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大東亜戦争必勝法~潜水艦の戦い方~

2017/08/07

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ワシントン条約で主力艦(戦艦・巡洋戦艦)の保有量を制限された大日本帝国海軍。その劣勢を補うのに、重巡をはじめとする補助艦艇、潜水艦、航空機などに期待する事になります。

ところが、ロンドン条約で重巡以下も制限され、邀撃決戦において勝利を得るのには心許ないと考えられるようになりました。

どうしても「艦隊決戦」したかった

この劣勢を跳ね返すために、潜水艦及び航空機の活用によって決戦前に敵勢力を減殺する必要が出来たのです。

いわゆる「漸減作戦」です。

敵艦隊の来寇を正面から打ち砕ける見込みがないなら、他の手を考えればよさそうなものですが、大日本帝国海軍には柔軟な思考力はありませんでした。

三笠 裏長山泊地

日露戦争中の三笠 裏長山泊地にて

日露戦争におけるバルチック艦隊の完全撃破が、逆トラウマのように、本来優秀で柔軟であるはずのエリートたちの頭を拘束していたように思われます。

彼らの思考は艦隊決戦による勝利から離れることが出来ませんでした。

私が常々「対馬沖の呪縛」と申し上げる所以です。

かくて航空機は長大な航続力を、潜水艦は長期行動能力や航洋能力などが要求される事になります。海軍の航空機は引き換えに防御力を欠いたまま発展することになりました。

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潜水艦は、と申しますと・・・
潜水艦は探知されないことが命。
それなのに長期行動能力や航洋能力が求められると、必然的に艦型は大型化してしまいます。艦型大型化は当然エンジンの大型化をもたらします。どうしても騒音が大きくなってしまいました。

この頃の潜水艦は、はっきり言ってしまえば「可潜艦」に過ぎません。「潜りっぱなし」は不可能で必要に応じて潜る事が出来るだけ。
水上での行動の方が多いのですが、艦型大型化で被視認面積が大きくなってしまいます。
大型化は、現在に至るまでの長い目で見ると、潜水艦技術の面では悪いことではなかったのですが大東亜戦争までで見ればあまり良いことはありませんでした。

事故後の検証を受ける第六号潜水艇

事故後の検証を受ける第六号潜水艇

第六潜水艇の広瀬艇長が命がけで目指した「水中高速潜水艦」には大東亜戦争末期まで目もくれず、「ドン亀」のまま艦隊決戦の補助兵力とする海軍首脳部の構想に成算はあったのでしょうか?

「潜水艦は艦隊決戦の補助兵力じゃない」と気づくチャンスはなかったのでしょうか?

大東亜戦争直前の潜水艦運用計画

年度帝国海軍作戦計画

「年度帝国海軍作戦計画」と言うものが残っています。私は1936 年(昭和11 年)度から1940 年(15 年)度しか見た事がありませんが、ここから帝国海軍の潜水艦運用思想を探る事が出来ます。

「年度帝国海軍作戦計画」にはさまざまな国との戦争(対1カ国のみ、支那事変勃発後は支那と他国の両面戦)が想定されています。

対アメリカとの想定で潜水艦隊は
「連合艦隊潜水部隊ノ一部ハ開戦時速ニ布哇及米国太平洋沿岸方面二進出シ全作戦ノ前哨トナリ敵主力艦隊ノ動静ヲ偵知シ好機二乗ジ敵勢ノ減殺ニ努ム」。
となっており、シーレーン妨害には目もくれていません。

連合艦隊戦策

「連合艦隊」は海軍の実戦部隊の大部分を指揮下に置く、基本的に臨時編成の部隊で、大東亜戦争前は編成されっぱなしの状態でした。

大東亜戦開戦時の聨合艦隊司令長官、山本五十六。 隣の女性は愛人

大東亜戦開戦時の聨合艦隊司令長官、山本五十六。
隣の女性は愛人

日露戦争直前に東郷平八郎が示したのを嚆矢として、「戦い方」を指揮下の艦隊に提示しています。これが「連合艦隊戦策」です。
昭和14年の「連合艦隊戦策」での潜水艦用法は、

「敵艦隊がその根拠地にある時は、潜水艦及び航空機でこれを監視し、敵艦隊出撃すればこれを他の潜水部隊と協力して要撃、追尾・接触を反復する。こうして敵を我が航空圏内に導き、最後には全力を持って邀撃作戦に参加する」(沢渡が意訳)

となっています。

実際、大東亜戦争の開戦時における潜水艦は、この戦策に基づいて配置されていたことはよく知られるとおりです。

海戦要務令

日本海軍の兵術思想の基本的な考え方は「海戦要務令」に記述され、技術の進歩に伴って適宜改正されていっています。

潜水艦については大正9年の第二回目の改正で初めて記述され、昭和3年の第三改正、昭和9年の第四改正でも引き続き登場するのです。
第四改正での「艦隊の戦闘」では「潜水戦隊ハ他部隊ト協同又ハ単独敵主隊ノ襲撃ニ任ズ」

とされていまして、連合艦隊戦策や年度帝国海軍作戦計画との整合が取れています。

「潜水戦隊の戦闘」では

「潜水戦隊ハ適切ナル散開配備ニヨリ敵主隊ヲ奇襲スルヲ以ッテ本旨トス」

連合艦隊戦策でも海戦要務令でも、潜水艦は漸減作戦のために使う事しか考えていません。

では大日本帝国海軍は、「潜水艦での敵大艦隊襲撃」と言う作戦をどのように練習していたのでしょうか?

演習での成績

意外なことに、「漸減作戦と邀撃決戦に参加」という潜水艦の用法が初めて演習で試されたのは昭和14年の8月という遅さです。

巡潜乙型

巡潜乙型

その結果なのですが、各潜水艦長から「追躡・触接は可能でも前面に進出して攻撃することは困難である」との意見が噴出。
しかも、敵艦隊の出撃を把握しようと敵港湾付近で監視する潜水艦が、敵駆逐艦や航空機からの攻撃で損害を被るケースが続出してしまいした。

敵だって「ひょっとして日本の潜水艦が軍港を監視してるかも?」と考えるわけで、港を監視するとなれば、当時は潜望鏡を出しとかないといけません。見つかって当然なのです。
出撃を捕捉できても、水上艦艇と当時の潜水艦では速度の違いが大きく、水上艦艇の前にでて、頭を抑える形で攻撃することは不可能。

これも当たり前のことなんですけど。

また、「昭和16年度長期特別行動」が2月から4月まで実施されていますが、その総括には潜水艦についてこのような所見があります。

「開戦初期ヨリ艦隊決戦ニ至ル先遣部隊ノ作戦デ敵艦隊渡洋速力ノ増加ト対潜手段厳重トナリタル今日小数ノ潜水艦ヲ以テ長期ニ亙リ追躡触接ヲ全ウスルコトハ望ミ薄シト認ム。」

一方で1940年(昭和15年)10月に実施された「第二期第二特別演習」では、海上交通線の破壊も研究されています。

その所見は
一 潜水艦ニ依ル攻撃商船数ハ五日間デ百三十三隻ニ達ス(略)将来長期通商破壊ニ使用スル潜水艦ハ弾丸戦時定数及ビ予備魚雷ヲ増加スルヲ要ス
ニ(略)
三 敵輸送部隊ニ対シ潜水艦ヲ以テ有効適切ニ之ヲ邀撃セント欲セバ飛行機ノ協力ニ依リ敵情ヲ知悉スルハ勿論此レニ依リ適切ニシテ統制アル配備ニ変更スルノ要アルモノト認ム

四 無線方位測定ニ依リ所在ヲ探知セラレシ潜水艦相当数アリタリ

なんと商船攻撃が「五日間デ百三十三隻ニ達ス」ですよ。ナンボでもやれるから、「弾丸戦時定数及ビ予備魚雷ヲ増加スルヲ要ス」るほどです。

なお、三の「適切ニシテ統制アル配備ニ変更スルノ要アルモノト認ム」ついては、電脳大本営としては賛同できません。

司令部が潜水艦の配置をコントロールすると、潜水艦の配置に規則性や論理的な整合性が必ず生まれます。それは敵に配置を読むチャンスを与えることになるからです。
それはさておき、大東亜戦争における潜水艦運用のため、極めて貴重なデータではありませんか。

あまり知られていませんが、帝国海軍は昭和14 年南支那の特定港湾を閉塞、15 年には中・南支の特定港湾への外国船舶の出入禁止などで海外からの「援蒋行為」の妨害を行なっていました。
潜水艦によるものとは少し違う形でも、通商破壊を実施した経験があるのです。

つまり海軍は大東亜戦争前の演習で
「潜水艦は敵主力の監視や漸減は困難であるが、通商破壊戦には有効である」
との所見を得ていた筈なのです。

大東亜戦争緒戦では通商破壊を実施していたのに

前述のように、大日本帝国海軍の潜水艦の運用は大東亜戦争開戦前の段階では通商破壊が主目的ではありませんでした。

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ところが開戦後、第一段作戦の順調な展開を見て海上交通破壊戦が実行されていたのです。

昭和17(1942)年3月、「第八潜水戦隊(特設巡洋艦1隻、潜水艦10隻)」が新編成されました。「第八潜水戦隊」はインド洋作戦用に投入されることになっていました。

「第八潜水戦隊」は「甲潜水部隊(軽巡鬼怒・伊号6隻・呂号2隻)」 「乙潜水部隊(軽巡由良・特設潜水母艦1隻・伊号6隻)」「丙潜水部隊(特設潜水母艦1隻・伊号6隻)」を編成しインド洋に展開しました。

このうち、特殊潜航艇を搭載した甲潜水部隊は「第二次特別攻撃(第一次はハワイ真珠湾攻撃)」任務を帯びていまして、4月中旬呉を出港し5月中旬にはマダガスカル島南方に展開。
5月末、特殊潜航艇によるデイエゴ・スワレス港への特別攻撃を実施、戦艦と油槽船を撃破する戦果をあげています。

「第八潜水戦隊」全体での主要任務は ①敵主要艦艇の捜索、攻撃と②海上交通破壊で、作戦海域としてインド洋(アフリカ東岸)が指定されました。

6月5日潜水艦4隻により、モザンビーク海峡において海上交通破壊戦を開始、作戦期間は1週間におよび、戦果は商船12隻、計52,840トンを撃沈。

6月17日には予定の会合点に集合して報国丸・愛国丸からの補給を受け、6月下旬から7月中旬まで(約3週間)第二次交通破壊戦を実施します。
その戦果は10隻、50,656トン撃沈でした。

なお一次、二次の交通破壊戦において各潜水艦は、魚雷の不良(魚雷が自爆してしまう)に悩んでおり、米海軍の潜水艦も大東亜戦当初は魚雷の不発が多かったのと好対照に思えますね。

大本営、通商破壊に色気を見せる

八潜戦のインド洋交通破壊戦は、大本営にとっても満足出来る戦果でした。

降伏調印式での富岡定俊(ステッキの後ろ、向かって左側)

降伏調印式での富岡定俊(ステッキの後ろ、向かって左側)

昭和17年8月1日、「陸海軍省部主任課長会合」で富岡定俊軍令部第一課長は概要次のごとき報告を行なっています。

①6月1日現在において、開戦前保有とその後の増加船舶を加え、英米併せて3,275万トンの一般用船舶を保有していた。

②これに対して開戦後、独伊と日本で1,530万トン撃沈したので、残余は1,745万トン(実際には4,500万トン、以下カッコ内は同じ。ノルウェー・ギリシャ・オランダ等の保有船舶を含む)となる。
8割が運航可能と見れば、1,400万トン(3,600万トン)が昭和17年8月現在の連合国可動船舶となる。

③一方、英米のタンカーを含めた絶対必要量は1,100万トンであるので、目下余力は300 万トン(2,500万トン)である。

④英米の造船実績は現在併せて月35 万トンである。(実際の造船実績は、1942 年4~6月期が月76万トン、7~9月期98万トン、10から12月期115万トン。ただしカナダの造船トン数を含む)

⑤この状況で日本と独伊が月80万トン撃沈すれば、6ケ月半で英米船舶に余力がなくなる。(実際の枢軸国による連合国船舶の撃沈トン数は1942年4~6月期が99万トン、7~9月期と10から12月期がそれぞれ90万トン)

⑥連合国側の輸送船は、豪州に波斯(ペルシャ)より月12万トンの油を運んでいる。インド洋上には200万トンを下らない(何が200万トンか不明)。その他軍用船も多い。

⑦独は近く300隻の潜水艦を有することとなるべく、撃沈船舶正味50万トンあるいは40万トンは確実なるべし。

⑧以上により、300万トンの余裕がなくなれば爾後六ヶ月もかかれば内部的に何か起こると思う。

ウームなかなか威勢が良かったのに、最後は「内部的に何か起こると思う」では戦争指導を任務とする軍人としては情けなさ杉ではないか?

ここは一つ「電脳大本営」が見本を見せて差し上げなければ。

電脳大本営的「大東亜戦争必勝法」

大東亜戦争に限らず、戦争は「勝てる時」に「勝てる相手」と戦端を開かなければいけません。
残念ながら、日本がアメリカを打ち破る力は今も当時もありませんでした。ただし「勝てる相手」はありました。ドイツ相手に悪戦苦闘を続けていたイギリスです。

国力的にイギリスだって当時の日本が勝てる相手ではないのですが、この昭和17年の3月頃からが「勝てる時」だったのです。

北アフリカ戦線は昭和17年の年初から、いったん退いていたロンメル率いる枢軸アフリカ軍団が反転攻勢にでて、1月29日にベンガジを占領。
以降両軍とも補給待ちで対峙しますが、5月には戦線が動き、同月末にガザラ防衛線突破、6月下旬トブルク占領。

被弾炎上する英軍のクルセイダー

被弾炎上する英軍のクルセイダー

大英帝国陸軍はカイロの西、エル・アラメインまで大きく退き、戦力備蓄に努めることになりました。

この大英帝国の補給ラインの主力はもちろん地中海でありますが、安全という意味ではインド洋ラインはかなりの重要度を持っていました。特にアメリカ、オーストラリアからの補給はインド洋ラインに多くを頼っていたのです。

さらに、ソ連への支援(東部戦線の維持は大英帝国の生存に致命的に重要でした)は、このルートで揚げて中東経由が効率的です。ソ連の生存もインド洋ラインに依存していたのです。

1942年の上半期に、インド洋地域(中東、ペルシャ湾、インド)には連合国船舶によって戦車2,415両、航空機 1,969機が補給されています。
さらに、同じ期間で英国からこの地域を経由して各地に補給された車輌は44,425両、アメリカからは81,470両がこのルートを通って補給されています。

進撃するドイツアフリカ軍団

進撃するドイツアフリカ軍団

このルートを完全に遮断してしまえば、独英戦、独ソ戦の様相は史実と全く異なっていたことは間違いないでしょう。

ソ連はどうでも良いでしょうが、イギリスが敗れることはアメリカはなんとしても避けたいでしょうから、太平洋戦線に投入する兵力は激減せざるを得ません。
攻勢を取ることも、なかなか出来なかったでしょう。

補給ルート遮断は可能だったのか

もし大日本帝国の潜水艦が長期にわたってインド洋で行動したら、大英帝国の補給ラインは遮断できたのでしょうか?

前述の第八潜水戦隊は、モザンビーク海峡において4隻の潜水艦を使って6月初めの1週間で、12隻52,840総トンの商船を撃沈しました。
これを平均すれば、潜水艦1隻当り1ケ月で12隻6万トンの撃沈能力があることになります。

当時この海域では月当たり80~90隻、40万トン~45万トンの連合国船舶が航行していました(英国側統計)。

大西洋や北海での実際の例から、連合国側はそのような大損害がでれば、速やかに様々な対策を取ってきます。
「1ケ月で6万トン」の撃沈能力は低下してしまうでしょうが、我が精鋭潜水艦長・乗員の技術で乗り切れる、と無理やり仮定します。

となれば、この時期のアフリカ大陸東岸すなわちインド洋を経由して北アフリカ戦線と東部戦線に送られる連合国の補給路を完封するためには、8~10隻の潜水艦を展開させれば良いことになります。

8~10隻の潜水艦を常時インド洋で活動させるためには、大日本帝国海軍はその3倍、24~30隻の潜水艦をインド洋作戦に投入する必要があります。
呉を出港してマダガスカルに展開するまで一ヶ月かかることを考えると、これでもまだキツイかも知れません。

大東亜戦争の戦争目的は

当時の大日本帝国海軍の潜水艦保有数は60隻あまりですから、その半数を我が皇土や資源地帯の防衛に直接関係のない地域に貼り付けることになります。

加えて、特設潜水母艦を3~4隻、この地域に遊弋させる必要があります。武器弾薬の補給だけでなく、潜水艦乗員の休養も考えてやる必要があるからです。

潜水母艦迅鯨と呂号潜水艦

潜水母艦迅鯨と呂号潜水艦

それでも、やる価値はあったはずです。
史実では第一段作戦が成功裏に完了すると、「やることが無い」状態に陥っています。
これは特に海軍首脳部の頭が「攻勢」だけに毒されていて、打倒する敵もアメリカしか見えていなかったから。

「戦争目的」である資源地帯を確保したのですから、その防衛と本土への輸送路確立こそが第二段作戦のあるべき姿でした。

そのためにもっとも効率的なのが「インド洋通商破壊」だったと思われます。

海軍の軍人たちは、「海戦のプロ」ではあっても「潜水艦戦」のプロではなかったようです。
そのあたりは、記事を改めて考えてみることにいたしましょう。

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