重爆「飛竜」

陸軍雷撃隊その1~誕生~

2017/07/01

スポンサーリンク

「魚雷を下さい」と言う悲痛とも思える言葉から、「陸軍雷撃隊」は実現に向けて動き始めました。昭和18年の秋のこと、言葉を発したのは陸軍参謀本部の浦茂少佐、受け止めたのは海軍航空本部雷撃課長の愛甲文雄中佐でありました。

海軍指揮下に入れてでも

陸軍の航空隊は大陸での航空作戦を本務としていて、洋上で敵艦船を攻撃する必要などありませんでした。昭和18年、陸軍は南東方面(ソロモン・ニューギニア)で連合軍の反攻に直面することになります。

離島防衛になるココでの戦闘は、敵の進攻を海上で阻止することが最善の必勝策。しかし、本来その任を担当するべき海軍は敗退を重ね、特に航空隊と駆逐艦の損耗は目を覆わんばかりの惨状を呈していました。

爆撃を回避する白雪

爆撃を回避する駆逐艦「白雪」

それでも海軍は「決戦志向」を改めず、船団攻撃よりも派手に見える艦隊攻撃を優先する傾向があったのです。

海軍の戦力を頼れないと悟った陸軍は、自前の艦船攻撃部隊を編成する構想に着手したのでした。

愛甲中佐は大きく理解を示したようですが、異なるお役所の壁は厚く「海軍の使う魚雷が足らん(そのような史実はありません)のに陸軍にやれるか!」(塚原二四三航空本部長/中将)と言った反対の声が大きく、陸海軍間の協議が整うのはこの年の末までかかってしまいました。

塚原二四三

塚原二四三

 

協議の内容は、
①陸軍の四個飛行戦隊を海軍の第一航空艦隊の761海軍航空隊に編入して雷撃と洋上航法のノウハウを伝授
②訓練に使用する機材(九六陸攻)と訓練用魚雷は海軍が負担
③実戦用の重爆撃機「キー67」は陸軍の負担で改修、陸軍の希望する「14試艦攻」100機の供与は昭和19年の12月頃(結局実現してません)を予定、
と言ったところ。

96式陸攻

96式陸攻

スポンサーリンク

この後見て行きますが、現場ではけっこう和気あいあい(もちろん真剣かつ寸暇を惜しんで)と「海軍式訓練」に取り組んだように見えますが、特に海軍上層部が「我が軍主導」に強くこだわっていた様子が判ります。

それでも陸軍は自前の雷撃隊が欲しかったのです。

使用機は「飛龍」

実際の訓練そして出撃・戦いぶりを見る前に、陸軍雷撃隊が使った「重爆撃機」を見ておくことにしましょう。上で実戦用の「キー67」と書いていますが、これが傑作重爆撃機「飛竜」となるのは皆さん良くご存じかと思います。

百式重爆撃機

百式重爆撃機「呑龍」

 

「飛竜」の誕生は昭和14年に遡ります。この年、陸軍は三菱重工に対して運動性が優秀で大量生産にも適した双発爆撃機の研究を指示したのです。この時は一〇〇式重爆「呑龍」の制式審査が進行中だったので、後継重爆と言う意味合いでしょう。
前任が就役する前から?って思いますが、戦雲が漂って武器の進歩が極端に早くなっている時。特に現在のパソコン関連の進歩なみのスピードで性能の上がっていた航空機ですから、まあこんな物でしょう。

ただ、ここで注意しておくべきはまだ「内示」の段階であって、昭和15年3月6日の軍需審議会で「昭和15年陸軍航空兵器研究方針」(これ以降は「昭和15年研究方針」と書きます)が決定されるんですが、ココで初めて「キー67」が陸軍の書類に出てきたってことです(沢渡の調べた限りでは)。

飛行74戦隊の「飛竜」

飛行74戦隊の「飛竜」

 

「研究方針」は陸軍フリークの方たちもあまり注目されないみたいですが、ほぼ3年おきに決定されてるようで、昭和15年の前は昭和12年。ここで開発決定された機種が凄いんですよ。
一式戦「隼」・二式単戦「鍾馗」・二式複戦「屠龍」・一〇〇式司偵・九九双軽・一〇〇式重爆「呑龍」・そして九九襲撃/軍偵。大東亜戦争前半で陸軍航空隊が主力とした機体が網羅されてるでしょ?

つまり、陸軍は「昭和15年研究方針」で開発を開始した機体で大東亜戦争を勝ち抜くつもりだった、と言えると思います。ざっと機種を見てみましょうか。

キー60…重単座戦闘機・キー61…軽単座戦闘機(のちの三式戦「飛燕」)・キー62…軽単座戦闘機・キー63…重単座戦闘機・キー64…重単座戦闘機・
キー65…襲撃機・キー66…軽爆撃機・キー67…重爆撃機(のちの四式重爆撃機「飛龍」)・キー68…遠距離爆撃機・キー69…爆撃掩護機・キー70…司令部偵察(戦略偵察)機・キ71…軍偵兼襲撃機・キー72…直協偵察機

戦闘機から偵察機までの第一線軍用機を一斉に更新するつもりですね、たった3年で。戦争が無ければ絶対にありえない(笑)。こんな所から「陸軍の方が戦争したがってた!」なんて論を建てる方が居たりして。

開発が成功するとは限らないし、武器の開発・採用・転換訓練には時間がかかりますから、これで当然なんですよ。

シュトルモビーク(イリューシンil2)

シュトルモビーク(イリューシンil2)

軽・重ともに複数開発を目指す戦闘機はちょっと置いときまして。キー65襲撃機(双発)は敵の機甲部隊を攻撃するのに適した、シュトルモビークやJu87みたいな機種。キー66は急降下爆撃能力のある双発軽爆撃機、キー67が高速双発重爆撃機、戦略爆撃機のキー68(四発)。軍偵(戦術偵察)と共用できる単発襲撃機キー71。直協機キー72はFi156シュトルヒみたいな機体を目指したみたいですね。

スポンサーリンク

フィーゼラーFi156

フィーゼラーFi156

爆撃機重視が良く分かるラインアップじゃないですか?

キー67「飛竜」は事前研究の成果もあって、昭和15年9月には早くも試作指示が出されます。しかし、意欲的な「昭和15年研究方針」の他の機種は次々と没。これは開発失敗と言うよりも、元々の「方針」が画期的な性能を求めるのではなく、ちょっとした手直し程度で出来ちゃう機体ばかりだったため。
いざ開戦となると「それ位の性能なら今のままで良いじゃん」となってしまったのです。キー68に至っては海軍の一三試大攻(深山)をそのまま採用してやろうとしてた位ですからね。

深山

深山

「飛竜」にしても、実は一式陸攻を作り上げた三菱に事前研究を命じていたところがミソでして。三菱も良く判っていて、一式陸攻のノウハウを思いっきりキー68に注ぎ込んだのでありました。

そのかいあって?「飛竜」は「同期」が次々と開発中止になる中、実大模型審査などを経て昭和17年末には試作1号機が完成したのであります。
試作審査の結果は速度や燃料搭載量の不足などが指摘されたのですが、改修で修正。最終的に期待以上の性能を発揮し昭和19年8月に制式採用されることができました(生産着手は19年3月から)。

桜花を抱いた一式陸攻

桜花を抱いた一式陸攻

さらに三菱はその経験を活かし、要求された以上の性能を「飛竜」に付与しています。航続距離、運動性能など、自主的に陸軍の予想以上の水準でまとめています。この辺り、良い機体が出来る見本ですよね。技術者には勝手にやらせた方が結果が付いてきやすいモノなんです。

こうして「飛竜」はアクロバット飛行も可能、と言われるほどの軽快な運動性能を持った重爆としてデビューするのであります。

「飛竜」は量産開始間もない昭和19年前半で見ると、飛行98戦隊と7戦隊に集中的に配備されており、明らかに雷撃機(海軍式に言うと攻撃機)としての使用が優先されてたと思われます。

訓練開始

陸軍が雷撃を学ばせるために選んだのは飛行第7戦隊と飛行第98戦隊でした。
98戦隊は九七式重爆を装備してビルマからインドのカルカッタまで足を延ばした歴戦部隊。昭和18年半ば頃から「将来は爆撃だけじゃダメ、海軍の指揮下で雷撃をやるんだ」と隊内で噂になっていた、と語る元隊員の方もいらっしゃるんですが時期的にどうなんでしょうね?

内地への帰還命令が出るのは昭和19年1月でした。「盆と正月が一緒にきたようなうれしさ」を感じつつ、部隊はニューギニアから2月6日に浜松(陸軍重爆の揺籃の地)に到着します。

戦隊は浜松で連戦に疲れ切った隊員を転編入し、戦隊長も高橋太郎少佐に交代。高橋少佐はわざわざ参謀本部に呼び出されて辞令を交付されています。

高橋少佐は「1月末、生まれて初めて参謀本部の門をくぐった(スーパーエリートコースの軍人以外はこんなもんで、高橋少佐もこれが最初で最後です)。奥まった一室に通されてみて本部に呼びつけられた理由をやっと納得した。」と語り残されています。

高橋少佐に与えられた時間は、「戦局の進展に遅れぬように」と僅か数か月でした。戦隊は2月初旬から761空の待つ海軍鹿屋基地へと移動を開始します。2月10日頃にはほぼ移動を完了し、早速九七式重爆を使って海軍式の訓練を始めたのでした。761空側では真珠湾以来の歴戦の勇士、長井彊(ながい・つよし)海軍大尉を指導係に任命して、陸軍雷撃隊の育成に当たることになりました。

この時点では98戦隊は准士官以上44名、下士官兵173名、計217名。実戦経験豊富で、飛行時間1000時間を超えるものがゴロゴロいる有力部隊でしたが、海軍式訓練には面食らったところもあるようです。

何しろ疲れて眠るためのハンモックさえ、だれも吊ったことがありませんから。ロープの結び方や解き方から海軍さんに教えて貰い、吊っては見たもののピンとしすぎたり、ブランコみたいになったりしている内に「甲板掃除」などと言う号令がかかったり。

敗戦時の鳳翔

敗戦時の「鳳翔」

761空の戦時日誌によれば、
2月13日;九七重爆12機定着、同夜間定着。一式陸攻14機「鳳翔」夜間擬襲
2月14日;一式陸攻4機「鳳翔」夜間擬襲、1機・触接機、1機・照明機
2月15日;一式陸攻6機「鳳翔」夜間擬襲
2月18日;九七重爆8機薄暮定着
となっており「海軍生活」を楽しみながらも、連日の猛訓練を受けている様子がうかがえます。
九七重爆では雷撃行動はとれず、98戦隊員たちは一式陸攻に便乗して雷撃機動を体験しています。雷撃後の艦橋すれすれに抜けて行く退避行動には誰もがキモを冷やしてしまったようです。

762空開隊

昭和19年2月17日と18日、大日本帝国海軍の一大根拠地であるトラック島が米軍機動部隊の奇襲を受けます。いや、奇襲と言うのはちょっと違いますね。だって、連合艦隊司令部は攻撃を事前に察知、主力艦だけ連れて逃げちゃってるんですから。

トラック大空襲

トラック大空襲

この空襲による大損害を受け、761空はテニアン島への進出を命じられます。「陸軍雷撃隊」はまだまだ錬成不足で、指導係の長井大尉ともども居残り。
長井大尉は新編成の762空(司令:柴田文三大佐)の飛行隊長となり、引き続き「陸軍雷撃隊」98戦隊の育成に当たることになります。

761空は鹿屋を出発すると横須賀航空隊で魚雷を搭載、第一航空艦隊司令部も同乗させてテニアン島へ前進、2月21日に将旗を掲げることとなりました(この時テニアン進出したのは第一陣の40機)。

到着翌日にはマリアナ諸島に来襲した敵機動部隊を発見し、3日間連続で夜間雷撃に出動するのですが戦果は全く上がりませんでした(航空機は6機を撃墜)。逆に艦隊上空で21機を喪失し、敵の爆撃により地上で15機を喪失して第一陣は壊滅してしまったのです。

761空の飛行隊長布留川泉大尉機(操縦奥村豊中尉)の発信した電文が知られています。

20:34「敵見ユ、90°260浬」
20:55「海上闇夜ノ為、攻撃困難」
21:30「攻撃目標発見」

この電文を最後にアメリカ機動部隊に突入したのだと思われますが、アメリカ艦隊に我が軍とは比較にならぬ精度のレーダーとVT信管が存在するなど、布留川大尉には知る由も無い事でありました。

こうして「陸軍雷撃隊」の師匠筋の761空は大きな戦果をあげることなく、壊滅してしまいました。これは強力な迎撃能力を持つ機動部隊を狙ったがため。しかもテニアン空襲を受けての「報復戦」の色合いが強い、場当たり的な采配によるものではないでしょうか?

輸送船団覆滅が悲願の「陸軍雷撃隊」と、新たな師匠の762空は強大なアメリカ艦隊に対して戦果を上げられるのでしょうか?
陸軍雷撃隊その2へ続きます。

 

スポンサーリンク

-人物, 人物, 帝國海軍, 帝國陸軍, 航空機, 航空機