旭日旗イラスト

初めての駆逐艦の躍動

2015/06/08

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対馬沖の翌日

明治38年5月28日、大日本帝國海軍の駆逐艦『漣(さざなみ)』(有名な「特型の漣」ではありません)は迷っていました。

漣、1901横須賀

初代漣
1901年横須賀にて

前日の日本海海戦で主力艦隊に随伴して走り回り、夜に入っても敵の残存艦を求めて魚雷攻撃を行ってきました。
常に最高速31ノットで突っ走り、頑健がウリの機関員たちも疲労困憊しています。
石炭燃料は燃やしてやるのに機関員の体力を多量に消費してしまうのです。

しかし、この好機に露西亜艦隊を出来る限り沈めなければなりませんでした。
主力艦の大半は討ち取ったようですが、僅かの残存艦隊でもウラジオストックに逃げ込めば、後々日本から大陸への補給路を襲ってくることは確実なのですから。

陽炎1920、呉

1920年呉陽炎

そんな時、ツァイス社の高倍率双眼鏡(私物)を持ちこんでいた塚本中尉が2隻の露西亜駆逐艦を発見したのです。
「漣」は同僚艦の「陽炎」と連携して追跡に移りました。「陽炎」は別部隊でしたが、駆逐艦は所属艦隊から分離、高速を利して言わば落ち武者狩りをしていたのです。

対馬沖で装甲艦ボロジノからロジェストウェンスキーを救出する駆逐艦

ロジェストウェンスキーを救出する駆逐艦の絵画

やがて敵の一艦が速度を落としました。「敵艦、白旗を掲げます」

しかし、もう一隻は逃走を続けています。追うべきか、降伏艦を拿捕すべきか?

結論は考える間もなく「陽炎」が出してくれました。陽炎の方が逃走艦の追跡にかかったのです。

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「漣」は停止した敵艦を捕まえるより他にはありません。この時はもちろん艦名など判る訳はありませんでしたが、逃走したのは駆逐艦「グローズヌイ」でした。
一方、停船して降伏したのは同じく駆逐艦の「ペドウィ」だったのです。

M38日本海海戦で捕獲したペドウィ。皐月と命名された

日本海海戦で捕獲したペドウィ。
皐月と命名された

「ペドウィ」を臨検してみると、驚愕すべき事態が判明しました。
重傷を負った敵バルチック艦隊の司令長官、ロジェストヴェンスキー中将が座乗していたのです。

「漣」は敵艦隊の司令長官を捕虜にする、と言う近代海戦ではまれな殊勲を上げることになりました。

駆逐艦は軍艦じゃない、などと仰る方へ

大日本帝國海軍には早くから「艦艇類別」と言うものがありまして、所有している艦艇を戦艦とか巡洋艦などに区別していました。
良くマニアの方が『駆逐艦は艦首に菊の御紋章が付いてないから「軍艦」じゃないよ』と仰るのも、この「艦艇類別」が『差別』の理由になっています。

ただ、この『差別』もず~っとそうだった訳ではありません。駆逐艦は軍艦の仲間に入れて貰ってた事もあるんです。
明治31(1898)年の3月21日に水雷艇(軍艦、艦艇ではありません)の類別の中に水雷艇駆逐艇として新設されたのがその初見です。
明治33(1900)年には軍艦の類別に変わり、名称も水雷艇駆逐艇から『駆逐艦』に変更。
駆逐艦が軍艦だった時期ですね。
5年後の明治38年には軍艦から艦艇の類別に変更されてしまいます。以降駆逐艦が軍艦に類別される事はありませんでした。

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この後、大正元(1912)年に駆逐艦の中に等級が制定されます。
計画排水量1,000トン以上を一等、1,000トン未満600トン以上を二等、600トン未満が三等駆逐艦とされました。
三等駆逐艦画像集はこちら

大日本帝國海軍には、初めから「三等駆逐艦にしよう」と建造した三等駆逐艦はありません。
一から三等に類別された時点では、駆逐艦はかなり大型化していまして、過去の物となった小さな駆逐艦を便宜上「三等」に区分したのです。

ここでは、そんな愛すべき三等駆逐艦、初期の大日本帝國海軍を支えた駆逐艦たちを紹介して参りましょう。

雷型

我が海軍が初めて手に入れて運用した駆逐艦が雷型(いかづちがた)駆逐艦です。

同型艦は雷(いかづち)・電(いなづま)・曙・漣・朧(おぼろ)・霓(にじ)

イギリスのヤーロー社(ヤ―ロー罐で有名な会社)に設計と建造を依頼して、英国のB型駆逐艦をタイプシップに製作されたと言われています(ウィキペディアに書いてあるんですが、英吉利のB級は千トン超えてるんで、電脳大本営としてはちょっと疑問です。艦形も違うし)。

B級駆逐艦ブルドッグ

B級駆逐艦ブルドッグ
迷彩が良い味です

一番艦の就役開始は明治32(1899)年の2月25日で、同級全艦が退役したのは大正14(1925)年です。
建造後日本に回航され、日露戦争で活躍しました(霓のみ就役した年に座礁、沈没)。
当初は建造したモノを分解して日本へ輸送するつもりだったらしいのですが、分解せずに廻航して航洋性能を確認したのです。

ちなみに殊勲の「漣」は駆逐艦籍から除かれ、雑役船(掃海船)となりますが、第一次大戦の青島の戦いにも参加、大正5年8月29日標的船として撃沈されて生涯を終えることになりました。

東雲型

明治29年度の第一期拡張計画で建造されました。同型艦6隻ともイギリスのソーニクロフト社に発注しています。全艦が日露戦争に参戦しました。
東雲(しののめ)・叢雲(むらくも)・夕霧・不知火・陽炎・薄雲

暁型

改雷型で、明治30年度の「第二期拡張計画」で計画・建造された駆逐艦型です。同型艦2隻がイギリスのヤーロー社に発注されました。
暁(あかつき)・霞(かすみ)

白雲型

改東雲型で、明治30年度の第二期拡張計画で建造されました。同型艦2隻をイギリスのソーニクロフト社に発注しました。

 

  雷型 東雲型 暁型 白雲型 春雨型
排水量 公試:305t 常備:322t 同363t 同322t 同375t
全長 68.4m 63.6m 67.2m 65.9m 69.2m
全幅 6.26m 6.0m 6.3m 6.3m 6.6m
吃水 1.58m   1.7m    
主罐     ヤーロー式
石炭
専焼罐4基
   
機関 2軸、
6,000馬力
2軸、
5,475馬力
2軸、
6,000馬力
2軸、
7,000馬力
2軸、
6,000馬力
最大速力 31.0ノット 30ノット 31ノット 31ノット 29ノット
航続距離          
乗員 55人        70人
兵装 8cm砲×2
6cm砲×4
45cm魚雷
発射管×2
8.0cm砲1基
57mm砲5基
45cm水上
発射管2門
同左 8.0cm砲2基
57mm砲5基
45cm水上
発射管2門
8.0cm砲2基
57mm砲4基
48cm水上
発射管2門

 

ついに国産化、春雨型と神風型

駆逐艦の製造は海軍の師匠、英国に頼ってきた日本海軍でしたが、やっと国産で作って見ることにしました。

ここまでの4級を見ると雷型と暁型はヤーロー社に、東雲型と白雲型は同じ英国でもソーニクロフト社で生産させてある意味で競争試作の形態を取っていました。

日本人の体格と運用に合うのはヤーロー社型だとの結論を得て、明治33年度の計画で建造を決定、ネームシップ春雨は明治36年に竣工しました。
本級の7隻、春雨・村雨。速鳥・朝霧・吹雪・霞(かすみ)・有明は初めての国産駆逐艦でしたが、まだまだ独自設計とは行かず、英国の設計をコピーしたものでした。

なお、初めての独自設計駆逐艦は「峯風」型だとされています。

また、小改良型の「神風」型(初代)が明治37年から建造されています。
神風型は日露戦争を睨んで32隻もの大量建造を行いましたが、戦争には間に合いませんでした。
32隻も艦名を列挙するのはナンですから、気になる方はウィキでも覗いて下さい。

以上で大日本帝國海軍の「三等駆逐艦」の系譜は幕を閉じ、一等・二等のハイローミックスで質と量を追う時代へと移っていきます。

 

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-帝國海軍, 駆逐艦激闘譜
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