大艦巨砲主義イラスト

大日本帝國海軍『唯一の』戦艦 金剛

2015/05/06

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ネームシップ金剛

金剛型は明治40(1907)年に建造が決定されました。当初は「装甲巡洋艦」として計画されていたようです。
このころの世界の建艦の状況は、1906年に画期的な戦艦「ドレッドノート」が就役して以降、戦艦の進歩が加速され、新型ごとに飛躍的に強力となる過当競争状態でした。
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(米戦艦の設計にまで話は進んでいます)

このため、金剛級の設計もなかなか決められなかったのですが、次々と強力な超ド級艦が就役していく諸外国のすう勢も踏まえ、金剛型を「超ド級巡洋戦艦」として建造しよう、と言うことに決定を見たのが1911年のことでした。

T2金剛英にて公試に向け航海中

完成時の金剛級

日本海軍は明治40(1907)年の計画で国産の弩級戦艦河内型を建造中だったのですが、その内容は、と言うと欧米にかなわない点が多くありました。

技術面も勿論なんですが、構想の点で経験不足が露呈してしまっていました。
そこでネームシップ「金剛」だけ英国で設計・建造してもらい、2番艦以降を国内で建造して技術を導入しようとしたのです。

金剛型画像集

日本の天才設計者

本来は構想、スピリットと言った所を一緒に導入出来れば良かったのですが、またそのチャンスもあったように思えるのですが、技術導入だけにとどまったのは残念です。

英国では、金剛の設計・建造計画にアームストロング社とヴィカース社の応募がありましたが、戦艦三笠の建造などで日本の海軍との関係が深かったヴィカース社が選ばれました。

戦艦エリン1915

金剛級の設計の参考になったとされる英戦艦エリン

設計については、ヴィカース社のジョージ・サーストン卿が巡洋戦艦オライオン級を参考にした、いや戦艦「エリン」 (この時点ではオスマン・トルコ用のレシャド5世)をベースにした、アームストロング社のフィリップ・ワッツの指導だ・・・といろいろな説があるんですが、近藤基樹造船中将とサーストン卿が意見のやり取りをしながら、戦艦「エリン」を参考に設計した、って言うところが正解でしょう。

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近藤基樹は実現こそしませんでしたが、日露戦争中にすべての主砲を艦の中心線上に配置する主力艦を提案しています。これは武装配置だけなら既にド級戦艦であり、極めて先進的な思想の持ち主だったんです。
平賀譲にも勝るとも劣らぬ評価をしてあげるべきかも知れません。

ヴィカース社は日本から多くの視察・見学・実習者を受け入れて技術輸入に協力し、お陰で日本の建艦技術は大いに進歩。これ以降は世界トップレベルの主力艦を自国建造出来るようになります。

近代化改装

就役当時は世界一の巡洋戦艦であった金剛級ですが、大東亜戦争が始まる頃には艦齢も30年を超えていました。
しかし、何回もの小改装と2回の大改装で巡洋戦艦から高速戦艦へと変身し、太平洋からインド洋まで暴れまわることになりました。

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T4扶桑完成後全力公試

大正4年扶桑
完成後全力公試中

S12 金剛 大改装完了

昭和12 年大改装が完了した金剛

ソロモンの海戦で2隻の妹、比叡霧島を失った金剛は傷ついてスピードの出ない榛名とともにレイテ沖海戦(1944年10月23日 - 25日)に臨みました。
10月22日にブルネイ湾を出撃、第二艦隊の旗艦としてレイテ湾を目指します。
23日早朝にはパラワン島沖、続いて24日にはシブヤン海で「愛宕」、「大和」、「武蔵」、「長門」が攻撃され、武蔵を失ってしまいましたが金剛は第三戦隊にいたためほぼ無傷ですみました。

敵空母撃沈

そして運命の25日午前6時45分。
金剛と栗田艦隊はサマール島沖 でトーマス・L・スプレイグ少将率いる第七七・四任務部隊の第三群(タフィ3)の護衛空母群と遭遇します。
米護衛空母群は金剛・大和・長門・榛名の先制砲撃を受けますが煙幕を展張し、折しも到来していたスコールめがけて東方へと遁走。
栗田艦隊は第五、第七戦隊を先頭に追撃を開始して、金剛は第五、第七戦隊に後続する形で東方へと向かいました。

スコールを脱した「金剛」は南西方向に米空母群を発見し、8時2分から主砲と副砲による砲撃を再開し、同5分に今度は南方へと針路を変えて落伍していた護衛空母「ガンビア・ベイ」に追い迫り、重巡部隊と共に攻撃を加えてついにガンビア・ベイを撃沈しました。

この海戦では、栗田艦隊司令部がタフィ3を正規空母群と誤認しており、有利な態勢を取る間もなくバラバラに追撃させたことが惜しまれます。護衛空母は鈍足ですから、慌てて追いかける必要はなかったのです。
その後の獲物の指示にも妥当性を欠く点が見受けられ、例の反転以前に栗田長官の将としての適性が疑われるところです。

ともかく、金剛は『主砲で敵空母を撃沈した唯一の戦艦』となり、妹たちの無念を晴らしてやることが出来ました。戦艦も沈めたかったでしょうが・・・

油断大敵

栗田艦隊は決定機を逃して、すごすごと引き返すことになります。
その後の「金剛」はフィリピンやブルネイを転々したのち、他の残存主力艦とともに日本本土へ帰ることになります。
11月21日午前3時ごろ、台湾沖・基隆北方50浬ほどを航海中の金剛は米潜水艦「シーライオン」の魚雷攻撃を受けました。「シーライオン」は6本の魚雷を発射し、12ノットで航行していた金剛の左舷艦首と2番煙突下の缶室に1本ずつの魚雷が命中しました。

艦長はじめ、金剛幹部はかなり楽観していました。「歴戦の金剛が2本くらいの魚雷で沈む筈がない」と言う訳でしょうか?

しかし金剛は近代化改装を受けているとは言え、もう齢30年を超える「老朽艦」でした。
魚雷の命中孔だけではなく、衝撃でリベットの継ぎ目が緩んでしまって徐々に浸水が広がり傾斜が大きくなります。
応急決死隊が編成され潜水具をつけて止水作業を行いましたが手遅れ。傾斜は増えて12度にも達し、ついに艦長は御真影を艦橋に移させました。

それでもまだ乗員退避は実施されず、総員退去命令が出されたのは傾斜18度を計測した後でした。
金剛が被雷してから沈没まで2時間もあったのですが、損害を軽視したことと判断の遅れによって1,300名あまりが金剛とともに沈むことになってしまいました。
護衛していた駆逐艦「磯風」と「浜風」に救助されたのは準士官以上13名、下士官兵224名の計237名だけだったとの事です。

こうして大日本帝國海軍で「唯一空母を撃沈した戦艦」は、「唯一潜水艦の魚雷で撃沈された戦艦」にもなってしまったのでした。

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-帝國海軍, 戦艦 海に浮かべる鉄の城
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