」の配備が始まったのは昭和19(1944)年10月末で、翌11月には正式に防空戦闘機隊が発足。第十六中隊内では武装司偵とは呼ばずに「高戦」と呼んでいたそうです。高戦は「高々度戦闘機」の略でしょうねぇ。

よく、大日本帝国は情報を軽視した、と言われます。これは私に言わせればインフォメーションの収集とインテリジェンスの生産をゴッチャにしています。
大日本帝国はインフォメーション(ナマ情報)の収集はそこそこにやってはいるんです。そのインフォメーションの集積からインテリジェンス(分析情報)の生産をする段階でおかしなことになって行きます。

この場合だと、アメリカが超のつく重爆撃機「B29」を開発している事は把握できていましたし、試験飛行(1942年9月)から数か月で大まかな性能を察知しています。
ただ、ここから本土がどれほどの被害を被るか?どのような防空手段が必要となるか?までは分析しきれずにいたのです。
と言いますか、性能を知っていればどんな結果が待っているかは、それほどアタマを使わずに判る事ですが、それが上層部にまでちゃんと伝達されて、恐怖を共有するには至らなかったって事ですね。

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ですから、防空体制はなかなか本腰を入れて整えることは出来ず、高高度戦闘機の開発も遅々として進まなかったのです。

高々度を飛ぶことが出来る新司偵(百式司偵)は、高々度戦闘機が開発・配備されるまでのツナギとして「防空戦闘機」へ改造されることになったのです。しかし、新司偵はあくまでも偵察機として誕生した機体であり、パイロットもあくまでも「偵察屋」でありました。

「独立飛行第十六中隊」は偵察部隊ですから、戦闘機パイロットとしての訓練を受けた者は一人もいませんでした。
偵察機のパイロットは、敵機と遭遇したら逃げるのが「任務」です。いや、できるだけ敵機と出くわさないように飛ぶことこそ彼らの本分です。
無線の感度も大したことは無く、データリンクどころか写真の電送も出来ない時代ですから、情報を持ち帰ってこその偵察なのです。

そこで戦闘機部隊から教官を招いて戦技教育を受けることになりました。

百式司令部偵察機

新司偵

 

空中戦は避けてきましたので、中隊にはベテラン搭乗員がたくさん生き残っていました。このあたり、水偵乗りを「彗星」に搭乗させて活躍した芙蓉部隊と似ています。
戦闘機動については、ベテランたちはすぐに理解したのですが、新司偵の機体の方がついていけないことが「発見」されてしまいます。新司偵の機体は戦闘機のムチャクチャな急機動が出来るほど頑丈には出来ていなかったのです。特に主翼は細長く華奢で、戦闘機部隊の教官たちを閉口させたようです。

第十六中隊は本来偵察隊ですから、毎日哨戒飛行にも飛ばなければなりません。次第に自隊だけで「高戦」の分のパイロットまで出せなくなってきました。
そこで他隊の戦闘機や軽爆出身のパイロットも集め、専門の「高戦隊」を作ることになるのは自然の流れだったでしょう。この時点で、生粋の司偵乗り出身者は最後の中隊長になる成田冨三中尉ら少数派になってしまったようです。

結局、マトモに戦闘機動の出来ない武装司偵は「一撃離脱」方式で戦うより他なし、と決まります。一撃離脱の訓練がすすめられ、「武装司偵」も16機が配備されて、B29との戦いを迎えることになるのでありました。

初陣

独立飛行第十六中隊の高戦隊(武装司偵隊)が超空の要塞「B29」と初めて交戦したのは、昭和19(1944)年12月13日でありました。

この日、八丈島の電波警戒機が北上する敵の大部隊を探知。即座に関東から九州にかけての陸軍防空戦闘機隊に警戒態勢が敷かれました。

長大な航続距離(6600キロメートル/爆弾7.2トン時)を誇るB29ですから、どこを狙っているか想定が難しいのです。これはただでさえ貧弱な迎撃戦力を有効に使えないことを意味しています。

B29富士山

富士山上空のB29

ともあれ、この警戒態勢を受けて第十六中隊の偵察隊の「新司偵3型」が索敵を開始。続いて成田中尉らの「高戦隊(武装司偵隊)」が高度1万メートル目指して上昇を開始したのです。

先に離陸した二式複戦「屠龍」や三式戦「飛燕」は8000メートル附近から上昇できずに四苦八苦。それを尻目に高々度飛行能力の高い武装司偵は40分ほどで高度1万メートルに到達。
独立飛行第十六中隊高戦隊は空中待機して情報を待っていました。

紀伊半島西部を哨戒していた新司偵3型が、伊勢湾を北上するB29の大編隊を発見して報告、遅まきながら爆撃目標が名古屋の三菱の航空機工場群であろうと推察されることになりました。エンジンも機体も、三菱の主力工場です。

B29と屠龍

B29と2式複戦「屠龍」

この情報を受けて独立飛行第十六中隊高戦隊は急行し、名古屋市上空で爆撃中の「B29」の大群を発見してただちに襲撃にかかったのであります。

練り上げた筈の「一撃離脱」で襲い掛かった「高戦隊」でしたが、奮戦はしたものの、「B29」の圧倒的な性能を見せけられることになってしまいました。
強力な防御砲火と重装甲に阻まれ、撃墜出来た「B29」は1機だけだったのです。しかも、その撃墜は被弾した中村少尉の「高戦(=武装司偵)」が、B29に体当たりした結果(中村少尉は戦死、後部座席偵察員の若林兵長は機外に投げ出されてパラシュート降下)。

五日後の12月18日もB29は名古屋を襲いました。迎撃した高戦隊は鈴木少尉・中村曹長のペアと古後准尉・関川伍長のペアの2機を失ってしまいます。どちらの機も戦闘中に被弾、B29に体当たりしたモノです。
22日にも名古屋空襲。この時は高橋軍曹(同乗者ナシ)がやはり体当たりで散華されています。

独飛第十六中隊の高戦隊は初陣からたった3回の出撃で機材の1/4を失い、6名の搭乗員を失う痛手を被ってしまったのであります。

戦術を変えないと

独飛第十六中隊は大いに悩むことになります。
B29は重武装で、13門に及ぶ機関砲(20ミリ×1+12.7ミリ12門)を搭載していました。十六中隊の高戦隊は、この防御砲火にマトモに突っ込む攻撃方法を取っていたのです。

高戦隊の攻撃方法は戦闘機のセオリーどおりでした。ベテランの戦闘機乗りから手ほどき受けてますから、当たり前なんですけど。
つまり、敵機の後上方か後下方から追尾して攻撃を仕掛けていたのです(一撃離脱なら後上方からに決まってるじゃん、というご意見はごもっとも)。

戦闘機同士の戦いなら後を取ったら勝ち(だからドッグファイトですよね)ですし、凡百の爆撃機なら後方からの攻撃で落とすことが出来たでしょう。
しかしB29には後にも上にも下方にも射撃可能な旋回機銃がありました。その死角の無いB29がお互いをカバーすべくフォーメーションを組んだ大編隊。

高戦隊はそこになんの工夫もなく突っ込んでいたのです。成田中尉の言葉をお借りすれば、「敵曳光弾の輝きで、風防ガラスが赤く染まり、前が見えないほどだった」ほどの防御火網に自分から突っ込んではたまったモノではありません。

しかも新司偵は防弾装備がありません。わずかな被弾でも致命傷を負ってしまうことが多いのです。そのために被弾すれば本土上空であるにも関わらず、体当たり攻撃を選択する搭乗員が多くなったと思われます。

被弾して傷ついた(おそらくコントロールも難しくなった)愛機を、それも1万メートルの高空でほぼ同速のB29に体当たりさせる技量は、流石偵察機乗りですね。しかし。

武装司偵はB29と同じ土俵には上がったことは上がったんですが、押し相撲も四つ相撲も全く相手にして貰えませんでした。しかし、大日本帝国の空はしばらくは「高戦隊」が守らなければなりません。

独飛第十六中隊だけでなく陸軍航空すべてを挙げて、「高戦」の戦闘法が研究されました。

糞アイデアを出す奴は何処にでも

頼みの武装司偵が苦戦する事態に、航空本部側が慌ててアイデアを出してきました。

武装司偵の37ミリ上向き砲装備タイプ

武装司偵の37ミリ上向き砲装備タイプ

 

操縦席と偵察員席の真ん中に、仰角70度の高角度で上向き37ミリ機関砲を付けようと言うのです。
37ミリ砲は強力ですから、当たったらB29と言えども一発で粉々です。上向き砲なら下から狙い撃ちできますから、高度1万メートルまで登らずに済んじゃうぜ、という目論見だったのでありますが。

偉い人たちのアイデアは下々のそれとは違って、糞みたいなモノでもすぐに実行に移されます。しかし、この「上向き砲」は残念ながら、というか当然というか完全なる企画倒れに終わりました。

本来の偵察専門型に比べて20ミリ機関砲を2門付け、銃弾も積んでますから、武装司偵はタダでさえ重くなっています。
実は1万メートルまで上がるのにけっこう苦労してたんです。ベテラン搭乗員たちなんで何とかこなしていたのですが、そこにさらに重量の嵩む37ミリ機関砲を付けた日にゃあ、貴方!
生き残り司偵乗り達をもってしても、7500~8000メートルぐらいまでしか上がれませんでした。

その上、銃身が空気抵抗を生んでしまって速度が出ません。機体も不安定になって、空中姿勢が安定しませんからせっかくの大口径砲も狙いが定まりません。
真っすぐ前を狙ってもコチラが機動してるから、なかなか当たらないのが空中戦。それを貴方、ナナメ上を狙えなんて!当たるワケない、というのが普通の考え方でしょう。まさにナナメ上の発想なんですよ。

その上、機体上部に重量物がありますから、着陸時にひっくり返りそうになるなどもう散々。独飛第十六中隊高戦隊だけではなく、他の武装司偵隊も合わせて、一度もB29に向かって発射しないうちに「上向き37ミリ砲」は全部撤去されてしまったのでありました。

武装司偵VS超空の要塞

実際にあったらなあ。ちょっと37ミリ砲の砲身が長すぎかも(笑)

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「タ弾」も武装司偵に装備されました。タ(漢字じゃなくて片仮名のタ)弾と言うのは一言で言えば「空対空クラスター爆弾」です。
波板製の6角柱のコンテナの中に弾頭径40粍・全長26糎・重量310瓦・炸薬110瓦の成形炸薬弾が子弾として詰められています。「二式四十粍撒布弾」だと76発、「三式四十粍撒布弾」なら30発もの子弾が詰められていました。
なお、粍=ミリメートル・糎=センチメートル・瓦=グラムです。

この「6角柱コンテナ」はワイヤーで固縛されています。これを投下すると、母機に取り付けたワイヤーにひっぱられてコンテナがばらけて子弾が空中に散布されるワケです。

子弾は成形炸薬弾ですから、B29の装甲なんぞは簡単に焼き切ってしまいます。戦車の重装甲をぶち破るための物なんですからね。

ただ問題は照準で、搭乗員が目視で爆弾を落とすのですから、命中率は非常に悪いものでした。これこそ近接信管があったらなあ、と言いたいところですが、それ以上の問題がありました。

震電とB29

震電とB29

 

タ弾で一番問題だったのはやっぱり「B29」より高く飛ばなければならないと言うことでした。
武装司偵は重くなっていましたから、武装のない百式司偵3型より高いところ登るのは前述のように大変なのです。
「B29」より上、それも数百メートル上は難しい話です。仕方ないので非武装の(高戦隊じゃない)新司偵がタ弾を装備して急襲を掛けることになってしまいました。

もう、こうなると「武装司偵」の新戦法じゃないじゃん。

効果的な方法は現場から

第十六中隊の高戦隊はもっともっと真面目に考えていました。迎撃の効果が上がらず、損害が多いのは後方からの攻撃に固執していたため。
そこで前上方・下方からの攻撃に改め、先頭の編隊長機はあえて狙わずに大編隊の端から仕留めていく方法に切り替えたのです。

言葉で表現するのは簡単ですが、前方からの攻撃も容易ではありません。ヘタするとB29と空中衝突してしまうでしょう。
後ろから追いかけるなら速度差は大してありませんから、衝突しないように操縦できます。ところがお互いに全速力で突っ込む前方攻撃だと、時速1千キロメートル以上でお互いに接近する事になります。
回避出来ずに衝突する可能性は大変高かったのです。

またすれ違った後に来る猛烈な集中砲火を受けながら離脱するのは大変な恐怖があったようです。

昇進していた成田冨三大尉も熾烈な砲火に急降下の動きを取った事があったといいます。その時は後席から慌てた声で
「大尉殿、速度が出過ぎです。翼が折れます!」
その声で冷静さが戻り、出力を下げて事なきを得たそうです。

駐機中の新司偵

駐機中の新司偵

 

重量と上昇限度のお話だと、時とともに後部座席の偵察員を搭乗させないで飛ぶ機が増えて行きました。

高々度飛行が出来る新司偵の武装型ではありましたが、重量が増加した「武装司偵」は高度1万メートルは楽ではありませんでした。まして、その高度で戦闘機動しなければなりませんから、偵察員の重量だって削ぎ落としたいワケです。
しかし「B29」は夜間も爆撃にやってきます。夜間の邀撃だと偵察員が乗っている方がパイロットは楽ですし、偵察員は通信手兼任ですから敵情報を把握して分析する余裕も出来るってモノであります。

そこで隊長機と経験の浅いパイロットは2人乗り、経験を積んだ搭乗員は1人で戦闘することになったそうです(実際には臨機応変にペア組むこともあったようです)。

こうして戦法を練り上げた「高戦隊」は昭和20年を迎えます。

新戦法、効果を上げる

苦戦が続いても、平和な時と同じように新年はやってきます。昭和20年がやってきましたが「高戦隊」に正月休みはありませんでした。戦闘は早くも1月3日から始まっています。

1月14日の戦闘で日本の防空戦闘機隊は、判断ミスから苦戦を強いられることになりました。

この日「B29」の大編隊は紀伊半島を北上していました。陸軍防空司令部はこれを阪神地区を目標にしていると判定し、防空隊を大阪・神戸上空に集中させました。ところが「B29」どもは大阪の手前で突如変針します。またもや名古屋の三菱重工飛行機工場を狙ったのです。

百式司令部偵察機

百式司令部偵察機

 

この突然の変針に対応したのは、速度がB29を上回る武装司偵だけでありました。それでも爆撃開始には間に合わず。

爆弾を投下して高速で逃げる「B29」を捕捉したのは独立飛行第十六中隊「高戦隊」の後藤信好曹長でした。曹長の敗戦までのスコアは撃墜3機・撃破2機、すべて「B29」です。
この時、後藤曹長は新しい戦法を忠実に実行。すなわちB29を後から追いかけるの愚を避けました。いったん降下して勢いを付けておいて前に回り込み、前下方から急上昇して一撃を加えて1機を撃墜したのです。

戦訓を正しく評価して前方からの攻撃に変更したのは正解でした。この日から「高戦隊」の戦果が上がるようになっていきます。もちろん高々度での戦闘に搭乗員たちが慣れた事もあるでしょうけれど。

しかし戦果があがっても犠牲の方も上がり続けました。1月3日の戦闘で小坂三男中尉機、1月23日の戦闘では川崎武敏軍曹・竹井逸雄少尉のペアが未帰還となってしまいました。

2月末までに第十六中隊「高戦隊」のスコアは「B29」撃墜14機・撃破も14機。急造防空戦闘機の残した結果とすれば大戦果といえるでしょう。
そのためか第十五方面軍司令官の河辺正三中将から感状が授与されています。
その上「高戦隊」は独立飛行第十六中隊からさらに「独立」して「独立飛行第八十二中隊」として改編されたのでありました。
新中隊長として南登志雄大尉が飛行二百四十六中隊から転属してきています。

標的は民間人

3月以降は「独飛八十二中隊」として「B29」迎撃の先鋒となった「高戦隊」でしたが、アメリカ軍も戦術を大きく変えてきました。

B29じゃないぞ(笑)
ソ連も丸パクリの超絶優秀機。

 

これまで「B29]の性能を活かして、高々度から工業地帯を狙って爆撃してきやがったのですが、「高戦隊」の活躍もあって芳しい戦果がありませんでした。

このため、新たに戦略爆撃の指揮を執ることになったカーチス・ルメイ准将が強く主張している「中・低高度からの焼夷弾による都市への無差別爆撃」が採用されたのです。
これ以降、民間人の住む都市が爆撃対象となり、東京大空襲などの惨劇が繰り返されるのであります。(リンク先は貴重な記録写真ですが、日本人として見るに堪えぬ残虐な場面もあります。ご承知の上でクリックお願いいたします)

「B29」が襲ってくる高度が下がったのは高々度性能が劣悪な大日本帝国の戦闘機には幸いか、と思われたのですが。アメリカ軍は栗林兵団の壮烈な抵抗を力づくで排除し、硫黄島を占領。
ココの飛行場を「P51・マスタング」戦闘機用に整備して「B29」護衛に随伴させるようになります。日本側の迎撃は犠牲が多くなってしまいました。

カーチス・ルメイ

カーチス・ルメイ

新中隊長の南大尉は6月1日の戦闘で戦死し、生え抜きの成田大尉がついに新中隊長に就任。
「B29」撃墜3機・撃破6機のスコアを持っていた鵜飼義明中尉も6月7日の戦闘中に淡路島上空でB29へ体当たりして散華。

7月になるとアメリカ戦闘機の跳梁は本土全域に及びます。本職の戦闘機とは戦う術を持たない「武装司偵」の悲しさ、出撃機会は激減してしまいました。さらに一連の戦闘での損害は機材と人員ともに補充を上回り続けていました。中隊の稼働機は激減の一途を辿ります。

B29とP51

B29とP51

独飛八十二中隊は8月10日付で第二十八独立飛行隊に編入される事になりました。この部隊は千葉県東金に司令部があります。
来るべきアメリカ軍の日本上陸作戦は南九州と関東に想定されていました。このため、中部・関西の防衛部隊も根こそぎ関東に集中してしまおうと言うのでありました。

独飛八十二中隊の稼働機はわずか2機にまで減少していました。実質的に「戦力喪失」なのですが、大日本帝国はこのような消耗しきった航空隊をかき集める以外、戦力増強策が無くなっていたのです。

もっとも、アメリカ軍機の跳梁する空に、独飛八十二中隊が移動する隙はありません。「高戦隊」は慣れ親しんだ大正飛行場で敗戦の日を迎えたのでありました。

最後の隊長

「高戦隊」にとっての戦争は8月15日では終わりませんでした。と言っても、勝ち目の無い継戦を主張した、って訳では決してありません。
史上初めて「玉音」がラジオから流れたその翌日、昭和20年8月16日の朝。
「高戦隊」に出撃が命じられたのです。アメリカ機動部隊の接近が偵知され、ポツダム宣言を受諾したとは言っても攻撃されるかも?と懸念が出ていたのです。独飛八十二中隊には偵察と哨戒が命じられました。

キ-83

キ-83
これが出来てたらねぇ

独飛八十二中隊に残されていた2機の「武装司偵」のうち一機は燃料補給中の事故で喪失してしまいます。電力不足で、蝋燭の明りを頼りに給油していた時に引火してしまったのです。

8月16日の「武装司偵」最後の出撃は、最後の中隊長・成田大尉だけの単機出撃となったのであります。

成田大尉機は途中で「B29」と遭遇したのですが、「B29」は全速で逃げてしまいました。
敗戦の迫るなかで、本来の任務からはかけ離れた「超空の要塞」を迎え撃った武装司偵隊。

最後の隊長である成田冨三大尉自身が最後の出撃者となったのは、偶然ではありません。

成田大尉は大日本帝国軍人の見本のような「率先垂範」の指揮官でした。特に中隊長になってからは、成田大尉が凄いのです。
中隊の稼働機が1機しかない時は必ず自分が出撃するという姿勢を貫き通しました。
これは一人成田大尉だけでなく、「加藤隼戦闘隊」の加藤健夫少将や第244戦隊の小林照彦少佐(B29迎撃に活躍)など、陸軍にはけっこうおられます。
最後の飛行の時、燃えたのは成田大尉が乗る筈の武装司偵でした。独飛八十二中隊に残った最後の「武装司偵」は後藤信好准尉機だったのです。
黙って愛機に乗り込もうとする後藤准尉の肩を掴むと成田大尉は言います。

「お前は残れ、俺が行く」

昨日、天皇陛下の有り難き玉音を聴いた戦士が、これを平然と言うことがいかに大変か?想像して頂けるでしょうか。
小部隊の指揮官はこうでなくてはいけません。

成田大尉のスコアは「B29」撃墜7機・撃破8機、「武装司偵」乗りでは最多の戦果であります(たぶん)。

墜とすばかりだけでなく、墜とされることもしばしば。被弾して不時着した回数がハッキリしませんが(複数回は確実)、大尉が搭乗していて使用不能になった(要は大尉が壊したって事ですけどねw)武装司偵は4機と判明しています。

武装司偵のエース、成田冨三。皆様のご記憶の片隅にとどめて頂けるでしょうか。

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