スナイパー

忘れられた勇者

スポンサーリンク

わたしたち日本人は太古からこの列島に暮らしてきました。その間、勇敢なご先祖のおかげで、ごく一部の地域・時期を除いて他の民族に支配された経験はありません。逆に他民族を差別支配した経験も持っていません。

狙撃手

さて、この記事では電脳大本営が「史上最高の狙撃手」と考えるフランシス “ペギー”・ペガァマガボゥ(Francis "Peggy" Pegahmagabow)を紹介したいと思っています。

そのために、まず「狙撃手」の考え方から。一般的に狙撃手という職種はミリタリー・スナイパーとポリス・スナイパーに大別することが出来るとされています。
その区別は読んで字のごとしで、私たちが国内で目にすることが出来る(めったにありませんが)のはポリス・スナイパーだけですね。この記事ではしかし、ポリス・スナイパーは全く扱うつもりはありません。

ポリス・スナイパー

ポリス・スナイパー
本文では扱わないんで、画像だけでもね。

 

また、狙撃手はその存在の性格から公表されない部分が多いモノですが、私はそのような「裏情報」に接する機会も伝手もありませんから、「僕ちゃんだけが知ってるんだよ!」なんて情報はありません。どなたでもアクセスできる「元ネタ」を私なりの歴史観から再構成したものに過ぎない事を、前もってお断りしておきます。

歴史上有名な狙撃手として、電脳大本営はまず「杉谷 善住坊(すぎたに ぜんじゅぼう)」を思い浮かべてしまいます。生年はハッキリしませんが安土桃山時代の人物で、天正元(1573)年に刑死したとされています。
1570年の朝倉攻めで敗走した織田信長が、京都から岐阜へ帰ろうと「千草越え(近江から鈴鹿山脈を越えて桑名へ:米原附近は浅井氏に抑えられて通過不能)をしているところを、距離20メートルほどで狙撃して失敗。

善住坊隠れ岩

善住坊隠れ岩
此処で狙撃チャンスを待ったそうな。

 

逃亡したものの探し出されて「鋸挽き」で殺された、という人物です。信長を狙った理由は、近江国の南半分の旧領主六角氏からの依頼、信長へ個人的な恨みがあった、鉄砲の名人としての腕試し、などと言われます。

私は「杉谷」が甲賀の小領主の一家(つまり甲賀忍者の棟梁家の一つ)であることに少し引っかかりますが、「善住坊」が天台系の僧兵を想起させる名乗りであることから、比叡山が送り込んだ暗殺者であろうと思います。
「宗教戦争」の戦士ですから、ミリタリー・スナイパーで間違いありません。

もう一つ、皆さん良くご存じのスナイパー(たち)を挙げると、関ヶ原の合戦の「島津の退き口」でしょう。

スポンサーリンク

島津の退き口

前進突破で撤退する島津軍

 

「薩摩の捨てがまり」とも呼ばれるこの戦法は、本隊の後退を援護するために、狙撃手を路上に座禅姿勢で点々と配置して敵の指揮官(先頭でやってくる)を狙うモノ。何も上体をおっ立てている必要はないと思うんですけど。

撤退援護の狙撃は一般的に行われていて、第二次大戦のフランス(連合軍上陸後の)でもドイツ軍狙撃兵が結構やってますね。
その結果、「狙撃なんて卑怯じゃん」とか思われて狙撃兵が降伏後に報復をうける、なんて話がFBの戦争グループでも出てました。

フランス戦線では、ドイツ側狙撃兵は弾が無くなるまで狙撃して降伏する、って言う「ズル」をしましたから、これは「アリ」(法的には駄目でもね)なのかも知れません。連合軍の進撃を遅らせる効果もそれなりにあった証拠とも言えるでしょう。

ドイツ狙撃兵

ドイツ狙撃兵
1944西部戦線

ちょっと違う

「杉谷 善住坊」は(たぶん)宗教のため、「薩摩の捨てがまり」は同輩と主君の撤退のため。フランスのドイツ軍狙撃手も自国の軍隊の後退のため。

ココでの主人公のペガァマガボゥだけはちょっとそこが違うんですね。ペガァマガボゥはカナダ人なんですが、名前でお判りのようにアメリカ大陸の先住民族でした。

カナダでは新大陸の先住民族を「インディアン」と呼ばなくなると、「ファースト・ネイション」という呼称が一般的になったようです(ファースト・ネイションにはイヌイットは含まれません)。

新大陸の先住民族

新大陸の先住民族

 

呼び名が変わろうが、ファースト・ネイションが先祖伝来の土地を奪われ、望みもしなかった定住生活を余儀なくされ、カナダ社会で政治的にも経済的にも、その他生活全般でも差別された事は完全な歴史的事実でして、現在ですら「ファースト・ネイション」と「非先住民」には平均寿命に大きな開きがある、とされています。
言わでものことですが、「非先住民」の方が長生きなのね。

ペガァマガボゥは「ファースト・ネイション」のうちのオブジワ族の出身。オブジワ族は勇猛で「スー族に勝った唯一の部族」でもあります。

1892年にカナダ・オンタリオ州オンタリオ湖のパリー島で生まれたペガァマガボゥは、第一次世界大戦が勃発(1914年)したときは既に23歳。オンタリオ湖で漁師兼水上消防士として生計を立てていました。

大東亜戦争などと違って、第一次大戦が何月何日に始まったか?はなかなか申しあげ難い部分がありますが、フランスがロシアの要請でドイツに宣戦を布告したのが1914年8月1日です。

ペガァマガボゥはこの8月のうちに入隊を志願しています。

多くのオブジワ族青年もペガァマガボゥと同様に志願入隊していますから、かなり素早い決断と言えるでしょう。

オブジワ族

オブジワ族

 

オブジワ族の人たちに、大英帝国の構成員としてカナダ軍とともに戦うギリもへったくれもありません。が、彼らは

「戦争で活躍することによって、カナダ国内でのファースト・ネイションの評価を高め、差別待遇を受ける同胞の地位を向上させよう」
という希望に燃えて続々とカナダ軍に参加したのです。

この決断にはカナダ白人政権側の宣伝や約束があったのかも知れません。あった可能性は高いと思いますが電脳大本営は証拠を持っていません。

こういった「戦争で活躍して、自分たち民族の待遇を良くする」って言う発想は世界中の「多民族国家」で頻繁にあることなんですが、目論見通りに運んだ事など、まずありません。

それは後ほどお話するとして、入隊したペガァマガボゥはカナダ軍第一歩兵師団・第一歩兵大隊に配属され、翌1915年の2月にベルギーへ派遣されます。「カナダ軍第一歩兵師団」は大西洋を越えた、史上最初のカナダ部隊であるとされています。

ペガァマガボゥは出征前の訓練課程で優れた狙撃手としての才能を見出されていました。狙撃手は最前線で任務に当たる性質から、偵察もその任務とされますので、斥候としての教育も受けています。

これがペガァマガボゥの第一次大戦での戦歴に大きな力となって行きます。
当時は「狙撃用のスコープ」は普及していませんでしたので、ペガァマガボゥが手にしたのはスコープマウントなしのカナダ陸軍制式ライフル(ロス小銃、口径7.7粍)でした。
かなりマイナーな銃で、塹壕で使うには不向きだったようですが、長距離射撃の精度は良く、英軍にも納入されています。
ペガァマガボゥはこの銃を相棒に第一次世界大戦の危険な戦場を駆け廻ったのであります。

初戦

ドイツに国土を大きく浸食されていたベルギーに投入されたペガァマガボゥとカナダ軍第一歩兵師団にとっての「初戦」は不幸にも1915年4月の「第2次イーぺル会戦」でありました。

ペガァマガボウ

ペガァマガボゥ

スポンサーリンク

「第2次イーぺル会戦」は戦場で初めて大規模に毒ガスが使用された戦いです。毒ガス以外での両軍の損害も大きく、10万人以上が死傷しています。
ペガァマガボゥのカナダ軍第一歩兵師団・第一歩兵大隊も、会戦の生起からたった3日でその戦力の半数を失っています。ペガァマガボゥはこの地獄の3日を生き伸び、やがて戦況は膠着状態に。
膠着状態になれば、第一次大戦の地上戦お決まりの「塹壕戦」が展開されるのですが、ペガァマガボゥのスナイパーとしての能力がココで輝きを放ち始めます。

ペガァマガボゥは毎日夜になると愛銃を手に、自軍の最前線を越えて身を潜めます。ひたすらドイツ軍兵士が姿を見せるのを待つのです。

まだ暗視装置などはありませんから、月光と星明りだけが頼りの暗闇の中ですが、ペガァマガボウは昼間のようにドイツ軍兵士を発見し、確実に狙撃して行きます。
第2次イーペル会戦が終結するまでの短期間(5月25日まで)でペガァマガボウは数十名のドイツ軍兵士を射殺。味方から“ペギー”の愛称を奉られ、狙撃の名人として知られるようになっていました。

第一次大戦の塹壕戦1

第一次大戦と言えば塹壕戦
寝るのも兵士の仕事。

 

この第2次イーペル会戦での戦功を評価されたペガァマガボウは幹部候補生(伍長)に昇進します。戦功を挙げて同胞の待遇を改善するペガァマガボウのもう一つの戦いも好スタートを切ったと言って良いでしょう。

翌年の6月ペガァマガボゥは多数のドイツ軍兵士を捕虜にした功績で戦功章を受章します。ペガァマガボゥは不必要な殺戮を好まず、第一次大戦を通じて敵兵士300名以上を個人で捕虜にしたと言われています。

続いてペガァマガボゥが参加したのは第一次世界大戦で最大の戦闘される「ソンムの会戦」(1916.7.1~11.19)です。戦車が初めて投入された戦いだよね。
この戦いでも、ペガァマガボゥは狙撃で祖国に大きな貢献をするのですが、代償も支払わされてしまいました。彼は敵弾を受けて脚部に重傷を負ってしまったのです。

1914年の8月に志願していたペガァマガボゥは、2年間と定められていた従軍期間が超過していました。ペガァマガボゥは即座に除隊して帰国することも可能でしたが、同胞の地位向上が目的の彼にとって、まだ戦功が不足していたのでしょう。
ペガァマガボゥは怪我が癒えると大隊に復帰、再び戦場に臨む道を選んだのです。

1917年11月。ペガァマガボゥと第一師団第一歩兵大隊は、第一次世界大戦で最も凄惨となる戦場に登場します。「第3次イーペル会戦」です。

「パッシェンデールの戦い」とも呼ばれ、主にパッシェンデール村を巡る沼沢地で行われたこの戦闘は「泥の戦い」でありました。

泥の戦い

連合軍(イギリス・カナダ・南アフリカ・ANZAC=ニュージーランド+オーストラリア/あれ?要は大英帝国連邦じゃん)はパッシェンデール村を占領してドイツ軍の戦線に穴を開け、ベルギーの海岸に進出、Uボートの出撃拠点を覆滅することを目的としていました。

イギリス軍は沼沢地に徹底的な準備砲撃を加えます。対してドイツ軍は塹壕とトーチカ群を良く整備して連合国軍の砲撃に耐えていました。

せっかくの砲撃はドイツ軍を弱らせるのではなくて、軟弱な地面を弱らせる結果に終わってしまうのです。
「雨も降らないのにぬかるんでいる」程度だったパッシェンデール村周辺は英軍の砲弾で掘り返され、新兵器「戦車」ですら突破できない底なし沼をいたるところに出現させてしまいました。

タンク、鉄条網を踏み潰す

鉄条網を踏み潰す新兵器

 

連合国兵士は敵弾に倒れ沼で溺死し1917年7月31日から、11月6日のカナダ軍団によるパッシェンデール村占領成功までの3ヶ月で45万名もの戦死者を出してしまうのでした。
ドイツ軍の戦死も26万名の多きを数えますが、いかに足場の悪い戦いであったか?よく判る数字ではないでしょうか。

五大湖の漁師兼水上消防士だったペガァマガボゥはこの戦場でひときわ輝きを放ちます。

ペガァマガボゥは銃弾と砲弾が無数に飛び交う泥の中をはい廻り、敵兵を次々に倒して行きます。能力を十分に示していたペガァマガボゥは狙撃の小部隊を率いていましたから、部下を効果的に配置するために戦況を冷静に把握する必要があります。

ペガァマガボゥの知悉する戦場の範囲は徐々に拡大していきます。一方連合軍は敵味方の砲撃で電話線が切れてしまうなどで通信が途絶。カナダ軍司令部も指揮系統を失いつつありました。

ペガァマガボゥと部下たちは狙撃の傍らで逐次状況を把握・報告。砲撃目標を指示したり、進撃路を的確に誘導するなど、連合国の中でもカナダ軍を大活躍させたのでありました。

その結果、連合軍の大目標だったパッシェンデール村はカナダ部隊の占領する所となったのです。この時のペガァマガボゥの活躍ぶりはカナダ軍の公式文書でも絶賛されています。

"At Passchendaele Nov. 6th/7th, 1917, this NCO(※) did excellent work. Before and after the attack he kept in touch with the flanks, advising the units he had seen, this information proving the success of the attack and saving valuable time in consolidating. He also guided the relief to its proper place after it had become mixed up." (※NCO=non-commissioned officer)

1917年11月6日/ 7日、パッシェンデールでは、このNCO(※)が優れた仕事をしました。 攻撃の前後で、彼は攻撃の成功を証明し、統合の貴重な時間を節約し、彼が見ていたユニットに助言しながら、側面に触れていました。 彼はまた、混乱した後の適切な場所への救援を導いた。」(※NCO =非委託官)

うーん、グーグル先生はイマイチやな(笑)

ペガーマガボウの勲章

ペガーマガボゥの勲章

要は偵察部隊を率いて砲撃の効果測定やら味方部隊の誘導に貢献した、って事ね。

長かった第一次大戦が終わってみると、開戦時から生き残ったカナダ軍兵士はほんの僅かでしたが、ペガァマガボゥは1914年の開戦から1918年の終戦まで戦場にあって生き延びることが出来たのでした。

 パッシェンデールでの活躍の後も1918年8月の「アミアンの戦い」でもペガァマガボゥは大きく連合軍に貢献。

1919.06.28ベルサイユ宮殿鏡の間

1919.06.28ベルサイユ条約が結ばれた「鏡の間」

戦争を通じて3度の戦功章を獲得して12回の負傷。カナダ軍の公式記録での「殺害数」は378名で各国を通じて最多という記録を残してペガァマガボゥは故国へ帰ることになったのです。

新たな戦場

ペガァマガボゥが部隊とともに故国へと辿り着いたのは1919年。ただちに除隊して予備役入りし、故郷パリー島の「アルゴンキン在郷州兵連隊」に編入されることになりました。
父親も祖父も州兵経験があり、ペガァマガボゥも喜んで州兵勤務に付いたようです。

しかし、故郷のオジブワ族居留地に帰ったペガァマガボゥは愕然としてしまいます。
カナダ政府からの同胞部族の扱いは戦争前と同じひどいモノでした。

もともとカナダには徴兵制度がなく、すすんでヨーロッパの戦場に赴く「白人たち」も少なかったのです。ペガァマガボゥたち「ファースト・ネイション」が絶対数は少なくても、積極的に志願して出た事が、「カナダ軍活躍」の評判を支えていたのに。
そして、実戦でも「白人」たち以上に犠牲も払い、能力を発揮して戦ったのに。
ペガァマガボゥ自身も「白人」たちからはほとんど英雄扱いはしてもらえませんでした。
欧州の大戦で支払った自分と「ファースト・ネイション」の努力と犠牲が無駄であったことを知ったペガァマガボゥは、新たな戦場にその身を投じる決意を固めたのでした。

オジブワ族居留地の自治権を求めるカナダとの戦いです。これこそ、後に「ファースト・ネーション運動」と呼ばれるようになる自治権獲得「戦争」なのであります。

ペガァマガボゥがこの戦争で使った武器は勿論ライフルではありませんでした。何処かの国のパヨチンどものように、ヘイワ念仏を唱えながら暴力的な行動に出たりもしませんでした。

ペガァマガボゥは1921年から1936年までパリー島地区の代表や評議員を務め、1943年には各地のネイティヴ・カナディアン部族から構成される「先住民族独立政府」の最高指導者に選ばれます。

ペガァマガボゥは先鋭的な「カナダからの独立」などは全く口にせず、先住民族の自治権確立と地位向上を求めて戦い続けたのです。ペガァマガボゥの戦いは容易には成就しませんでしたが、粘り強く運動が続けられました。

1952年、ペガァマガボゥはパリー島のオジブワ族居留地で妻のエヴァと6人の子供たちに看取られ、わずか61歳でその激動の生涯を閉じました。念願の自治権は獲得できないままで。

「戦い」が実を結ぶのは、ペガァマガボゥが旅立ってから17年も後の1969年。ついに「ファースト・ネイション」の公民権が認められ、さらに30年の年月を経て、1999年。
カナダ政府は先住民族の自治権を承認することとなります。

忘れられてた

ペガァマガボゥの死後、カナダ政府も「白人」どもも、ついにはオブジワ族も、ペガァマガボゥの戦功を忘れ去ってしまっていました。

近年になってカナダの作家「エイドリアン・ヘイズ」が「ペガァマガボウ伝説の兵士・忘れられた英雄」という伝記を出版。再び脚光を浴びることとなった。これに影響を受けて「ジョセフ・ボイデン」と言う作家も2005年にペガァマガボゥをモデルにした小説を発表して、ようやく再評価されるようになったのでした。

スポンサーリンク

-アメリカ, 同盟諸邦の軍備紹介, 大英帝国