比叡料理下手

迎賓艦『比叡』

2015/06/22

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不名誉な噂?

金剛型の2番艦として横須賀海軍工廠で建造された巡洋戦艦比叡。

大正2年、横須賀工廠で艤装中の比叡

大正2年、横須賀工廠で艤装中の比叡

金剛型画像集はこちら

ネームシップ金剛は英国ヴィカース社建造ですから「我が国で初めて建造された超ド級艦」と言う名誉とともに、大正3(1914)年8月4日に竣工、海軍に引き渡されました。
フェイス・ブックで議論が展開されています

大正4年の比叡 ほぼ完成時の姿です 佐世保にて

大正4年の比叡 ほぼ完成時の姿です
佐世保にて

装甲は多少薄くても、スマートな体型で戦艦並の砲力、巡洋艦の高速を兼ね備え、世界最高峰の実力を持った艦で、金剛、比叡、榛名霧島の4艦での2戦隊は世界中の海軍が注目したモノです。

誕生とともに、栄誉に包まれる事が約束されていたような比叡ですが、最近はどうも不名誉な評判が立っているようです。
近ごろはやり?の「艦これ」なるゲームのキャラ設定で、比叡は料理が下手なんだそうです。
実際の戦艦『比叡』の後継艦たる、はるな型護衛艦「ひえい」にしても、艦内で出る料理は海自で一番不味いなどと言う噂も良く耳にします。

この点はあとで触れましょう。

第一次大戦に出撃

引渡しからひと月後には第一次大戦の勃発に伴って、東シナ海へ出動しました。
比叡には戦闘の機会がありませんでしたが、遠く離れた欧州の海では激烈な海戦が繰り広げられ、英独両軍の巡洋戦艦が酷い目にあってしまいました。遠距離から高い角度で落ちてくる巨弾になす術がなかったのです。

この第一次大戦の戦訓によって、比叡のような巡洋戦艦の防御は弱過ぎる、との認識が広まりました。装甲を厚くしなければ一線には出せません。
金剛型4姉妹は高速力を犠牲にしてでも、防御を厚くするための改装に取り掛かりました。
これが第一次大改装です。比叡は姉妹の中で一番遅く、昭和4(1929)年に工事を開始しました。

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練習戦艦へ

ところが、ロンドン軍縮条約の成立に伴って戦艦・巡洋戦艦の内一隻は「練習戦艦」としなければならない事になってしまいました。
当時の大日本帝國海軍の保有戦艦で一番古いのが金剛型。
その中で改装工事が一番遅れていて、言わば手つかずの比叡が練習戦艦にされたのは当然と言えば当然かもしれません。

昭和8年、練習戦艦になった比叡。 4番砲塔がありません

昭和8年、練習戦艦になった比叡。
4番砲塔がありません

工事は昭和7年(1932)12月31日に完了。翌年1月1日に練習戦艦に類別変更されました。
基準排水量は19,500 tに減少。これは4番砲塔を撤去したり、舷側装甲を撤去(倉庫で保管したようです)した事によります。
しかし、同時に出力(罐)も減らしたので、速力は18ノットに低下してしまっています。

実戦に出る事はほぼ不可能になったわけですが、この事が比叡の運命を変えます。
練習戦艦の比叡は艦隊に所属していないために予定が立てやすく、大艦のために威厳もあり、武装を大幅に撤去しているため、スペースに余裕があり・・・

『迎賓艦』へ

つまり天皇陛下のお召し艦としてピッタリだったのです。

昭和8(1933)年5月には撤去した4番砲塔の跡に展望台を設け、豪華な専用室をしつらえるなど、御召し艦用?の工事を行って体裁を整えました。現役艦を指定してはとても出来ない芸当です。

お召し艦時代の比叡の艦内御居間

お召し艦時代の比叡の艦内御居間

撤去した4番砲塔跡に造られた展望所

撤去した4番砲塔跡に造られた展望所

「比叡」はこの年の横浜沖大演習観艦式でお召し艦を務めると、昭和10(1935)年には宮崎・鹿児島行幸の際のお召し艦を仰せつかりました。
無事2度の大役を果たすと、さらなる任務が待っていました。
昭和10年4月の満州帝国の愛新覚羅溥儀皇帝の訪日に際し、お迎えに上がることとなったのです。我が海軍史上初の迎賓『艦』となったのでした。

この間、宮中をはじめとして各界の紳士淑女の来艦がひんぱんで、その方がたにパーティー用の食事を提供しなければなりませんでした。

そのため、海軍では特別に都内(当時は東京市ですね)のホテルから洋食のコック長を招き、軍属として調理指導をしてもらった、と言います。

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メシは海軍一旨かった

「艦これ」などでの『比叡の飯は不味い』と言う話はこの辺りから来てるんでしょう。実際には、海軍一の料理の出る艦だったのです。
ただ、昭和天皇は比叡艦上では和食がお好みだったようで、宮中から和食の料理人もお連れになったようです。画像はこの人に出された感謝状です。

比叡艦長からの感謝状

比叡艦長からの感謝状

迎賓艦比叡の活躍はつづき、昭和11(1936)年の神戸沖特別大演習観艦式、戦艦に復帰(第二次改装)直後には紀元二千六百年特別観艦式(1940)でもお召し艦を務めました。

昭和8年横浜沖大観観式の比叡後楼に天皇旗

昭和8年横浜沖大観観式
比叡の後楼トップに天皇旗が翻る

昭和8年横浜沖大観観式

昭和8年横浜沖大観観式お召し艦比叡が艦列をぬって行く

紀元二千六百年特別観艦式は参加艦艇の数こそ前回に劣りましたが、500機以上の航空機、すべての戦艦、赤城、蒼竜、飛龍の航空母艦や重巡・軽巡、雪風をはじめとする新旧駆逐艦など、大東亜戦争を戦う主力を勢ぞろいさせた帝國海軍、最後の盛儀となったのでありました。

高速戦艦へ

世界情勢の変化は、迎賓艦比叡をも巻き込んで悪化してまいります。
昭和11(1936)年末のロンドン海軍軍縮条約切れをまって、海軍は比叡を戦艦として復活させる事にしたのです。

姉・妹が2度に分けて行った大改装を、それもマイナスの状態から一気に行ってしまおう、と言う大工事で昭和14(1939)年まで、丸3年もかかったのでした。
4番砲塔を復活させて、武装をリフレッシュして強化するのはもちろんですが、前櫓楼(いわゆる司令塔の部分)は大和型のテストとして他の3姉妹とは異なる形にされました。

特に力が注がれたのは俊足を取り戻す事です。
重防御化で太ったカラダをシェイプアップするために、艦尾を延長。
罐(ボイラー)はロ号艦本式の重油専焼として出力を増大、主機も艦本式のギヤード・タービンを4基で136,000馬力(公試では138,000馬力出たそうです)と、新造時の倍近くまでパワーアップいたしました。
あまり他では見ないデータを上げておきましょう。罐+タービンの「機関重量」です。
新造時:4,750トン(公試排水量の15,8%)⇒第二次改装後:3,005トン(同8,1%)
トン当たりの馬力はなんと3,4倍です。
重油専焼化もありますが、この間の技術の進歩を思うべしですね。

昭和17年 東京湾で撮影の 比叡

昭和17年 東京湾で撮影の 比叡

それでも目標の30ノットには僅かに及ばず、公試速力は29,7ノットに止まってしまいました。
とは言うものの比叡は堂々たる「高速戦艦」として大東亜戦争に望んだのです。

大東亜戦争

大東亜戦争がはじまると、姉妹たち3艦とともに常に最前線の激戦地を駆け巡ります。

昭和16(1941)年12月8日、真珠湾攻撃を行う南雲機動部隊を護衛。
翌年1月ラバウル空襲、オーストラリアのポート・ダーウィン空襲に同行護衛。

同年2月下旬、ジャワ島南方海域を警戒。米軍駆逐艦「エドサル」を発見し、副砲射撃で撃沈。これは大東亜戦争で戦艦が沈めた最初の敵艦の記録です。もっとも、撃沈までは主砲がちっとも当らず、機動部隊の艦爆の手を借りるなど、かなり恥もかいています。

インド洋まで遠征してセイロン沖海戦にも参加しました。

ミッドウェイの敗報は機動部隊と離れて聞きました。
そして1942年11月12日、比叡は霧島とともに軽巡長良、駆逐艦14隻の大艦隊の旗艦としてガダルカナル島に向かいます。
反攻してきた米海兵隊のヘンダ―ソン飛行場を叩くためでした。

午後11時43分、艦隊は左前方約10,000mの至近に米巡洋艦艦隊を見つけます。
陸上砲撃用の砲弾を装填して射撃寸前だった比叡には徹甲弾に切り替える時間がありませんでした。
午後11時51分には6,000mまで距離が詰まり、比叡は探照灯を点灯して米艦隊を照らして散弾のまま主砲射撃を開始しました。

初弾から米巡「アトランタ」に命中弾を記録しましたが、効果は薄く、逆に探照灯めがけて集中攻撃を受けます。特に艦橋構造物への砲弾が集中し、3斉射する内に50発以上の敵弾を受ける事になってしまいました。

それでも比叡の主砲(一斉射撃は指揮系統が寸断されて不可)も機関もダメージはなく、戦闘能力にいささかの衰えもありませんでした。

ところが、比叡の命取りになったのは艦尾付近に受けた一発の命中弾(不発弾が貫通しただけとの説も)でした。
この一発で舵取機室と舵取用の電動機室(改装で蒸気から電動に変更)に浸水し、操舵不能になってしまったのです。私は延長部分と元々の船体の継ぎ目をやられたんじゃないかと思うんですが・・・

この後、比叡は泳ぎの上手い乗組員が海に入って破孔をふさぐなど、懸命な復旧を行いましたが、米軍の攻撃は止まず、ついに放棄されました。

この間の事情は、艦長を含め記録する者の立場によってかなり錯綜していています。
たびたびのお召し艦の栄誉に輝いた迎賓艦「比叡」に対する愛情はあまり感じられず、個人的には大変腹立たしい事を書き添えたいと思います。

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-帝國海軍, 戦艦 海に浮かべる鉄の城
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