零と隼

帝国軍用機の開発2~陸軍の場合~

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前回は海軍が航空技術廠(航空廠)を設置して予算を掛けて航空機開発に精を出していたお話でありました。その「航空廠」(一般的には「空技廠」と呼ばれることが多いですね)は役に立ったり邪魔になったりだったことも。

陸軍は何をしていたんだ?

では、この間に相方の陸軍はどのような航空機の開発方針だったのでしょうか?

陸軍は何にもしていませんでした。そもそも前編でも書きましたように、陸軍の航空機への期待が海軍ほどではなかった事が大きいとは思いますが。

陸軍は自分の技術力に自信が無かったのか、航空機の研究の大部分と設計・試作のすべてを民間の企業や研究機関に任せっきりだったのです。
ただ陸軍は海軍と違って、お金が無いぶんだけ悪だくみ(笑)も巧妙でありまして。

飛燕イラスト

「飛燕」イラスト

 

大日本帝国陸軍は外部の航空関係の研究機関を取り込むこととセットで、民間航空会社を非常時に軍事目的に動員しようとしていたのです。

大日本帝国の民間航空事業は1920年代初めから定期輸送が始まっています。大正11(1922)年の6月に「日本航空輸送研究所(ANAの遠いご先祖)」が運航した徳島ー高松間の週3往復が「初の定期便」だと言われています。

愛知6試夜偵

愛知六試夜偵

使用機は海軍払い下げの水上機で、もう少し後には「夜偵(六試小型夜間偵察飛行艇)」が払い下げられています。儂、こういう形が大好き(笑)
日本航空輸送研究所に続いて「東西定期航空会(朝日チョーニチ新聞設立)」が東京ー大阪便を開始。
ドル箱を持って行きますよね、売国新聞のくせに。
川西機械製作所の「日本航空(今のJALではないぞ)」が大阪ー福岡便を運航しています。

陸軍立川飛行場の東西定期航空会の格納庫

陸軍立川飛行場にあった「東西定期航空会」の格納庫

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当時の東京ー大阪は昭和5年に運航が始まった国鉄(現JR)の特急「燕」で8時間20分、航空機なら2時間30分でした。ただ、羽田に飛行場があったわけではありません。
東京なら立川の陸軍飛行場まで行かなければなりませんでしたので、合計すると4時間以上かかってしまいました。

さらに、料金は「燕」の一等車で24円18銭で飛行機は30円。「燕」の3等なら8円6銭ですから、飛行機はなかなか選択してもらえません。
もちろん、飛行機は安全性や定時制でも大きく見劣りしますから、まだまだ物見遊山かせいぜいが今でいう「ガジェット好き」の道楽に近い移動手段でありました。

羽田飛行場が出来て、都心からのアクセスが飛躍的に良くなった昭和初期に至っても、航空機による年間輸送客数は一万二千人。一日当たり30人ほどというありさまでありました。一日30人はどこかの一社ではなくて、国内の全航空会社を併せての数字であります。

満洲事変

そんな折の昭和6(1931)年に満洲事変が勃発いたします。

お断りしておきますが「満洲」というのは清国の支配階層たる女真族の故地でありまして、決して「漢族」の土地ではありません。これ以前の支那大陸の歴史において、漢族支配の王朝が安定的に領有したことはありません。

それが清国衰退から滅亡のドサクサに紛れて、漢人が「侵略」していたモノです。
そこに大日本帝国がお節介を焼いて女真の人たちに戻すのが是か非か?は議論のあるところでしょうが、「Chinaに対する侵略の嚆矢である」なんぞは議論にすらなりませぬ。

エアガールの機内サービス

エアガールの機内サービス

イカン、飛行機の話だった(;^_^A

このとき、関東軍は事変勃発後直ちに「日本航空輸送」の大連支所に対して航空機の徴発を命ずるのです。
大連支所から連絡を受けた日本航空輸送の本社と、本社から相談を受けた逓信省航空局(郵便を輸送するって事からなんでしょうか?この当時、民間航空行政を仕切っていたのは逓信省でした)は大連支所に対して徴発を辞退するように命じます。

しかし、この「辞退」は関東軍の容認するところとはなりませんでした。
関東軍は日本航空輸送の航空機をパイロットごと徴用して、兵員や軍需物資の「特殊輸送」にこき使ったのであります。

日本航空輸送の航空機とパイロットたちは関東軍の要求を見事にこなし、満洲は独立へと大きく前進するのであります。

奉天市街で満洲国の国旗が宣伝されている

建国間もなく、奉天市街で満洲国の国旗が翻る

 

この時点では、まだ陸軍中央(変な表現ではありますが、他の表現法を思い付きませぬ)と関東軍の関係は良好ですから(この文章全体が変ですが、雰囲気はお判りいただけるかと)、中央は「民間機による特殊輸送が有事に有効である!」との認識を持つに至るワケであります。

なお、「徴発」は明治15年太政官布告43号の徴発令(関東州および南満州鉄道付属地徴発規程)によるもので完全に合法、かつ対価も支払われます。

統制派の

さて当時の陸軍は派閥争いの真っ最中でありまして、もちろん皇道派vs統制派なんですが、「皇道」とか「統制」という名称には意味はほぼありません。
ここでは、後に勝利する「統制派」の方が航空機って言うか、航空行政に強い関心を持っていたって事だけご理解いただけば宜しいかと存じます。

昭和10年の1月(だと思われる)統制派の「対内国策要綱案に関する研究案」(「木戸幸一日記」に出てくるんですよね)に「航空及び防空」って項目があるんです。

木戸幸一

木戸幸一

ここで統制派が主張したのは、内閣直属の「航空院」を創設して民間航空事業と航空技術研究を指導・統制しよう!っていう事なんであります。

満州事変の際の逓信省や日本航空輸送の対応がこの提言の根底にあるのは、私にも判ります。「航空院」を創設したら逓信省航空局は廃止!ってんですから、判りやすい事この上なしです。

また「航空技術実験所」を新設して、「軍事以外」の航空技術の研究・実験・指導・普及に当たる、としています。それに伴い、東京帝大航空研究所(航研)の研究施設をすべて「航空技術実験所」へ移管する、としております。

どうも陸軍は東大航研の研究内容が学術研究に偏重していると感じていたみたいですね。それは実際に陸軍の見立てどうりで、そのことは有名な長距離実験機「航研機」を見るとよく判ります。
民間で経済的に量産することなどは、これっぽっちも考えられていません。
「実験機」ですから当たり前っちゃあ当たり前なんですけどね。

航建機イラスト

航建機イラスト

 

陸軍って言うか、統制派の立派なところは「学術偏重を改めて軍用機を研究しろ!」とか言わなかった所です。

もし左系の人がこれをお読みくださっているのなら、ぜひ認識を改めて下さい。

陸軍は航空院や航空技術実験所を新設して、民間航空機製造会社に対して技術の指導や普及が行える態勢を目指していたのです。海軍が自前の研究機関に金をかけ、自分のための軍用機の開発の為にだけ使った事に注意しておくべきですね。

もちろん、陸軍だって航空戦力の強化を狙っていた事は海軍と違いがありません。
陸軍の
「業界全体の技術レベルの向上を加速し、そのことで防空力を強化しよう」
という考え方の方が真っ当で効果的であることは、その後の戦闘機開発の陸海格差を考えると良く判りますよね。

この後、このような構想は幾種類か提案(ってか部内限り・派閥内限りの妄想に毛が生えた程度のモノも含めて)されています。陸軍内部の構想に留まっていたこれらの提案が日の目を見ることはなさそうだったのでありますが。

2.26以降

不思議なことに、陸軍の叛乱(ごく一部、という事になっています)である2.26事件の後、陸軍の政治への発言力がスケールアップしてしまいます。

野中四郎2.26の中心人物

2.26の中心人物の一人、野中四郎

 

その前から、総理大臣が変わるか内閣が改造されるたびに、陸軍は首相に対していろいろな要求を突きつけるのが伝統のようになっていました(ちょっとヒダリ君的に表現しちゃったぞ。陸軍をほめ過ぎだからバランスを取ったんだな)。

2.26をきっかけに、陸軍の要求には航空行政に関するモノも含まれるようになってまいります。
昭和11年の広田弘毅内閣では「民間航空行政を統一」することを要求。これは当時の世論(新聞記事などから推定)を鑑みるに「航空省」の創設を暗に要求してるんじゃないか?と思われます。

林銑十郎

林銑十郎

翌年の林銑十郎内閣の成立時には「逓信省航空局」を廃止して航空省を新設するように要求、更に翌年の第一次近衛文麿内閣にも航空省+「中央技術研究所」を要求しています。

こうした陸軍の航空行政への容喙は、逓信省航空局としては歓迎すべき点もありました。陸軍のバックアップによって、民間の航空輸送は徐々にではありますが拡大し、皆さんお好きなCA(儂、空港歩いてる彼女たちは金太郎アメみたいで厭じゃ)の元祖「エア・ガール」もこの頃登場するんであります。

大日本航空による東京札幌間の慰問交換のプレゼントを持参するエアガール

大日本航空による「東京札幌間の傷病将兵慰問交換」のプレゼントを持参するエアガール

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しかし、自分たちの航空局を潰して新しく航空省を造るとなると、話が変わってきちゃうんであります。

海軍は大反対

逓信省は航空局の廃止に反発し、航空局を外局とすることを画策いたします。逓信省としては自ら所管する「航空に関する事項」は絶対に手放したくなかったのであります。

一方で海軍も陸軍の構想には大反対でした。昭和11年の4月13日から、陸軍の呼びかけによって「航空省の設置」に関しての協議会を断続的に開くのですが、海軍は一向に賛同しませんでした。

陸軍の熱心さに「航空院」の開設までは譲ったものの、これでは逓信省の「航空局外局化」と選ぶところはありません。

これはもちろん、海軍が「航空省を造ったら空軍が出来るんじゃね?」と疑ったからです。

Me262

ドイツの「Me262」
空軍が出来ても、ココまではムリだったかな?

 

世界的にはイギリス・イタリア・フランスで空軍が独立していました。昭和10年にはドイツも再軍備と空軍独立を宣言しています。

大日本帝国も空軍創設に続け!というのが陸軍の主張なんですが、海軍としては「海軍航空隊は重要な補助戦力であり、艦隊と一体となって訓練する必要がある」と主張して一歩も譲らなかったのです。

海軍の主張は一理ありまして、陸軍は強く押すことは出来なかったようです。軍部大臣現役武官制は海軍大臣についても有効ですからね(笑)。

さらに、海軍は念のために逓信省を巻き込んで「中央航空研究所」創設に動きます。もともと陸軍の構想にあったモノなのに、横取りしたカタチであります。

昭和12年12月、大蔵大臣官邸で逓信省航空局長の小松茂、大蔵大臣の賀屋興宣、海軍次官山本五十六の3人による折衝で昭和13年度予算への計上が決まってしまうのです(「航空局50年の歩み」)。
陸軍は全く知らされることなく、予算の決定後に航空局から陸軍に知らされた程でした。

中央航空研究所

中央航空研究所

 

こうして海軍は逓信省と手を結んで、大日本帝国空軍の誕生を潰してしまったのでありました。

潰されてしまった航空省→大日本帝国空軍の誕生構想は、陸軍のドイツ視察団が帰国して再提案するのですが、それ以降は復活する事なく、敗戦の日を迎えてしまうのであります。

空軍が出来てたら航空機開発はどうなった?

電脳大本営の主張は「戦訓を真正面から汲もう」って事であります。
今回の陸軍の空軍独立計画・海軍の空軍計画潰しでは「もし空軍が出来ていたら」という視点から戦訓を汲めないか?と思うんであります。

空軍が独立していたら、大東亜戦争に勝利していないまでも、史実のような惨敗を避けられたのでしょうか?

それには一定の条件が必要です。「独立した空軍」がまるで規模が小さくて、陸軍航空隊も海軍航空隊も従前の勢力のままだったら、かえって帝国の抗戦能力は低下していた事でしょう。

少なくとも陸軍の航空隊が発展的に「空軍化」して、海軍航空隊も空母艦載機(できれば戦闘機オンリー)と飛行艇・水上機のみになっている必要があります。そう言った前提で以下、妄想であります。

1式戦隼2型

1式戦「隼」2型

 

大日本帝国の陸軍と海軍はそれぞれが同じような目的の機体を、同じような時期に別々に開発しています。

戦闘機で見ると、陸軍の「一式戦闘機・隼」(昭和12年12月に開発指示)と海軍の「零式艦上戦闘機」(昭和12年10月に計画要求書提示)はどちらも格闘戦重視の言わば軽戦でした。

11型

零式艦上戦闘機11型

 

陸軍の二式戦闘機「鍾馗」(「隼」と同時に指示されたが後回しになっていたモノ)と海軍の「雷電」(昭和14年9月に開発指示)はともに速力・上昇力を高めた重戦闘機。

英軍に接収された雷電

英軍に接収された「雷電」

 

この時点で海軍の「新戦闘機開発」が遅れ気味になってきているのが判りますが、その主要因が海軍の余計な口出しなあった事は「紫電と紫電改」疾風と烈風」の両シリーズでシツコイくらい書かせて頂いております。

陸軍は二式戦闘機「鍾馗」と同時に二式複座戦闘機「屠龍」をも開発採用しています。そして我が軍唯一の液冷エンジン搭載の三式戦「飛燕」とつづき、傑作四式戦「疾風」が誕生いたします。

海軍の方は零式戦闘機の改修(高性能化)と「雷電」の熟成で手一杯となってしまい、陸軍のように次々と新型機をリリースすることが出来なくなってしまいました。

その結果、世にも珍しい「水上戦闘機」を改修して陸上戦闘機にする「二流メーカー(撃墜王・坂井三郎の表現)」の提案を容れてコチラも傑作機「紫電改」が誕生する事になって行くのです。

これはもともと豊かではない開発リソースを陸海で同じような機体に取り合ってしまったことと、海軍が開発に過剰な口出し(指導)をしてしまった事が大きいのです。

では、大東亜戦争前に空軍が誕生し、陸軍航空と海軍航空の大半を吸収していたら如何だったのでしょうか。

「零戦」と「隼」の並列は絶対に無かったでしょう。「零戦」は各型あわせて生産数一万機越え、「隼」も5700機を数えます。これがどちらかに統一されていたら、スピットファイア(23000機)を超えてBf109(33000機)に迫る生産数になっていたかも知れません。

「鍾馗」と「雷電」の開発・生産も統一されていた事でしょう。三菱の戦闘機チームが「雷電」の開発から解放されていたら、「烈風」の開発開始も一年は速くなっていた筈(そもそも「疾風」があったら「烈風」の必要はないんだけど)。

戦闘機については、長距離侵攻用も局地防空用も空母搭載用もこれでOKでしょう。

陸上基地から運用する爆撃機は陸軍の九九式双軽(双発軽爆撃機)一択で、開戦後「銀河」が早期に投入されるでしょう。
「空技廠」も海軍の手から解放されてるはずですから、民間航空機会社が造りやすい機体を設計したと思いますよ(笑)。

鍾馗

「鍾馗」

 

問題は海軍用の艦上攻撃機(雷撃機のこと)と艦上爆撃機(急降下爆撃機のこと)で、陸軍と統一できそうな機種がありません。
これは「彗星」と「流星」が早期に戦線に加わっただろうな、と思うしかありませんね。

もっと根本的な問題があった

如何でしょう?陸海軍が別々に軍用機を開発していたことが、大日本帝国の航空戦力を大きく損なわせていた事が、なんとなくお判りいただけるのではないでしょうか。

しかし「空軍誕生」はもっともっと大きな問題を帝国に突き付けただろう、って事に私はたった今(2018年4月30日)気が付きました。もう3日程後なら、ちょうど良かったのに。

流星

「流星」

 

実は大日本帝国憲法の第11条は「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と明記されています。いわゆる「天皇大権」の一つの「統帥権」ですね。

さらに続く第12条では「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」とあります。この第12条をテコにしてロンドン海軍軍縮会議の際に、「統帥権干犯問題」が起こるのであります。

政府が軍縮条約で海軍の「常備兵額ヲ」制限するのは12条違反だ!ってワケ。
実質的には鳩山一郎(戦前のポッポ)率いる政友会が軍縮会議を政局化したくて企んだ「政党の自殺」案件だと思うのですがね。

さて、お気づきでしょうか?大日本帝国憲法の11条も12条も天皇陛下の統帥権が及ぶのは「陸海軍」であって、「空軍」は統帥権の対象ではありません。

これはちょっとマズいのではないでしょうか?憲法を改正して空軍を明記しなければなりませんね。
ところが、であります。現在と同じように、当時の憲法も「不磨の大典」と化していたのですよ。確かに、大日本帝国憲法にも改正条項はありました
「1.将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ
2.此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス(第73条)」

余談ですが、現在の日本国憲法はこの条文によって大日本帝国憲法を改正する形で(表面的には)出来上がっています。それは日本国憲法に「上諭」が付されていることで証明されるでしょう。

日本国憲法上諭

日本国憲法上諭

 

『朕は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。

御名 御璽

昭和二十一年十一月三日』

に続いて内閣総理大臣兼外務大臣・吉田茂以下各大臣の書名が続いています。

また横道に入っちまった。空軍、空軍と。

憲法をどうやって改正したかは考えないことにしましょう。

当時でも、第11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」は万一の際に天皇陛下に責任を押し付けることになるのではないか?という心配はありました。
ですから、もし大日本帝国憲法を改正して「空」を付け加えるとしたら、ついでに「内閣ハ陸海空軍ヲ統帥ス」と変えられていたかも知れません。いや、その可能性は高いんじゃないでしょうか?

それなら、現在の文民統制と変わらんじゃん(笑)
いや、現在の総理大臣の指揮権は「自衛隊法第7条」に由来しますから、憲法に定められた「空軍が誕生した大日本帝国」の文民統制の方が強力だったかもしれませんね。

陸軍の航空に対する取り組みを紹介させて頂こうと書き始めたのに、「空軍が出来てたら、戦前にシビリアン・コントロール出来てたかも?」って言う話になってしまった(;^_^A

これも電脳大本営です、お許しを。

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