大艦巨砲主義イラスト

戦艦霧島の探照灯

2015/04/29

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金剛型4番艦

戦艦霧島は明治45(1912)年の3月17日に金剛型巡洋戦艦の4番艦として三菱重工長崎造船所で建造が開始されました。
金剛級戦艦これくしょん(画像集)
前日には川崎重工で同型艦「榛名」が起工しており、両艦は我が国で初めて民間造船所で建造された主力艦となりました。大正4(1915)年4月19日、佐世保鎮守府所属として就役。

巡洋戦艦と言うのは戦艦の一種ではなくて、巡洋艦のおっきい奴です。
巡洋艦の速度性能・航洋能力はそのままに、戦艦なみの攻撃力を与えたもの。必然的に防御力は戦艦には大きく劣ります。このグループの皆さんには余分な解説ですが、霧島の生涯は「巡洋戦艦」のイメージを引きずってる気がしますので念のため。

フェイスブックのグループでの議論はこちら

2回の改装

第一次大戦の英独ユトランド海戦の戦訓を得て、昭和5(1930)年に第一次近代化改装が行われました。
遠距離・高角度で落下してくる巨弾に対して巡洋戦艦の防御が役に立たなかったことに対応するもので、霧島(他の姉妹も順次やってます)は重装甲化するのと引き換えに鈍足となり、戦艦に類別変更されています。この年の10月26日、神戸沖で実施された特別台演習観艦式において「霧島」は御召艦の栄誉を担いました。

S5霧島 第一次改装完成

霧島の第一次改装完了写真 昭和5年

昭和11(1936)年には第二次近代化改装を実施します。
これは軍縮条約の廃止を見越したもので、機関を換装して出力を倍の136000馬力へと強化。さらに艦尾を延長して相対的にスマートな体型にシェイプアップ。
戦艦としての防御力・攻撃力はそのままに30ノットの高速を誇る高速戦艦として生まれ変わったのです。

大東亜戦争では

大東亜戦争開戦時からその高速力を活かして真珠湾・セイロン島・などへ空母機動部隊に護衛艦として随伴しました。
ミッドウェイの悲劇を経て、米のガダルカナルへの反攻が効果を上げ始めた1942年11月になって霧島にも最後の時がやってきます。
ガ島への輸送のガンとなっていたヘンダーソン飛行場への艦砲射撃を目指した姉妹艦「比叡」が夜戦で探照灯を照射したところ米艦隊の集中砲撃を受けて舵を故障、後の航空攻撃に耐えきれず処分されました。

続く11月14日の深夜、ガダルカナル島とサボ島の間の海域(いわゆる鉄底海峡)で旗艦「愛宕」と「霧島」以下の前進部隊は再度ヘンダーソン飛行場攻撃を指向して、米軍第64任務部隊と交戦しました。
22時1分、「愛宕」「霧島」は探照灯を照射して、6000m先に米の新型戦艦サウスダコタを発見します。
「サウスダコタ」から離れていた同じく新型の戦艦「ワシントン」はレーダーでとらえていた大型の目標が「サウスダコタ」なのか日本戦艦(霧島)なのか判別できなかったのですが、「霧島」が探照灯を点けてくれた事で目標を識別。
16インチ砲9門による砲撃を開始して霧島をボコるのです。

探照灯の開発メーカー

霧島をはじめとする金剛型が造られた時に搭載されていた探照灯は、帝國海軍の探照灯としては第一世代の「110センチ探照灯」で、独シーメンス社の開発したものです。
探照灯の発光は、アーク放電によるもので大変な熱を持ってしまうんですが、シーメンス社(海軍では『シーメン』と呼んでいたようです)は温度の急変に耐えられる構造の鏡を作ることに成功して金剛型他に採用されたのです。

ところが、米国のスペリー社が大正5(1916)年に「高光度探照灯」を開発すると、探照灯の世界に世代交代が起こり、帝國海軍の艦艇も次々にスペリー式に切り替えられました。

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元来探照灯は、ドイツのシーメンス方式で占められていたが、新しく出現したスペリー式高光度探照灯は、海軍の逸早く注目する処となった。
大正10年、東京計器は米スペリージャイロスコープ社と、探照灯及びジャイロコンパスに関する独占製造契約を結んだ結果、探照灯はすべて同社の製造する処となり、其の量は同社全生産金額の60%に達するようになった。

(呉海軍工廠 電気実験部の記録より 電脳大本営が読みやすく編集しております)

この状況に反旗を翻した民間会社がありました。富士電機です。
富士電機はシーメンス社と古河の共同出資だった関係から、シーメンス製の探照灯を粘り強く改良して海軍に持ち込み、ついに逆転に成功します。

富士電機は、シ社の新型探照灯によりス社と対抗せんとして、各種のサ ンプルを提供したが、何れも海軍の要求に適合しないため却下せられていた。
富士電機はこれに懲りる事もなく、シ方式に幾多の改善を加え、海軍当局の指導によって、我々の実験部における研究成果も十分採り入れ、海軍式探照灯を完成するに至って、状勢は一変し探照灯製造の主力は、東京計器から富士電機に移ったのである。
(呉海軍工廠 電気実験部の記録より 電脳大本営が読みやすく編集しております)

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 海軍と民間企業の関係は、航空機開発のありかた等からの連想で『海軍側の過大な要求と苦悩する民間側技術者』のように思いこみがちですが、それだけではないんですね。
これだけ頑張って改良を重ねれば、もう「シーメン式」などと言う必要もありません。
「シ方式に幾多の改善を加え」たものが92式探照灯として採用されたと思われ、さらに改良を重ねて96式探照灯となったものが、霧島の命取りとなった探照灯です。

*フェイスブックに投稿後、グループのメンバー様より、「ジーメンス」と濁るのが正しいとのご指摘を頂きました。お礼を申し上げます。以降の記事より訂正して参ります。

なぜ探照灯を点けたのか

さて、海戦の方です。前日にも探照灯を点けた事が原因となって姉妹艦比叡を打ち取られたのに、なんで霧島(と愛宕)はわざわざ目立つようなことをしたのか?

これは、帝國海軍の金剛級の運用方針に問題があるように思われます。
金剛級は高速戦艦として、機動部隊の護衛に多用されたのですが、第二次改装当時から空母の集中運用とその護衛を意図していたわけではありません。

改装の際には暫減作戦(来寇の米艦隊を水雷戦隊・潜水艦隊の夜襲などで少しづつ減らして主力の決戦を有利にする)を支援するために水雷戦隊の前路啓開(敵の巡洋艦のバリアを金剛級が撃ち破り、水雷戦隊の軽巡と駆逐艦を突進させる)に使うつもりで、そのために駆逐艦並の高速が与えられたのです。

水雷戦隊の夜戦では先頭艦(旗艦)だけが探照灯を照射し、後続の駆逐艦は照射された敵艦に魚雷を撃つのがマニュアルになっています。霧島も愛宕とともにマニュアル通りにやっただけ、と言うわけです。

米艦隊はどうしたのか?

もう少し工夫の余地はなかったものでしょうか?
たとえばこの海戦では米側は探照灯ではなくて照明弾を使っています。
愛宕の戦闘詳報があります。

『本戦闘中敵ハ殆ンド探照灯ヲ使用スルコトナカリシモ我ガ非敵側ニハ敵ノ極メテ有力ナル照明弾見事ニ上空ニ懸吊セラレ、我ハ完全ニ照明サレアリタリ』
『此ノ間敵吊光弾我ガ非戦側上空ヲ見事照明シ』
愛宕戦闘詳報より

 非敵側、非戦側と言いますから、米艦隊から見て我が艦隊の向こう側に照明弾を撃ちあげて、我をシルエットとして浮き上がらせたものでしょう。
我が戦艦には弾着観測用の水観(巡洋艦には水偵)が搭載されており(この海戦に先だって陸揚げしていた、との記述もあり)、搭乗員は夜間発着の訓練も受けています。
照明弾の発射炎すら視認されることなく、吊光弾を投下する事も出来た筈なんですが…

離水する零式観測機

離水する零式観測機

霧島はワシントンの16インチ砲9門で叩かれ、少なくとも6発を被弾、前部電信室・三番、四番砲塔・舵機と被害を受け、火災を鎮めたものの、舵機の故障は如何とも出来ず。
徐々に右舷へ傾斜を強め、反対舷に注水すれば一気にそちらへ傾いてしまう惨状となり、ついに軍艦旗降下、総員退去のやむなきに至ったのでした。

霧島は「朝雲」「照月」「五月雨」の駆逐艦に1100名あまりの兵員を移乗させた後、処分射撃を待つことなく、自ら鉄底海峡にその姿を消しました。

すっかり役に立たなかった探照灯ではありますが、懸命に開発にあたった富士電機は今も重電業界の雄で、特に地熱発電技術では世界のトップランナー。世界シェアも4割を超えるそうです。

また、コンビニのレジ横で販売されているコーヒーのドリップ・マシンも富士電機の開発になるものだそうです。

 

 

 

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-帝國海軍, 戦艦 海に浮かべる鉄の城
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