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後醍醐天皇と戦争の勝ち方

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敗戦の日だというのに、トンでもなく古い話です。
それもあんまり人気のない南北朝時代ですが、「戦争の止め時」を考えたいと存じますので、ご辛抱ください。

捲土重来

1336年5月25日、九州より湊川(現・神戸市)沖に現れた足利尊氏の大軍。
対して後醍醐天皇方は大楠公・楠正成が孤軍奮闘しますが、刀折れ矢尽き、ついに自刃。
いったん戦場を捨てた新田義貞も、軍を返して尊氏に迫りましたが衆寡敵せず、京に逃げ帰ることとなりました。

後醍醐天皇は半年前には楠正成の進言で効果を上げた作戦、「比叡山へ退避」を発動します。
しかし、今回はすでに後醍醐方を支え続けた名将を失っておりましたので、山上で追い詰められるばかりでした。

楠正成 

楠正成

 

和睦

余裕を見せる尊氏は、8月に入ると比叡山に使者を送って和睦を持ちかけます。
京では「北朝」の光厳上皇の院政(光明天皇は上皇の弟)も始まり、後醍醐天皇は降伏を決意しましたが、困ったのは新田義貞の処遇です。

義貞は徹底抗戦を主張して譲りません。
やむなく、後醍醐天皇は「皇太子」の恒良親王に譲位し、三種の神器を持たせて新田義貞と再起を図らせることとしたのです。

新田義貞・稲村ケ崎

稲村ケ崎で進撃路が開くことを祈る新田義貞

恒良「天皇」は新田義貞に守られて北陸へと下向されました。

降伏と譲位

徹底抗戦派をなんとか追い払った後醍醐天皇は京都へと還御になり、今度は北朝の光明天皇にまたも譲位されます。
このときも三種の神器をお譲りになっています。

そして、ここからがひとつのポイントです。
光明天皇の皇太子には後醍醐「上皇」(実権はありません)の皇子である成良親王が立てられました

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これはもともとの両統迭立の約束に基づくもので、成良親王は数多い後醍醐の皇子のなかでも親足利派だったからです。
(この辺の経緯は話し出すと長くなってしまいますので、またの機会に)

そもそもの出発点

足利尊氏はこの時点で前代の鎌倉幕府と同様に、皇位の両統迭立(対立する二つの皇統、持明院統と大覚寺統が交互に帝位につく)を保障したわけです。

鎌倉末、後醍醐天皇は大覚寺統のなかでも、皇位につける可能性は高くはありませんでした。
いろいろな事情が重なって皇位につかれた訳ですが、それでもご自分の直接の子孫が皇位につく可能性は殆どなかったのです。

これをなんとか、ご自分の血統で皇位を独占できぬか?というのが「倒幕」の出発点でした。

大東亜戦争の出発点

時代がとんで電脳大本営の主テーマ、大東亜戦争です。

大東亜戦争の出発点をグッと絞って見ますと、「自存自衛に足る石油の確保」に行き着きます。

どうも米英に、あるいはソ連に踊らされて彼らの都合の良い「日本参戦」へと導かれてしまった、というのが真相のようではあります。

でも、当時の政府、そして先帝陛下は主体的に判断なされて開戦を決意された筈です。

戦争目的は?

戦争はその目的を達成したほうが勝ちです。
戦闘による被害の多寡は、後々影響が出るかも知れませんが、戦争の勝ち負けに直接は関係ありません。

後醍醐天皇の場合、いったんは全国制覇をなしとげたものの、政権樹立直後から不安定そのもの。
その後いろいろな戦闘を経て、ついにおん自ら敵方に譲位する屈辱まで味わうこととなってしまいました。

しかし、尊氏による成良親王の立太子で、後醍醐天皇の子孫は1/2の確率で皇位につけるようになったのです。

これは後醍醐天皇にとって、『勝利』ではなかったんでしょうか?
出発点からすれば、全く零の可能性が50%になったら、それは十分な勝利だと思うのですが。

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さらに、この時代は現在のように天皇陛下が終身その地位にあらせられるワケでは無いですから、後醍醐天皇が「治天の君」として院政を敷くチャンスも大いにあったのです。

成良親王の立太子は従来、殆ど大きく取り上げる歴史論は無かったように思いますが、私は重要なポイントだと考えています。

大東亜戦争の目的達成点

大東亜戦争の緒戦はわが国の圧倒的有利(個々の戦闘を詳しく見ると、そうでもないんですが)で展開していきます。

「石油確保」の観点から見れば、蘭印作戦が成功し、とりわけパレンバン油田地帯をほぼ無傷で占領して戦争目標完遂、では無かったんでしょうか?
パレンバン油田の年間産出量は大日本帝国の年間需要を上回っていたのですから。

米国主力艦隊を叩いたり、フィリピンを占領したりは石油輸送路確保のための支作戦と位置づけるべきなんじゃないでしょうか?

戦争はコチラの都合だけで始められても、止めるのは双方の同意が無ければ出来ません。

挺進部隊の降下

油田無傷占領の立役者、
挺進部隊の降下

ただ、パレンバン占領の時点なら、英は本国近くの戦闘に集中したかったんですし、米は「対独参戦」と言う第一目標は達成済み(ヒトラーが周囲の反対を押し切って対米宣戦布告)です。

大日本帝国が和平を持ちかけていれば、少なくとも交渉の席に着いた可能性は高かったと思われます。

南北朝へ

1336年12月、後醍醐天皇は突如京都を出奔、大和の国は吉野にそのお姿を現し
「光明天皇に渡した三種の神器は偽器であり、朕の保持するものこそ真の三種の神器である」
として、ここに南朝が誕生、日の本にお二人の天皇陛下が君臨する事となり60年に及ぶ内戦の幕が上がりました。

「あれ?北陸の恒良親王は」と思った貴方、鋭い!
これもあんまり歴史本には出てきませんが、一時期は北陸・京都・吉野の三朝が同時存在していましたよ。

恒良親王はご自分の存在を大きくアピールされることも無く、やがて篭城していた越前金ヶ崎城が落城して捕らえられ、京都へ送られて毒殺されてしまったようです。

ともあれ、この後醍醐天皇の行動によって和睦の条件はご破算になり、成良親王も皇太子の地位を棒に振ることになりました。

勝てるときに勝っておく

大日本帝国にとって、石油の確保は存亡の分かれ目だったのですが、あまりに難なくパレンバンを占領できたことが、指導者の眼を曇らせたんでしょうか?

北畠顕家

南朝を支えた北畠顕家

この時点で「和平」などだれも言い出さず、次の戦略目標もはっきりしないまま、戦争を続けてしまったのは皆さん良くご存知のとおりであります。

南朝の勢力も小さく、まともに抗戦できたのは当初数年間だけで、あとは北朝方、室町幕府内の内輪もめに乗じて単発の小反撃をするだけでした。

勝ち方を研究してから

電脳大本営では、よく
「万一負けたときの負け方も考えておくべき」
と申し上げております。

一方で、「どこまでやったら勝ちか」という小さな目標も立てておかねばなりません。

パレンバンを占領・確保したら、いったん矛を収めるべきであったように、来るべき日支戦争で「どこまで叩いたら勝ちか」を明確にしておかねばなりません。

目標を達成したら、どのように戦争を止めるのかも研究しないといけない事も、言うまでもありませんね。

わが国には安保関連法案で、お花畑の眠たい屁理屈に付き合っている暇など無いのですが。

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