重爆「飛竜」

陸軍雷撃隊その2~初陣~

2017/07/01

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わざわざ海軍の指揮下に入ってでも、敵輸送船団を雷撃したい陸軍航空隊。飛行98戦隊の「最初の師匠」761航空隊は戦果をあげられずに壊滅してしまいましたが…

T攻撃部隊

一方の飛行7戦隊は浜松で部隊再編を行っていましたが、昭和19年7月22日、ようやく海軍の航空隊に編入されました。

翌日、連合艦隊司令長官以下の各艦隊首脳が大本営海軍部に集まり、図上演習が行われました。この席上、源田実中佐がかねて構想・準備していた「T攻撃部隊」を実戦部隊首脳に説明したのです。

「T部隊は本土・台湾・比島間を作戦区域とし、エセックス級空母10隻の撃沈・破を目標とする。戦法は台風を利用して荒天での攻撃を本旨とし、機会を得られないときは夜間攻撃を主眼とする」
「索敵は電探、攻撃はT金物(水中で魚雷の頭部から金属製の凧を開き、敵艦の艦底で爆発させる装置)を重視する」
「気象観測船・無人観測船・雷雲測定器を用意し、専属の気象班を設ける」
「8月末までに錬成を完了する」

源田サーカス

源田サーカス
曲芸師を航空戦のリーダーにしてしまったのが大失敗

 

この「T部隊」は762空が中心となり、指揮官も762空司令の久野修三大佐。偵察隊として二式大艇の801空や瑞雲の偵察301飛行隊、護衛の戦闘701飛行隊(紫電)・戦闘203飛行隊(零戦)など、航空艦隊の枠を超えた精鋭の参加を得ていますが、肝心の攻撃隊は陸軍の飛行98戦隊と飛行7戦隊(どちらも「飛竜」)+攻撃708飛行隊(一式陸攻)・攻撃262飛行隊(天山)などの陸海混成となっていました。

2式輸送機型イラスト

二式大艇(これは輸送機タイプ)

飛行98戦隊の訓練はT攻撃部隊の編成にともなって夜間に重点を置くようになり、激しさを増していました。

車懸かり戦法

洋上航法もままならなかった「陸軍雷撃隊」も長井彊大尉の熱烈な指導で雷撃行動が板についてきていました。
98戦隊は鹿屋を飛び立つと大分で訓練用魚雷をぶら下げ、内海西部で「鳳翔」「摂津」を目標に雷撃機動を繰り返しました。単機だけではなく、照明(直協)機との共同訓練を実施できるほどに練度も向上していました。

この向上ぶりを見て、長井大尉は攻撃708飛行隊と飛行98戦隊用に新戦法を考案し、訓練に取り入れました。
この戦法は7~8機の直協(照明)隊が先行して敵艦隊を補足、触接を保ちつつ攻撃(雷撃)隊を誘導します。攻撃隊が到着すると直協隊は照明弾や吊光弾を投下し、攻撃隊の方は敵艦隊の周囲を旋回してチャンスを得た機から1機ずつ突っ込んで雷撃する、というモノです。

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鳥海から見た吊光弾

「鳥海」艦上から見た吊光弾

良く知られた事ですが、雷撃時は海面上すれすれに機動します。パイロットからは、反対舷から突っ込んで来る味方機の姿は見えませんから、発射した後、退避行動で味方機と接触する恐れがあります。このため、敵艦左舷からの突入は高度50メートル、右舷からは高度30メートルを原則として衝突を回避するルールも定められています。
いやいや突入高度決めといても、魚雷投下したら高度上がっちゃうだろ!その上がり具合を抑える方(右舷か左舷か)を決めとかないと事故は防げんぞ、と言うツッコミは我慢してやってくださいね。

電探の信頼性は

98戦隊、7戦隊の猛訓練が続く9月1日。第二航空艦隊はT攻撃部隊の総合教練を計画し、連合艦隊の命令として5日から8日にかけて南九州を中心に実施することになりました。
内海(瀬戸内海のことです)西部で再建中の小沢機動艦隊からも標的艦(なんと「秋月」を出してます)を協力させるなど、全海軍あげての期待を込めた教練だったと言えます。T攻撃部隊は既述のように幾つもの航空艦隊から抽出された航空隊で構成されますから、これが初めての合同訓練でもあったのです。

しかしながら、その結果は期待を大きく裏切る物でした。事後の研究会で幾つもの問題点が指摘されるのですが、特に大きな問題は次のような点でした。

銀河に装備された電探のアンテナ

銀河に装備された電探のアンテナ

 

1.飛行艇(2式大艇)のH6(三式空六号無線電信機/電探=レーダー)が信頼性に欠ける。
2.「天山」の電探(での敵艦)捕捉は6機中2機が訓練不足。
3.陸攻の電探捕捉は5機中2機が成功、目標艦の直上を通過できたのは1機。
4.98戦隊は訓練不足、電探使用は不良。

対して、目標となった艦は早期に攻撃隊の接近を電探で探知していました。
優秀な米艦のレーダーによらなくても、航空機は目標艦から電探で捕捉され続けたのに、空中からは容易には艦艇を発見出来なかったのです。

航空機搭載用の電探の信頼性の低さは明らかで、さらに基地と基地、基地と飛行機間の通信も不備が露呈してしまいました。

もっと悲しい事には、協力する立場の第三航空艦隊が次のような電文を発信しています。

百式司偵

百式司偵

《3AF機密第152006;T作戦参加可能兵力左ノ通。陸攻32、飛行艇9、偵察機彩雲5(内3ハ百式に換フルコトヲ得)、彗星4》

お判りでしょうか?ハッキリ言うと、《(前略)海軍オリジナルの偵察機「彩雲」は稼働率が悪いんで、半分以上(5機中3機)は陸軍から借りてる「百式司令部偵察機」に換えた方が良いですよ(後略)》と書いてあるんです。

電探の探知性能が低いのはある程度まで訓練で何とかなるかも知れませんが、信頼性が低いのはいかんともし難いモノがあります。機体の稼働率も低くっては、いくら錬成しても飛べなければ戦果は得られないのです。

錬度は上がり…

それでも98戦隊は猛訓練を続け、海軍側の教育担当者に「海軍の若手など及びもつかない上達ぶり」と言わしめるほどになります。通信も海軍式に「3文字略号」で事足りるようになって行きます。もっとも有名なのが「トトト」ですね。
敵艦の速力をウェーキの出来具合で測ったり、魚雷が敵艦に何秒で達するかを一瞬で判断したり、海軍のベテランをも凌ぐ技量をごく短期間で身に付けて行ったのでした。
わざわざ空母「鳳翔」に、それも艦橋に乗艦させてもらい、艦長から操舵の手ほどきを受けたりしています。もちろん艦船の動きを体得するため。

敗戦時の鳳翔

敗戦時の「鳳翔」

 

猛訓練ゆえに事故も起こりました。8月9日には豊後水道上空で照明担当の柴崎辛生中尉機が照明弾の機内発火によって爆発炎上しています。

陸軍雷撃隊が技量を上げる中、海軍も負けてはいません。T部隊構想で専属の気象班を設けることは先述しました。攻撃708飛行隊の榎本留次郎氏の証言が残っています。
「時期は覚えていないが、台風の中に入り進路を変える実験のために爆弾を投下しようとしたが、船がいる心配があったので結局落とさなかった」というモノです。

これは裏も取れそうで、「日本のお天気」(大野義輝著)と言う本に
「戦時中、鹿屋飛行場から定期的に天候偵察に飛び立った一式陸上攻撃機三機が、昭和19年秋に、沖縄の南方洋上で台風の中に入って、見事に台風眼を観測した」
と言う記述があるそうです。

おそらく世界初の快挙でしょう、台風の目に航空機で突入・観測。

台湾沖航空戦を語るとき(陸軍雷撃隊に限らず)搭乗員の技量不足は避けて通れません。電脳大本営でも、あえて否定はしません。全く否定するほどの史料がありません。
しかし、末端の搭乗員の方たちが少なくとも必死の努力を続けていたことはご理解いただけるのではないでしょうか?

台湾沖、搭乗員未熟説はその戦果報告の過大に由来しています。電脳大本営ではこの戦果報告について「インテリジェンスとインフォメーション」で考察しています。

搭乗員たちの技量は十分だったのではないか?なんて考えるのは私だけですかね。米軍の迎撃能力を見くびり、せっかく錬成した優秀搭乗員を、間違った攻撃目標に向かわせて消耗してしまったのが真相ではないのか?

勤労動員

飛行98戦隊・飛行7戦隊の猛訓練が続く昭和19年9月1日、鹿屋基地に華やかな一団が訪れました。
鹿屋高女(現・鹿屋高校)・高山高女(高山高校)・志布志高女(志布志高校)・末吉高女(末吉高校)の女子生徒たち100名です。

高等女学校は現在の中学生から高校2年生まで、13歳から17歳の女子生徒が学んでいますが、この頃は3年生以上は「勤労動員」があって、授業は無かったようです。3年生は農繁期の託児所の手伝いをしたり奉仕作業(掩体壕を作っている男子生徒への食事つくり)をしたりなんですが、上級生の選抜組が鹿屋基地にやって来たのです。

基地内での仕事は交換手がメインだったそうですが、チャフ(電探紙と呼んでいました)や日の丸の鉢巻を造るのも彼女たちに託された仕事。

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鹿屋基地で勤労奉仕の女子高生と情報関係者

鹿屋基地で勤労奉仕の女子高生と情報関係者

 

制服のトップスはセーラー服のままで、ボトムスはモンペに履き替えていましたが、16,7歳の乙女の存在は陸軍雷撃隊に限らず、不休で訓練を続ける航空兵たちにどれほど勇気と元気を与えた事でしょうか。

この記事の少しあとになりますが、特攻隊員たちは直接彼女たちのところへ「出撃用」の日の丸の鉢巻を取りに行ったようです。高女生の何人かが、手記を残してくれています。
隊員たちは一様に「これから行きます。」と明るい笑顔で挨拶して敬礼し、彼女たちのもとを去って行ったそうです。
知覧とは違い、鹿屋では女性の滑走路での出撃見送りは禁止されていましたから、鉢巻の受け渡しが隊員にとっては最後のシャバとの接触だったのでしょう。

隊員たちと高女生の個人的な接触は禁じられていたそうですが、密かにマスコットを作って渡した事例もいくつかあるようです。

年齢からすると、女性を知らない者が大半だったはず。せめて鉢巻の受け渡しの時に、搭乗員の指は女生徒の手に触れたんだろうか?そんな想像をせずにはおられません。

鹿屋高等女学校の修学旅行風景

鹿屋高等女学校の修学旅行風景(昭和15年)

 

彼女たちは夜中に起きて航空弁当を作ったそうです。98戦隊と7戦隊は昼間は飛ばず夜襲訓練に重きを置いていたのですから、時間的にどうかな?とも思うのですが、記憶の中では「早朝から訓練をする兵隊さん」になっているのかも知れません。
高女生たちは「航空弁当の豪華さには驚きましたが、命がけで戦ってくれる人の為に、心を込めて作らなければなりません」と言う文章を残してくれています。

陸軍雷撃隊に話を戻さねばいけませんね。

十・十沖縄空襲

マリアナで大日本帝国海軍の攻撃を一蹴したアメリカ軍は、フィリピン奪還を目指してきました。

昭和19年10月10日。アメリカ第三艦隊の第38任務部隊の艦載機が沖縄本島と南西諸島を襲いました。「十・十空襲」であります。

フィリピン攻略戦で障害となりそうな日本の航空基地を一つひとつ潰していく作戦の一環でした。この部隊は正規空母9、改造空母8、戦艦5等からなり、搭載機は1000機超。他に支援部隊の護衛空母11、給油艦23などもいる大機動部隊。開戦時の連合艦隊全力をもってしても対抗できないんじゃ?と思わせる陣容であります。

十・十空襲下の那覇市街

十・十空襲下の那覇市街

 

早朝から二五航空戦隊(在沖縄)は「敵艦上機、沖縄本島ニ来襲中」と発信、根拠地隊も「0935、第二次空襲敵艦上機100機以上ト交戦中」との悲鳴のごとき通信。

沖縄本島の北飛行場からは独立飛行23中隊の「3式戦・飛燕」12機(稼働数不明)が迎撃に飛び立ちましたが、圧倒的な数の前に木村信大尉以下ほとんどが撃墜されてしまいました。

この時点ではまだ我が軍は敵艦隊の所在を捕捉できずにいましたが、北方(第三航空艦隊担当)から基地航空隊を呼び寄せ、攻撃態勢を整えました。

その間にも攻撃406飛行隊(出水基地)の「銀河」4機が沖縄南東洋上の索敵に向かったのですが、次々と連絡が絶えてしまいます。
この事態に、鹿屋から第二航空艦隊偵察3飛行隊の「二式艦上偵察機(「彗星」の先行採用型)」が2機偵察に向かい、小山力中尉機が1520に都井岬の南400カイリに空母群を発見。
続いて1533、豊島忠継飛曹長機が都井岬南方357カイリに「敵機動部隊発見」を報じました。
この発見は同一の艦隊か別の艦隊かはっきりしませんが、日本軍は2個の艦隊と認識し(両者の報告の空母の数が違っていたため?)、T攻撃部隊に出動命令が下りました。

爆弾倉にも増槽を2式艦偵

爆弾倉にも増槽を付けた2式艦偵

しかし2000の第一段索敵、2200の第二段索敵と発進させた偵察隊は米艦隊を発見できず。これは米艦隊が夜の間は南方に下がるべく運動していたためだと思われます。

決戦前日、索敵機の奮闘

翌10月11日、黎明(0400)から攻撃708飛行隊の「一式陸攻」4機、やや遅れて戦闘804飛行隊の「月光」3機が索敵に向かい、その後も続々と各飛行隊から索敵機が出ます。

飛び立つと南方へ南方へと範囲を広げる「移動哨戒」の方法を取り、索敵後は台湾へ着陸させる「何が何でも見つけてやる!」の気迫あふれる索敵です。

B29迎撃のため上昇する月光(B29機内より撮影)

B29迎撃のため上昇する月光(B29機内より撮影)

1000過ぎ、攻撃708飛行隊の佐藤雄三中尉機との連絡が途絶。続いて佐藤機の南側の空域担当の真木正明上飛曹機から、「1105、米機動部隊発見」の発電がありましたが、連絡が取れなくなってしまいました。

この2機に近接した空域を担当していた攻撃703飛行隊の山崎惣男中尉は、独断でコースを変更し、ついにアメリカ機動部隊を石垣島南東320カイリ(真木機の担当空域)で発見したのでした。

九七式飛行艇

九七式飛行艇

この夜から12日の早朝にかけ、901空の九七式大艇隊(3機)は夜間索敵を行い、電探でアメリカ機動部隊を補足、夜間戦闘機との交戦を続けつつ触接を保ちました。

この位置確定で、ついに「陸軍雷撃隊」を含むT攻撃部隊に「T部隊ハ速ニ沖縄方面ニ進出、戦機ヲ捕捉シ攻撃ヲ決行スヘシ」と命令が下りました。

発進

10月12日、夜が明けるとアメリカ軍は台湾に対して延べ1000機を越える大空襲を敢行。T攻撃部隊はその報に接し、出撃準備を終えながらも発進を待ちます。
T攻撃部隊の狙いである薄暮から夜間に敵艦隊上空に達したかったからです。

1030、鹿屋から「彩雲」3機と「銀河」が索敵に出発、その後「銀河」「天山」など90機が続々と発進、「銀河」隊は速度が速すぎて1640に戦場近くに到達して40分ほども旋回して夕暮れを待っていました。

銀河

「銀河」

再び進撃を開始して1840には敵艦隊上空に達したのですが、照明弾が低く垂れこめた雲に遮られてしまって敵艦隊が視認できません。1850には編隊を解き、各個に索敵をしても発見に至らず、1930に台湾へ引き上げてしまいました。

続いて戦場に到着したのは攻撃708飛行隊の「一式陸攻」15機でしたが、夜戦型のグラマンF6Fの迎撃を受け、13機未帰還の大損害を被ってしまいます。

F6F-3N_1943撮影右翼のレドームに注意

F6F夜戦型(1943撮影)
右翼のレドームに注意

「一式陸攻」装備の攻撃703飛行隊は視界不良をものともせず正規空母を攻撃。しかしながら敵夜戦の迎撃は激しく、澤田衛大尉機は雷撃寸前で火を吹き、そのまま体当たりする壮烈な最後を遂げてしまいます(江川飛行隊長/少佐の報告)。

陸軍雷撃隊、戦場へ

「陸軍雷撃隊」の飛行98戦隊も、もちろん出撃しています。直協(照明)隊8機と雷撃隊14機の計22機が、練成途上の飛行7戦隊員の見送りを受けて(「帽ふれ」で送るのは海軍です)鹿屋を1330に出撃。

98戦隊の各機には攻撃708飛行隊の(海軍の)搭乗員が副操または偵察員として乗り込み、「陸軍雷撃隊」の初舞台を支援していました。

陸軍雷撃隊は石垣島の南西100カイリで電探索敵を開始しましたが、戦場周辺は雲量9~10、雲高5~600メートルの悪条件で、ところどころで雨が降っている状況でした。

飛行74戦隊の「飛竜」垂直尾翼のマークに注意

飛行74戦隊の「飛竜」
垂直尾翼最後方マークは74を意匠化したもの

 

2150には直協隊が「我戦場ニ到着」と発信したものの、照明弾投下直後に夜戦に撃墜されてしまいました。アメリカ側では「飛竜」の情報が不足していたようで、「識別不能の双発機を撃墜」「月光ではない日本軍の双発機を撃墜」と言う報告になっています。

雷撃隊は2315頃に戦場海域に到着、早速「照明ハジメ」を信号したのですが、せっかくの照明弾を利用しきれず目標をとらえきれませんでした。
陸軍雷撃隊の初陣はこうして失敗に終わってしまいました。此の夜の損害は直協隊が6機、雷撃隊が3機の計9機未帰還。
夜間(それも曇天・雨天)の洋上作戦行動がいかに困難なものか、思い知らされるだけの結果となってしまったのでした。

そして肩を落とす陸軍搭乗員たちを、さらなる衝撃的なニュースが待っていたのでありました。

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