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睦月型駆逐艦「皐月」の奮戦~駆逐艦長飯野忠男少佐ラバウルに死す~

2016/09/10

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駆逐艦「皐月」のお話であります。
電脳大本営は、小さくてもあちこち走り回って国を守ったフネが大好きなんで、どうしても小さい艦の紹介が多くなりますね。

新型ではありません

皐月(さつき)は1923年(大正12年)度の計画艦で、睦月型駆逐艦の5番艦。5月だからね。
1925年11月15日に藤永田造船所で誕生しました。

大東亜戦争の開戦時には艦齢16年、皐月誕生後の駆逐艦の異様とも言える進歩を考えますと、かなりの旧式艦だったといえるでしょう。

T15卯月全力公試

睦月型駆逐艦「卯月」の全力公試 大正15年

 

公試排水量 :1,445トン、全長 102.72m、全幅 9.16m

速力 37.25ノット、乗員 154名

兵装:45口径12cm単装砲×4門、7.7mm機銃×2、61cm3連装魚雷発射管×2基(魚雷12本)、爆雷×18個、機雷or掃海具

なお、福井静夫によれば昭和19年(1944年)には12cm単装砲3門、25mm3連装機銃3基、同連装2基、同単装9基、13mm単装機銃5基、61cm3連装魚雷発射管2基。

主砲を降ろして対空兵装を充実させています。

「日本型駆逐艦」の完成型

まずは駆逐艦皐月の属する「睦月型駆逐艦」をもう少し詳しく紹介いたしましょう。

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大日本帝国海軍は大正6(1917)年から、それまでの英国型の模倣から脱して、独自設計で太平洋を駆け回るのにふさわしい「日本型駆逐艦」である峰風型の整備を開始します。

この設計はおおむね成功をおさめて、峰風型15隻、小改良タイプの(2代目)神風型9隻が就役して海の守りを固めたのです。

睦月型はその更なる改良タイプとして計画された大型駆逐艦であります。12隻が建造され、さらに増える予定でした。

そのため、神風型とともに付けてやる名前が不足しそう!ってことで番号の艦名を予定。
ところが建造計画が変更となって、大日本帝国海軍の駆逐艦にふさわしい名前をつけてもらえました。

この「睦月型」で峰風型からの「日本型駆逐艦」は一応の完成を見ます。

海軍はこの成功で得た自信を胸に、世界に誇る強武装の「特型(吹雪型)」の整備へと動いてまいります。

睦月型の特徴は

神風型(ネームシップ「神風」は米潜水艦との死闘や「最後の水上戦闘」で有名です)からの主な変更点は、魚雷発射管です。
53cm連装魚雷発射管3基六門だったところを、61cm3連装魚雷発射管2基六門に、予備魚雷も8~10本だったのを12本に強化しています。

艦型も若干大型化し艦首がスプーン・バウからダブルカーブドバウに変っているのが識別点です。下の画像で確認してください。

T9峰風全力公試

参考画像 全力公試中の峰風(大正9年)

弱点は搭載爆雷の数、たった18個。

対潜装備の軽視は大日本帝国海軍の慢性病みたいなものなんですが、ひょっとすると駆逐艦のことを「対潜艦艇」とは思っていなかったんじゃないでしょうか?

駆逐艦「皐月」の戦歴

大東亜戦争の開戦時には峰風グループ(峰風型・神風型・睦月型)はいささか旧式化していたのですが、睦月型はその雷撃能力の高さを買われて主力に随伴しています。

フィリピン、ジャワ島の攻略に従事するとバタビヤ沖海戦にも参戦しました。

この海戦では連合軍艦隊を圧倒したのですが、魚雷の射程が長過ぎて、護衛してきたはずの味方輸送船を撃沈してしまう失態(どの艦の魚雷かは不明)がありました。

揚陸艦「神州丸」

揚陸艦「神州丸」

しかも、そこに陸軍の誇る(たぶん世界初の)揚陸艦「神州丸」が含まれて(神州丸は大破着底、後に浮揚成功)いて、座乗の第16軍司令官、今村均中将が海水浴を余儀なくされる事態となってしまいました。

戦勝の続く中で、意外に見落とされているエピソードですが、この作戦の目的は「上陸部隊を無事に送り届けること」だったはず。
ここでも、海軍は自分たちの考え方がおかしいと気づく機会を逸してしまいました。「皐月」の責任とは思えないところですが、取り上げてみた次第です。

劣勢の中で「皐月」奮闘す

昭和18(1943)年になると、米軍の反撃は本格化します。

多くの駆逐艦を犠牲にしてまで補給を続けたガダルカナル島からも撤退が決まり、「皐月」も参加。
その後はラバウル周辺海域で補給任務。

同年7月、ショートランドでの空襲で被弾して内地へ戻り、呉で修理。この呉での修理が「皐月」の最後の里帰りとなります。

修理なってラバウルに復帰した「皐月」は同型艦「文月」とコンビを組んで輸送船護衛に活躍します。

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明けて昭和19(1944)年1月4日。
「皐月」と「文月」は、正月休みもなく護衛任務に付いていたのですが、この日は間が悪く米軍機100機以上の大群に襲われてしまいました。

「皐月」と「文月」は小回り性能と37.25ノットの高速にモノをいわせて船団を護り、米軍機の一割、11機にも上る撃墜を記録します。
しかし、流石に無傷とはいきませんでした。

多くの兵員を失いながら戦闘を続けた「皐月」でしたが、ついに敵弾がその艦橋を捉えてしまいました。

艦橋に飛び込んだその弾は、艦長の飯野忠男少佐の左脚を直撃。
たまらず転倒した飯野艦長の左脚からは大量の出血。

それでも「輸送船と部下を護る」の強い信念に突き動かされる少佐は指揮を止めませんでした。

米軍機が休む暇など与えてくれるわけもなく、流石に少佐の意識が朦朧としてきます。
艦長の左脚は完全に砕かれいて、出血を止めるには脚を切断するしかなかったのです。

飯野艦長は軍医を艦橋に呼びました。
なんと切断手術を受けながら戦闘指揮を続けたのです。

1月6日、ラバウルに帰り着いた「皐月」に重大な損傷はなく、現地修理で戦線に復帰しましたが、飯野艦長はかつぎ込まれた病院で息を引き取ってしまいました。

以下、2016年9月10日追記です。

最近、当時の南東方面艦隊司令長官(敗戦まで同職)だった草鹿任一中将の日記を目にする機会がありました。

草鹿中将は若いころから日記を付けていたようで、兵学校長時代など興味を惹かれます。この日記は昭和17年暮れに南東方面艦隊司令長官に補せられると、戦地に持って行き敗戦のドサクサで散逸してしまったようです。
残念なことに、昭和17年以降がほとんど残っていないのです。
敗戦時には「海軍は陸軍の指揮下にあらず」と言い張り、無理やり今村将軍と肩を並べて降伏文書にサインした気骨の提督。昭和20年分が残っていたら、この時の心のありようが判ったでしょうに…

しかし、奇跡的に昭和19年初頭の分は日本に帰還して、ご家族が大切に保存しておられました。
以下はその中の1月5日の日記です。

一月五日 雨 八十九度
昨夜一寸空襲アリ。夜来豪雨。五時起床。七時病院二行キ文月、皐月ノ負傷者ヲ見舞フ。皐月艦長飯野忠男少佐、左脚切断ノ手術ヲ受ケ乍ラ艦橋二在リテ椅子二坐シタル儘指揮ヲ執リクルハ勇敢ナリ。軍刀一振ヲ贈ル。貧血ノク(タ?)メ一時危険ナリシモ夕方持チ直ス。

(沢渡注;翌6日には「飯野皐月艦長遂二今朝逝去」の記述があります)

文月砲術長平柳育郎中尉胸部及腹部貫通銃創ニテ重症入院後間モナク戦死シ見舞二行キタル時ニハ方二火葬場二送ラムトスル間際ナリシガ拝礼ノ後副官ヲ九三九空二派シ級友二通知セシム。佐々木中尉直チニ病院二行キ他ハ火葬場二集ル可ク信号セシ由ナリ。彼レ七十期ノ首席トシテ晴レノ卒業式ノ光景尚ホ記憶二新ナリ(草鹿中将兵学校長時代の教え子)。駆逐隊二於テモ大ニ司令以下ノ信頼親愛ヲ受ケ居リシ由ナルニ惜ム可シ。

飯野艦長、病院でも戦列復帰を目指して闘っておられたんですね。
追記ここまで

わが国の海軍に限らず、駆逐艦の艦長には野武士を彷彿とさせる豪傑が多いものです。
しかしこれほどの敢闘を見せた艦長はどの国の海軍にもいないことでしょう。
まことに我が海軍魂の清華、もっと喧伝されるべき「もののふ」だと思います。

飯野忠男:福岡県出身、海兵60期。
昭和15年11月15日駆逐艦村雨水雷長。
昭和16年9月10日軽巡川内水雷長。
(?)重巡洋艦熊野水雷長。
昭和18年9月1日駆逐艦皐月艦長。
昭和19年1月6日ラバウルにて戦死、死後中佐に昇進。

大戦争中なのに転勤が多過ぎるぜ、と言う問題につきましては、また考えてみたいと思いますのでここでは割愛。

ついに最後が

飯野艦長を失っても皐月の奮闘は続きましたが、2月に入るとトラック空襲(海軍丁事件)で相棒の「文月」が撃沈されてしまいました。

その後もサイパン方面の輸送と護衛に従事したのですが、9月21日マニラ湾で米軍の艦載機の襲撃を受けたときのこと。

左舷にかわしたはずの至近弾で、運悪く復水器が損傷してしまいました。
復水器はタービンを回した蒸気を水に戻してやる装置です。
すぐに戦闘行動がどう、という事はありません。

ありませんが、次第に蒸気ができなくなりますから長時間の行動は出来ません。
米軍の攻撃は何次にもわたって続き、皐月の行動は少しずつ鈍っていきます。
速力も20ノットが出せなくなり、負傷者が続出します。

幸いにも湾内であったために、艦載艇で陸へ順次移送しますが、艦橋につめる人員は艦長以下3名だけの惨状となり、数弾の命中弾を貰ってついに撃沈されました。

150名あまりの乗員でしたが、この戦闘での戦死者は52名に留まりました。傷つきながらも水兵さんを護らんとした「皐月」の粘りが判ります。

旧式ながら最前線に張り付いた睦月型駆逐艦は、「皐月」が撃沈されて残ったのは「卯月」と「夕月」の2隻だけ。
その「卯月」と「夕月」も12月のオルモック輸送作戦第9次作戦に参加して沈没し、睦月姉妹12隻は全て戦没となりました。

「皐月」には先代がいた、それも・・・

駆逐艦「皐月」は実は2代目です。

初代の「皐月」はロシア・バルチック艦隊の駆逐艦「ペドウィ」でした。

M38日本海海戦で捕獲したペドウィ。皐月と命名された

日本海海戦で捕獲したペドウィ。
皐月と命名された

重症を負った敵将ロジェストウェンスキー中将を救助して敗走中に捕獲された、あの「ペドウィ」が名前を変えて我が海軍籍に入っていたものです。

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