大艦巨砲主義イラスト

金剛型戦艦「榛名」 責任感の所在

2015/10/30

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初めて民間造船所で建造

巡洋戦艦「榛名」は明治44(1911)年4月、金剛級の3番艦として神戸川崎造船所(後の川崎重工)に注文されました。

民間造船所で主力艦を建造するのは、海軍始まって以来初めてのことでした。
金剛級戦艦これくしょん(画像集)

川崎造船所は大いに発奮してドイ ツから大型ガントリークレーンを導入し、さらにイギリス製の艤装用クレーンを買い入れるなどの大型投資で「榛名」建造に備えていました。

明治45(1911)年3月、三菱長崎造船所の4番艦霧島と同時に起工。

工事は2つの造船所で競うように進んでいきます。
しかし、一つの問題がこの建造競争には隠れていました。

それは機関の問題。

世界の趨勢は「タービン機関」の採用に向かっていたのですが、わが国では民間造船所でタービンを扱った所はどこもなかったのです。

そもそもタービン駆動で主力艦を動かす、と言うのは有名なイギリス戦艦「ドレッドノート」で世界で初めて実行されたものです。
日本では金剛型の前型の巡洋戦艦「伊吹」で実験されたのが最初で、世界的にも英国を除けばもっとも早い採用だったのです。

まだまだ国産とはいかず外国製のライセンス生産でお茶を濁している段階ではありましたが、

「世界最先端の高性能機械を、民間造船所で世界最強の巡洋戦艦に装備する」

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と言う使命感と高揚でどちらの造船所も熱気に包まれ、工程はどんどん進みました。

大正3(1914)年、機関(罐+タービン)を試運転する準備が整ってきました。

ところが榛名の川崎造船所で小さな故障が見つかったのです。
テストの予定が6日だけ遅れてしまいました。
三菱長崎造船所は予定通りテストを実施、成功に終わっています。

これに責任を感じたのでしょうか?

川崎造船所の機関(ブラウン・カーチスのタービンをライセンス生産)の最高責任者であった造機工作部長の篠田恒太郎(しのだ・こうたろう)が自殺したのです。

篠田の死から半年後、巡洋戦艦「榛名」は、遅れることなく同型艦「霧島」と同時に竣工しました。
大正4(1915)年4月15日のことでありました。

榛名は折から勃発した第一次世界大戦で支那・北支・北方(ロシア)方面などへの警備活動に出撃しました。

方位盤射撃照準装置

この時期に重要なのは、英海軍の試作品だった「方位盤射撃照準装置」を帝國海軍ではじめて搭載したことです。

ウィキペディアより引いて見ると

「これは全砲門で同一目標を攻撃する際、一括して指向・発射を行う、一種のリモートコントロールシステムである。」

とありますが、とんでもない。これはただのコントローラーじゃなく、機械式のコンピューターを複雑に組み込んだ、射撃照準計算機兼一元発砲装置なんです。

決して射撃術が上手いとは言えなかった榛名ですが、方位盤射撃照準装置を導入した一年後には成績が大いに向上。有効性を確認してこの装置は主力艦に標準装備されるようになります。

2度の大改装

ユトランド海戦の戦訓から、水平防御の強化が必要と判断され、大正13年から工事に入りました。
小さな改良はたびたびおこなわれましたが、これが榛名の第一次改装と呼ばれる大掛かりな工事で、金剛級4姉妹のトップを切ったものでした。

日本戦艦の特徴であるパゴダ・マストに換えられたのもこの時で、これも日本の戦艦としては初です。

2枚の画像(榛名じゃないですけど)で艦橋構造物の変化をご確認ください。
画像はクリックで拡大します。

T2金剛英にて公試に向け航海中

完成時の金剛級

S5霧島 第一次改装完成

第一次改装後
画像は霧島

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この改装で速力が低下し金剛4姉妹は巡洋戦艦から戦艦へと類別変更されています。

続いて昭和8(1933)年9月、海軍軍縮条約が失効することを前提にして大規模な近代化改装が行われることになりました。
今回も4姉妹では榛名が最初でした。この第二次近代化改装には丸1年をかけ、動力部の刷新(タービンと罐の換装)で出力を新造時の倍にし、船尾を延長(相対的に細身になる)して速力30ノットを超える高速戦艦に生まれ変わりました。

上部構造物も近代化改装が行われ、砲戦距離延長に伴って後部艦橋を高くしたりしています。

大東亜戦争へ

大東亜戦争は緒戦から金剛以下の姉妹と行動を共にし、陸軍のマレー上陸作戦支援を皮切りに、フィリピン上陸作戦・蘭印(インドネシア)攻略作戦などを支援しました。
この間、英国東洋艦隊(プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス基幹)を迎撃すべく行動しましたが、日本軍航空隊に先を越されてしまいました。

ミッドウェーでは南雲機動部隊の護衛に当たり、一撃を逃れた飛龍を護りましたが、榛名も至近弾数発(米機は直撃と報告)を受けました。

続くガダルカナルの攻防では金剛とともにヘンダーソン飛行場に殴りこみをかける奮迅の働きを見せますが、滑走路完全破壊にまでは至りませんでした。
そんな中、第三次ソロモン海戦で「比叡」「霧島」が相次いで撃沈され、金剛級4姉妹は半分になってしまいます。

マリアナ沖海戦では空母艦隊が壊滅してしまいますが、榛名もついに艦尾に直撃弾を受けて、以降は自慢の高速を発揮する事が出来なくなりました。

続くレイテ沖海戦では、栗田中将指揮の第一遊撃部隊として参加。
サマール島沖で米護衛空母部隊に遭遇する、と言う千載一遇のチャンスを得ます。
海戦では他の艦艇とともに米艦隊を追撃した榛名ですが、速力が出ません。

ついに榛名の巨砲は米空母を捉えきれず、姉の「金剛」のように勇名を轟かせるには至りませんでした。
その金剛も潜水艦の雷撃で沈みました。

姉妹を全て失った榛名も座礁事故を起こし、修理のために内地に廻航されて、燃料もなく呉に繋留されたままとなります。

それでも対空戦闘を続けた榛名ですが、7月も終わり近く、20発以上の直撃弾を受けてついに大破・着底。そのまま敗戦を迎えました。

江田島で爆撃される榛名

江田島で爆撃される榛名

2次にわたる世界大戦を戦いぬいた高速戦艦の淋し過ぎる最後でした。

榛名は昭和3(1928)年の御大礼特別観艦式でお召し艦を務めました。
昭和天皇のご即位を記念したもので、参加艦艇は諸外国の船も含めて186隻に上り、飛行機も多数登場、我が国史上最大の観艦式でした。

御大礼特別大観艦式のお召艦榛名

御大礼特別大観艦式のお召艦榛名

さらに、同年の熊本行幸にもお召し艦を務めました。

このお帰りの際、県民有志が天皇をお慰めしようと海岸に松明を並べてお見送りをしました。
正式なものではなく、供奉する人たちも榛名の乗組員も知らなかったのです。

しかし、昭和天皇はこれをお目にされて人々の気持ちを察せられたのでしょう。
お一人で甲板へとお出ましになり、直立不動で海岸に向けて敬礼を返されていたそうです。

この昭和3年が「榛名」の絶頂期だったのかも知れません。

先帝陛下の敬礼と川崎造船所・篠田恒太郎の自決。
栄光と責任感に彩られた、わが国を代表する「巡洋戦艦」だったと思います。

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-帝國海軍, 戦艦 海に浮かべる鉄の城
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