竹槍VSB29

竹槍事件の真相~売国侮日新聞の伝統~

2018/07/29

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昭和19年2月23日の朝の事です。配達された「東京日日(現在の毎日)新聞」の朝刊を広げた大日本帝国の国民は、我が目を疑ってしまいます。

竹槍では間に合わぬ

この日の侮日新聞(以下、面倒なのでこの表記にします)の一面には驚愕の大見出しが踊っていました。一面トップこそ、「首相・閣議で一大勇猛心強調」という記事だったのですが、その下に2つの関連記事が掲載されていたのです。

「勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た」

「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」

竹槍事件毎日紙面の画像

竹槍事件毎日紙面の画像

 

という挑発的な見出しに続き、記事本文でも
「日本は建国以来最大の難局を迎えており、大和民族は存亡の危機に立たされている。」
「大東亜戦争の勝敗は太平洋上で決せられるものであり、敵が日本本土沿岸に侵攻して来てからでは手遅れである。」
として、昭和17年より展開されている竹槍などの国民訓練をおちょくるかのような文言が並びます。

この記事のキモは下にひいた部分だったのですが、どれほどの国民が「海洋」の部分に着目できたでしょうか。

天山雷装

「海洋」航空機 天山

 

「大東亜戦争の勝敗は海洋航空兵力の増強にかかっており、敵の航空兵力に対して竹槍で対抗することはできない。」

記事には陥落してしまったマーシャル諸島・ギルバート諸島から日本本土や台湾・フィリピンへの米軍の予想侵攻路まで添えられていたのです。

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一面のトップ記事は上にも書いたように、東條首相が閣議で「非常時宣言」を発表した記事が載っていました。その直下に置かれた「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」という記事は東條首相に真っ向から挑戦したものと思われます。

敗戦後「竹槍事件」として有名になる記事であります。

なぜ検閲に引っかからなかったのか

この記事は侮日新聞社政経部および黒潮会(海軍省記者クラブ)の主任記者である新名丈夫記者が執筆したモノです。

新名丈夫

新名丈夫

大東亜戦争の戦局が悪化の一途を辿るこの時期、新聞報道は「軍部」の検閲を受けていました。「軍部」にとって戦局を正直に国民に伝えることはいろいろな意味で都合が悪いと思われていたのです。
軍事上の機密もありますしねぇ。

一方で、新聞記者は従軍記者として軍隊とともに最前線にまで出ますから、戦争の実態も(一部ではありますが)良く分かっています。

本来的に捏造を事とする新聞記者ふぜいに、従軍を認めなければ良いのですが、苦戦を続ける兵士たちの士気高揚を考えると「活躍が国内で報じられる」ということは大きかったのでしょう。
一方で寝る間を惜しんで増産に励む国民も、前線の勇戦敢闘ぶりを知りたい気持ちは大きかったと思います。

竹槍訓練カラー(映画から)

竹槍訓練(映画から)

この間の微妙なバランスを取っていたのが「検閲」で、「報道の自由の侵害」だとか「国民の知る権利が云々」といったような問題ではありません。
今だって、例えば海自の護衛艦を取材に行っても肝心なところは見せてくれませんよね。

閑話休題。この検閲がけっこういい加減だった証拠の一つに、例外規定があります。
「各新聞社の陸海軍担当キャップが書いた記事はノーチェック」という「軍部」と新聞各社の紳士協定です。責任者なら、報じても良い物、悪い物の区別もつくだろうから検閲はしません、って事ですね。

新名丈夫は侮日の海軍担当キャップですから、この紳士協定の対象です。海軍と侮日新聞と新名丈夫はこの仕組みを巧妙に利用して「竹槍記事」を掲載したのです。
海軍も一枚噛んでいた、というハッキリした証拠はありませんが、まあ状況から明白だと思います。刑事裁判じゃねえんだから、状況証拠だけで十分でしょう。

東條首相の反応

この記事を知った東條英機首相は激怒しました。すぐにお膝元の陸軍に指示し、これを受けた陸軍報道部は、毎日新聞に処分を要求。

勲章いっぱいの東條英樹

勲章いっぱいの東條英樹

 

また、首相としての権限で内務省を動かし、掲載された朝刊の発売・頒布禁止と差し押さえ処分を通達したのです。しかしながら東條と内務省の動きは僅かに遅く、問題の朝刊は配達されてしまったのでした。

これでは東條の怒りはおさまりません。内閣情報局の次長村田五郎に対して「侮日を廃刊にしろ」と指示します。

これに対し村田は「紙の配給を停止しちゃえば廃刊はカンタンですよ。」と安請け合いの姿勢を見せながらも、「日本の世論を代表している新聞が“あの程度の記事”を書いて廃刊になれば、世論の物議を醸し、国外からも笑われまっせ」と、東條を諫めたのであります。

「軍部」が大嫌いで、東條英機は独裁者だとdisるパヨクの諸兄よ、よく聞いて頂きたい。
日本はそんなに悪くないけど、戦前・戦中はちょっと考え方がね、とか思ってる私の同志?の皆さまも真っ新な気持ちで読んで頂きたいと思います。

東條はこの村田の諫めを了としたのであります。
よろしいか?「大日本帝国の独裁者」が「世論の物議を醸す」事を慮(おもんぱか)り「外国に笑われる」事を恐れて、紳士協定違反の新聞社を潰しちゃう事を諦めたんですよ。

この事は東條や「軍部」が大東亜戦争中と言えども世論を大いに考慮せざるを得なかったこと、すなわち独裁権力などみじんも持っていなかった事を明確に示しています。

侮日新聞は調子に乗りました。責任者はカタチばかりの処分をしたのですが、新名を退社させる事はありませんでした。それどころか、新名に対して編集局長賞を与えるなどして「竹槍報道」を称賛したのです。

東條の逆襲

「究極の能吏」である東條首相(褒めてるんだぞ)はこの事態に、怒りが理性を越えてしまったようです。新名に対して召集を命じたのです。
記事から8日後の事でありました。明らかな「懲罰召集」です、表面的に見ればですけど。

と申しますのは新名は極度の近眼で、徴兵検査でも甲種合格など思いもよらぬレベル。さらに新名が徴兵検査を受けたのは大正時代のことで、戦局の押し詰まったこの頃でもそんな老兵は一人として召集されていません。新名はこの年39歳。

と言っても、国家の命令・国民の義務であります。新名は郷里の高松へ行き、二等兵として歩兵第12連隊(丸亀の重機関銃中隊)に入営せざるを得ませんでした。

ココまで見ると東條、あるいは政府、「軍部」でも構いませんけど、の言論弾圧に見えますよね。
もうお気づきの方が多いでしょうけれど、この記事のキモは「大東亜戦争の勝敗は海洋航空兵力の増強にかかっており」です。航空兵力ではなくて「海洋」航空兵力なんです。

要は自ら望んで対米戦を始めてみたものの、航空機も艦船も損害が激増してにっちもさっちも行かなくなった海軍が、不足してきた物資を分捕ろうと企んだ「世論戦」がこの「竹槍記事」だったのです。

細川護貞と前妻

細川護貞と前妻(近衛文麿の娘/この人との子供が護熙)

 

特ダネを放ちたい侮日・新名と海軍の思惑が一致し、陸軍をdisる記事を検閲フリーパスの紳士協定を悪用して掲載した、唾棄すべき「侮日」記事なのであります。

その証拠に、高松宮の御用掛を務めていた細川護貞(細川護煕の父親)が、東條批判で有名な自身の日記に「是ハ記者ノ非常識ニシテ、東条ノ激怒モ亦宜ナリ」と書いているほどなのです。

海軍、調子に乗る

しかし大日本帝国海軍は自分たちの方が正義だと思い込んで(?)いますから陸軍・東條に反撃しくさるのです。曰く
「大正の兵隊をたった1人取るのはどういうわけか」

この海軍の必要のない抗議は、とんでもない悲劇を四国の人たちに振りかける事になるのであります。新名が兵隊に取られてしまったのは海軍の「対策」が遅すぎただけの事なのに、とばっちりは侮日の愛読者にも及んだのでした。

すなわち、抗議を受けた陸軍では「それじゃあ」とばかりに四国全域から大正時代に徴兵検査を受けた「第二国民兵役」から250人を丸亀連隊に招集したのです。
第二国民兵役者は徴兵検査丙種合格の人で45歳まで。丙種合格とは、失礼な言い方ながら「不健康なところが幾つもあって、兵隊としては役に立たんよ」と言われた事を意味しています。

第11師団(善通寺)師団本部建物

第11師団(善通寺)師団本部建物

 

この250名は丸亀連隊ぐるみ硫黄島の増援に送られ、全員戦死してしまいます。本来、召集されるワケの無い(本土決戦でもやれば別ですよ)人たちが、「新名招集」の不自然さを隠す目的で玉砕なさってしまったのです。

一方で新名はちゃんと「成算」を持っていたようです。
新名は日支事変のころには陸軍の従軍記者をしていました。それも、第十一師団(初代師団長は乃木希典)すなわち新名が入営した丸亀の重機中隊が所属していた善通寺の師団なのです。

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92式重機関銃の射撃

92式重機関銃の射撃

 

案の定この中隊の中隊長は新名の顔見知りでした。そのためもあってか、新名は中隊内で特別扱いを受け続けました。
つらい筈の訓練もラクな役回りだけをやり続けて、僅か3か月後に招集解除されてしまうのでありました。

もちろん、帳尻あわせで招集された250人の「老兵」にはそのような特別扱いは無く、招集解除もありませんでした。

新名が陸軍を3か月で除隊になると海軍はさっそく新名を報道班員とし、フィリピンに派遣してしまいました。新名はフィリピンで幾多の特攻隊員を見送ります。
こんなトンでも記者に見送られた英霊に、私どもはお詫びの術もありません。

昭和19.11.25笠置隊?が空母イントレピットに突入

昭和19.11.25笠置隊?が空母イントレピットに突入

特攻隊を見送り過ぎてついに飛行機が無くなってしまう(大げさに言ってるんだからね)と、海軍は新名に「内地出張」を依頼します。
「内地で戦争の真相を講演してほしい」という理由でした。従軍記者の仕事ではありませんわね。

新名はこのまま海軍の「従軍記者」として陸軍からの再招集を逃れ、のうのうと敗戦を迎えるのであります。

戦後の捏造

戦後になって新名は侮日新聞を退職し、数々のノンフィクションを執筆することになります。

「政治」「宇宙兵器」ともに光文社、「軍備全廃時代」「昭和政治秘史」三一書房(改題・再編集して「戦争の引鉄」新人物往来社)、「現代の戦争」ともに理論社、「昭和史追跡」新人物往来社(改題・再編集して「あなたが知らない太平洋戦争の裏話」新人物往来社)、「太平洋戦争」新人物往来社、「海軍戦争検討会議記録 : 太平洋戦争開戦の経緯」毎日新聞社、「沈黙の提督井上成美真実を語る」新人物往来社などです。

このほかに週刊誌への寄稿もあるのですが、その中に「東条と斗う七人の士(さむらい)」(昭和38年)という駄文がありました。

私は実際にこの文章を読んでいないのですが、新名が「懲罰招集」されたときの経験をメインに、陸軍内の(東條への)抵抗勢力の活躍ぶりを描いた、とされています。
つまりは自分が招集されたときに、かばってくれた人たちをヒーローのように描いた「妄想捏造短編小説」なのです。

新名は自分が「懲罰招集」された時に特別待遇を受けられたのは、善通寺師団などに東條に反感を持つ士官たちが居て、自分をかばってくれたから、として特に7名をあげて称賛したのです。

重機関銃(重量約30キロ)を担いで付近の山に登る訓練がありましたが、「新名はこの場で、付近の状況偵察をせよ」
「適当な時間が来たら、兵舎に帰って休め!これが命令である。」

銃剣術の訓練でも「新名は見学!木陰へ移動!」
厩(トイレ)掃除を始めると「機関銃の手入れをせよ」(武器の手入れの方がラク)などなどをやっている内に3か月が過ぎ、新名は海軍の保護下へ逃げ込む事に成功した、それは「東条と斗う七人の士(さむらい)」のおかげだと言うスジ。

しかし、良く考えてみて下さい。この時期に末端の将校風情が、総理大臣と陸軍大臣と参謀総長を兼職する陸軍大将が「殺したいなあ」と言っている兵隊を庇えるものか?
まして、たった3ヶ月で招集解除に出来るものか?

そんな事は出来る訳がないのです。証拠がないので、想像で申し上げるしかありませんが、東條は侮日を廃刊できずに怒ったものの、ほんの数刻で理性を取り戻したと思われます。

時系列で見ると、新名が「招集」されるまで8日も要していますよね。私はこの間、東條は海軍が新名を「前線」へ連れて行くのを待ってたんだと思います。とことん腹を立てさせてくれた物の、相手はたかが侮日新聞の記者に過ぎません。

目の前から居なくなればそれで良かった筈です。

七人の侍?

新名の言う「7人」の中に香川進という中尉が居ました。どうやら新名の大のお気に入りだったようです。
新名は著作の中で触れていないようなので、知らなかったと思われますが香川進はそこそこ有名な歌人だったのです。

日常の風景を短く切り取って定型に落とし込む歌人と、嘘捏造をだらだらと書き散らす新聞記者では随分な違いですが、同じ文筆を業とするものとして、新名が香川を気に入ったらしく「七人のサムライ」の中に含めているのです。

香川進の歌碑(桃陵公園)

香川進の歌碑(桃陵公園)

この記事の事を発表後になって知った(知った経緯は不明)香川進は激怒しました。

香川の著書『体験的昭和短歌史』(短歌新聞社)によりますと、香川は学徒兵教育を担当する中隊長で、同時に報道担当将校、動員主座を務めていたようです。

この香川に、新名は「元農林大臣の内田信也を経由し、茨城県知事を通じて巧みに接触してきた」そうです。

香川はハッキリとは書いていませんが、有力者を通じて教育担当士官に接触する「新兵」が何を要求しやがったか、想像が付きませんか?

私が「新名はちゃんと『成算』を持っていた」と申し上げるのも、この点を重視しているからです。


つまり、新名と侮日新聞は「陸軍&東條dis記事」を紙面に載せても、この程度の処分で乗り切れると見切っていました。

海軍の「従軍記者指名」が遅れて招集されたものの、其処でもちゃんと救いの手は用意されていましたし、東條の方でもたかが捏造記者にそこまで拘ってはいなかったのでしょう。

それを調子に乗って新名が、自分の記事は正真正銘「軍部独裁への抵抗」だった、「七人のサムライ」に庇ってもらったので助かった、と戦後になってまたまた捏造したのがこの記事「七人のサムライ」なのです。

だからこそ香川はこの記事を知って激怒したのです。
香川は「この映画のタイトルまがいの派手な見出しが気に食わなかった。だから(略)かかわりのある資料は焼き棄てた」と言っています。

捏造ではあっても、記事中で香川はヒーロー扱いして貰っているのです。自分をヨイショしてくれても許せないくらい酷い捏造だ、ということが判るではありませんか。

戦前・戦中の日本人をなめたらあかんぞ!

香川はさらに、
「あの戦争の最中、東条と闘うなど、とても考えられることではなく、まず自身を絞首台の上に運んでからの『最後の一声』くらいでは可能であったかもしれない幻想世界のことであった」
と正直に告白しています。

新名の捏造嘘つきここに極まれり、ではありませんか。

新名は大マスゴミの庇護を受け、自身もノンフィクション作家として一目置かれていました。対して香川はただの市井の人。捏造がばれる筈は無かったのですが。

どっこい香川は歌人として僅かながらも自身の主張を開陳する「場」を持っていました。それを今私たちが発見して「真相」が理解できるようになっているわけです。

まさに天網恢恢疎にして漏らさず。

ただ私が心配でならぬのは、このような糞記事によって「誤解」が生じていることです。
つい先日もフェイスブックのグループで
我がご先祖はB29を竹槍で墜とせると信じていた
と断言する御仁が出現しています。

論拠を尋ねても、もちろん答えられません。おおかた、この新名の記事を真に受けたパヨクの「歴史書」あたりから読み取ったものでしょう。

「世界一優秀な民族」の我がご先祖が、そんな物理の裏付けの無い事を信じる筈がないではありませんか。

竹槍訓練のイメージ

竹槍訓練のイメージ

その証拠を一つ上げて、この記事を終わることにいたしましょう。

2008年8月12日付のトンキン(東京)新聞「発言」コーナーへの投稿です。(文章が整い過ぎてますから、ヤラセの可能性はあります)

投稿者は千葉県千葉市の無職の女性で90歳、タイトルが「終戦直前の竹槍訓練」です。

(前略) あれは昭和20年7月末日、村役場から緊急の回覧板がきた。
「アメリカ兵が進撃してきたとき、身を守るために竹槍訓練をする。各戸1名小学校[国民学校]へ参集のこと」。
男はみな戦場へ行き、婦人、老人は農作業に必死だ。娘たちは「女子挺身隊」となって軍需工場へ出向し、中学生は勤労動員で町の工場へ行っていた。

訓練に出るのは私のような子連れか、よぼよぼの老人か大柄な小学生だ。私も7ヶ月の息子を背負って手ぬぐいの鉢巻を締め、青竹の槍を担いで丘の上の小学校へと急ぐ。
校庭についてみると指導者はなんと豆腐屋の元さんだ。古い軍服を着て威張っている。

「整列。気を付け。1.2.3歩進んで突けェ!」「エィエィオー」。
説明も何もない。「突け!」一筋である。

「徒歩の米兵が素手で縦一列に並んで来るべかね」「こんな山の中へ何用あってくるだろうね」・・・。

「しゃべってないで、もっと突け!」と元さん。老人はせき込んで座ってしまう。赤ん坊は暑さとひもじさで泣き出す。真っすぐ並んで立っているのは土手のヒマワリだけ。
数日後に広島に原爆が落ちるなど夢にも思わず、8月15日に終戦だなどとつゆ知らず、最初で最後のエィエィオーを繰り返した。
(後略)

この訓練のどこにB29を落とそうとする要素があるんですかね。

訓練は陸戦しか想定していません。って言うか、米軍に相まみえた時、この女性たちがせめて自決する時間を稼ぐための「訓練」にしか思えないんですけどね。

これが「竹槍訓練」の実態であり、竹槍でB29を墜とすなんて、どこをどうひっくり返しても出ては来ません。

軍隊・陸軍をdisるのはまだ良い。ご先祖を無知識の体制順応だけの民族のように語るのは許せません。

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