巡洋戦艦比叡

迎賓艦『比叡』

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金剛型巡洋戦艦の2番艦として建造された戦艦「比叡」。大東亜戦争ではかなりのお年でしたが、もっとも活躍した戦艦級の一角として海戦史にその名をとどろかせています。

不名誉な噂?

金剛型の2番艦として横須賀海軍工廠で建造された巡洋戦艦比叡。

大正2年、横須賀工廠で艤装中の比叡

大正2年、横須賀工廠で艤装中の比叡

金剛型画像集はこちら

ネームシップ金剛は英国ヴィカース社建造ですから「我が国で初めて建造された超ド級艦」と言う名誉とともに、大正3(1914)年8月4日に竣工、海軍に引き渡されました。

大正4年の比叡 ほぼ完成時の姿です 佐世保にて

大正4年の比叡 ほぼ完成時の姿です
佐世保にて

装甲は多少薄くても、スマートな体型で戦艦並の砲力、巡洋艦の高速を兼ね備え、世界最高峰の実力を持った艦でした。
「金剛」「比叡」と、初めて民間造船所での戦艦建造となった「榛名」「霧島」の4艦での2戦隊は世界中の海軍が注目したモノです。

誕生とともに、栄誉に包まれる事が約束されていたような比叡ですが、最近はどうも不名誉な評判が立っているようです。
近ごろはやり?の「艦これ」なるゲームのキャラ設定で、比叡ちゃんは料理が下手なんだそうです。

実際の戦艦『比叡』の後継艦たる、はるな型護衛艦「ひえい」にしても、先輩の悪評?故か、艦内で出る料理は海自で一番不味いなどと言う噂もあるようです。

比叡ちゃんに掛けられた「あらぬ嫌疑」は、やはり晴らしてあげなければなりませぬ(笑)

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第一次大戦に出撃

「比叡」の引渡しから、遡ること一か月。遠く欧州大陸では「第一次世界大戦」が勃発しておりました。
当初は中欧数ヶ国のちょっとしたゴタゴタで収まるかに思えたこの戦争、列強が次々と情勢を読み誤り、参戦国が次第に増加し、泥沼化してまいります。

海軍のお師匠はん、大英帝国は独逸帝国の潜水艦戦に苦しみ、食料すら満足に運び込めないありさまに。
ついには東のポチに「地中海へ護衛用の艦隊を派遣してくれ」と頼み込むほどに追い詰められていました。

結局、大日本帝国は駆逐艦隊を派遣することでお茶を濁し、陸兵の歩兵要請もあーだこーだ言って「東洋での支配地確保」に邁進してしまいます。

水上機母艦「若宮」

独逸の租借地青島を攻略した水上機母艦「若宮」

欧州での戦闘に海陸問わず介入していたら、日本の歴史は大きく変わっていたでしょうに。
特に「実戦の経験」ってモノは積めるときに積んでおかなければいけません。特に世界の列強が一堂に会している戦場で、「日本兵強し」を印象付ける大チャンスやったのに…。

ともあれ、「比叡」は訓練未了のままに、東シナ海へ出動しました。

幸か不幸か東シナ海での比叡には、戦闘の機会がありませんでした。

しかし、遠く離れた欧州の海では激烈な海戦が繰り広げられ、英独両軍の巡洋戦艦が酷い目にあってしまいました。
1916年(大正5年)6月1日の「ユトランド沖海戦」(大戦期間中最初で最後の英独艦隊の全力・正面決戦)が勃発。
イギリスの巡洋戦艦3隻(クイーン・メリー、インヴィンシブル、インディファティガブル)とドイツ巡洋戦艦1隻(リュッツオウ)が失われたのです。

遠距離から高い角度で落ちてくる巨弾に、巡洋戦艦の(戦艦に比べると)薄い甲板装甲ではなす術がありませんでした。

リュッツォウ

巡洋戦艦リュッツォウ

この第一次大戦の戦訓によって、比叡のような巡洋戦艦の防御は弱過ぎる、との認識が広まりました。装甲を厚くしなければ一線には出せません。

金剛型4姉妹は高速力を犠牲にしてでも、防御を厚くするための改装に取り掛からなければいけません。

しかし、大日本帝国は超弩級戦艦8隻・超弩級巡洋戦艦8隻を基幹とする大艦隊の建造に取り掛かっていまして、とてもすぐには金剛級の改装まで手が回りません。

「比叡」は弱防御のまま、1919年(大正8年)には北支沿岸警備、1920年(大正9年)ロシア領沿岸警備、1922年(大正11年)の青島・大連とセント・ウラジミル警備、1923年(大正12年)の南洋警備・支那沿岸警備、関東大震災の救援物資輸送任務などに投入されています。

練習戦艦へ

何故か、「比叡」は金剛級の改装では一番後回しにされていました。

そんなこんなで昭和4(1929)年になってやっとこさ「比叡」にも工事の順番が回ってきたのでしたが…

そもそも、大正10(1921)年にワシントン海軍軍縮条約が発効して、大型艦が建造できなくなったのが改装の順番が回ってきた「理由」だったのです。

ところが、この昭和4年にはロンドン軍縮条約が成立。これに伴って締約国は戦艦・巡洋戦艦のうちの一隻を「練習戦艦」としなければならない事になってしまいました。

当時の大日本帝國海軍の保有戦艦で、一番古いのは金剛級。

その中で改装工事が一番遅れていて、言わば手つかずの比叡が練習戦艦にされたのは当然と言えば当然でありました。

昭和8年、練習戦艦になった比叡。 4番砲塔がありません

昭和8年、練習戦艦になった比叡。
4番砲塔がありません

工事は昭和7年(1932)12月31日に完了しました。翌年1月1日に「練習戦艦」に類別変更されました。

基準排水量は19500 tに減少しています。
これは条約に規定された「練習戦艦」の条件を守るために、4番砲塔を撤去したり、舷側装甲を撤去(倉庫で保管したようです)した事によります。
しかし、同時に出力(罐)も減らしたので、速力は18ノットに低下してしまっています。

S2 比叡 演習中

昭和2年、演習中の「比叡」

この改装で「比叡」が実戦に出る事は、ほぼ不可能になったわけです。しかし、この事が「比叡」の運命を変えました。

「練習戦艦」である「比叡」は艦隊に所属していないために予定が立てやすく、大艦のために威厳もあり、武装を大幅に撤去しているため、スペースに余裕がありました・・・

『迎賓艦』へ

つまり「比叡」は天皇陛下のお召し艦としてピッタリだったのです。

昭和8(1933)年5月には撤去した4番砲塔の跡に展望台を設け、我ら下々から見ると豪華な専用室をしつらえるなど、御召し艦用?の工事を行って体裁を整えました。

現役艦をお召艦に指定したのでは、とても出来ない芸当です。

お召し艦時代の比叡の艦内御居間

お召し艦時代の比叡の艦内御居間

撤去した4番砲塔跡に造られた展望所

撤去した4番砲塔跡に造られた展望所

「比叡」はこの年の横浜沖大演習観艦式でお召し艦を務めると、昭和10(1935)年には宮崎・鹿児島行幸の際のお召し艦を仰せつかりました。

無事二度の大役を果たすと、さらなる任務が待っていました。

昭和10年4月の満州帝国の愛新覚羅溥儀皇帝陛下の訪日に際し、お迎えに上がることとなったのです。

我が海軍史上初の『迎賓艦』となったのでした。

この間、宮中をはじめとして各界の紳士淑女の比叡来艦がひんぱんで、艦としてはその方がたにパーティー用の食事を提供しなければなりませんでした。

水兵さんや、佐官クラス程度の士官に供するB級グルメなら、「比叡」厨房スタッフも十分に対応していた筈なのですが、パーティー用のメニューとなると、ワケが違いましょう。

「艦これ」などでの『比叡の飯は不味い』と言う話はこの辺りから来てると思われます。

そのため、海軍では特別に都内(当時は東京市ですね)のホテルから洋食のコック長を招き、軍属として調理指導をしてもらった、と言います。

メシは海軍一旨かった

比叡の厨房スタッフはこのコック長の指導を受けられるワケですから、艦内で不通に出される料理もレベルが上がるのが道理。
「不味い」と評判の「比叡のメシ」でありますが、実際には、海軍一の料理の出る艦だったのです。

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ただ、昭和天皇は「比叡」艦上では和食がお好みだったようで、宮中から和食の料理人もお連れになったようです。

画像は比叡艦長からこの人に出された感謝状です。

比叡艦長からの感謝状

比叡艦長からの感謝状

 

迎賓艦比叡の活躍はつづき、昭和11(1936)年の神戸沖特別大演習観艦式、戦艦に復帰(第二次改装)直後には紀元二千六百年特別観艦式(1940)でもお召し艦を務めました。

昭和8年横浜沖大観観式の比叡後楼に天皇旗

昭和8年横浜沖大観観式
比叡の後楼トップに天皇旗が翻る

昭和8年横浜沖大観観式

昭和8年横浜沖大観観式お召し艦比叡が艦列をぬって行く

紀元二千六百年特別観艦式は参加艦艇の数こそ前回に劣りましたが、500機以上の航空機、すべての戦艦、「赤城」「蒼竜」「飛龍」の航空母艦や重巡・軽巡、「雪風」をはじめとする新旧駆逐艦など、大東亜戦争を戦う主力を勢ぞろいさせた帝國海軍、最後の盛儀となったのでありました。

高速戦艦へ

世界情勢は、「迎賓艦比叡」を巻き込んで悪化してまいります。

昭和11(1936)年末のロンドン海軍軍縮条約の期限切れをまって、帝国海軍は「比叡」を戦艦として復活させる事に致しました。

姉・妹たち3艦が2度に分けて行った大改装を、それもマイナスの状態(迎賓艦に改装されている)から一気に行ってしまおう、と言う大工事です。

改装は昭和14(1939)年まで、丸3年もかかったのでした。

4番砲塔を復活させて、武装をリフレッシュして強化するのはもちろんですが、前櫓楼(いわゆる司令塔の部分)は「大和型」のテストとして他の3姉妹とは異なる形にされました。

特に力が注がれたのは俊足を取り戻す事です。

重防御化で太ったカラダをシェイプアップするために、艦尾を延長。カラダが長くなれば、相対的に痩せるってワケですね。

昭和11年撮影の比叡

昭和11年撮影の比叡

罐(ボイラー)はロ号艦本式の重油専焼として出力を増大、主機も艦本式のギヤード・タービンを4基で136000馬力(公試では138000馬力出たそうです)と、新造時の倍近くまでパワーアップいたしました。

あまり他では見ないデータも上げておきましょう。罐+タービンの「機関重量」です。
新造時:4750トン(公試排水量の15.8%)⇒改装後:3005トン(同8.1%)

トン当たりの馬力はなんと3.4倍です。

重油専焼化で軽くなったこともありますが、この間の技術の進歩を思うべしですね。

昭和17年 東京湾で撮影の 比叡

昭和17年 東京湾で撮影の 比叡

それでも目標の30ノットには僅かに及ばず、公試速力は29.7ノットに止まってしまいました。
とは言うものの比叡は堂々たる「高速戦艦」として大東亜戦争に望んだのです。

大東亜戦争

大東亜戦争がはじまると、「比叡」は姉妹たち3艦とともに常に最前線の激戦地を駆け巡ります。

昭和16(1941)年12月8日、国内待機の他の戦艦を横目に、真珠湾攻撃を行う南雲機動部隊を護衛。

ヒトカップ湾での赤城飛行甲板

ヒトカップ湾に集結した南雲機動部隊。赤城飛行甲板より

翌年1月ラバウル空襲、オーストラリアのポート・ダーウィン空襲に同行護衛。

同年2月下旬、ジャワ島南方海域を警戒。米軍駆逐艦「エドサル」を発見し、副砲射撃で撃沈。
コレは大東亜戦争で戦艦が沈めた最初の敵艦の記録です。もっとも、撃沈までは主砲がちっとも当らず、機動部隊の艦爆の手を借りるなど、かなり恥もかいてしまいます。

御大礼特別観艦式で供奉艦比叡

御大礼特別観艦式で供奉艦を務める「比叡」の艦上

インド洋まで遠征してセイロン沖海戦にも参加しました。

ミッドウェイの敗報は機動部隊と離れて聞きました。

そして昭和17(1942)年11月12日、「比叡」は僚艦「霧島」とともに軽巡長良、駆逐艦14隻の大艦隊の旗艦としてガダルカナル島に向かいます。
反攻してきた米海兵隊のヘンダ―ソン飛行場を叩くためでした。

午後11時43分、艦隊は左前方約10,000mの至近に米巡洋艦の艦隊を見つけます。
陸上砲撃用の砲弾を装填して射撃寸前だった比叡には徹甲弾に切り替える時間がありませんでした。

午後11時51分には6000mまで距離が詰まり、「比叡」は探照灯を点灯して米艦隊を照らして散弾のまま主砲射撃を開始しました。

初弾から米巡「アトランタ」に命中弾を記録しましたが、効果は薄く、逆に探照灯めがけて集中攻撃を受けます。
特に艦橋構造物への砲弾が集中し、3斉射する内に50発以上の敵弾を受ける事になってしまいました。

爆撃を回避する赤城

爆撃を回避する「赤城」

それでも比叡の主砲(一斉射撃は指揮系統が寸断されて不可)も機関もダメージはなく、戦闘能力にいささかの衰えもありませんでした。

ところが、比叡の命取りになったのは艦尾付近に受けた一発の命中弾(不発弾が貫通しただけとの説もあり)でした。

この一発で舵取機室と舵取用の電動機室(改装で蒸気から電動に変更)に浸水し、操舵不能になってしまったのです。
私は延長部分と元々の船体の継ぎ目をやられたんじゃないかと思うんですが・・・

この後、比叡は泳ぎの上手い乗組員が海に入って破孔をふさぐなど、懸命な復旧を行いましたが、米軍の攻撃は止まず、ついに放棄され、最後を迎えます。

名艦長西田正雄

比叡の最後は自らキングストン弁を開き、救助に接近していた駆逐艦「雪風」からも処分の魚雷が発射されたのですが、それでもまだ沈まず。
雪風は沈没を見届けぬままに退避しましたから、誰にも知られずにひっそりと海中に没したモノと思われます。

退避した「雪風」には比叡艦長の西田正雄大佐が収容されていました。
西田大佐は兵学校・海大ともにトップクラスで、ココまでも要職を歴任。将来の連合艦隊司令長官間違いなし、と誰もが認める逸材です。

大東亜戦争の戦訓を冷静に見ると、学校秀才が必ずしも戦闘指揮に秀でているワケではないことが判ります。

しかし、「秀才」の西田艦長は「比叡」が損害を受けた時も出来る限りの処置を取ります。

第11戦隊司令部(比叡・霧島で構成、この夜の砲撃指揮)が「回復の見込み無し、放棄」を命じても「損害軽微」と反論、この主張が正しかったことは西田艦長が無理やり比叡から「救助」された後に判明いたします(機関部全滅、と言う報告がガセだったことが判明)。

西田正雄

西田正雄

西田艦長は「艦と運命を共にせん」、としていたのですが、第11戦隊の阿部弘毅司令官の直筆命令もあって退艦。

それなのに、帰還後は予備役編入の懲罰処分を受けてしまいます。山本五十六連合艦隊司令長官らの擁護はあったモノの処分は覆りません。

西田大佐は戦後になっても恨み言は一切語らず。
故郷の龍野で素麺工場に勤務する生活を送ります。

給料の他に年金もあったのでしょうが、戦地の巡礼や靖国への寄付に多くを費やして、大変質素な生活だったそうです。

ただ、たった一人の信頼出来た作家の相良俊輔氏にだけ、それも自らの死期を悟った時に自分の体験を取材させたのです。ソレで残されたのが「怒りの海 - 戦艦比叡・西田艦長の悲劇」と言う作品。

「比叡」は大艦ですし、特に連絡系統に大きなダメージを受けていましたから、「艦長の証言」だってすべての真相を語りつくしている、とは言い切れません(西田艦長が知らないことも多かっただろう、って意味ですよ)。

言い切れませんが、私には艦長の姿と比叡ちゃんの生き延びようとする姿がかぶって見えてしまいます。

 

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-帝國海軍, 戦艦 海に浮かべる鉄の城
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