加賀と赤城

赤城と加賀2

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生まれつき戦艦からの変身だった空母「加賀」は、3段甲板の弊害以外にも速度や居住性に不満が大きく、「赤城」よりも先に大改装されることになりました。赤城と加賀1からの続きです。


ミッドウェイの海底で見つかった空母の残骸

デキが悪かった「加賀」の方が先に

実際に支那やアメ公の義勇空軍と対戦して、「加賀」の運用には現場からも軍令部からも大いに不満が出て来ました。
先ずは速力。まだまだ小さく速度の遅い当時の航空機でも「加賀」の速力では発進に不安が出ていました。三段にしたために艦の全長が全く使えていない飛行甲板も悩みを増していました。
発着艦の指揮もやりにくいし操船も不便(建造時に文句言ってヘンな艦橋造らせたくせにね)、その上舷側沿いに伸びる煙路で艦内の居住環境は最悪。

加賀3段甲板時代煙突に注目

加賀三段甲板時代
煙突が良く判ります。

 

これらの空母としての機能上の諸問題は実を言うと艦隊配備後すぐに(見方によっては就役前から)指摘され、改装計画も立てられていました。でも、予算が無くて実施は延び延びとなっていたのであります。

昭和八年に至ってようやく「加賀」改装の予算が承認され、海軍技術会議で改装計画が検討され、「加賀」の大改装工事の主な要求事項が次のように決まったのでした。

(1)搭載機数を増やす
(2)飛行甲板を一層にして出来る限り長くする
(3)速力を増す
(4)煙突を赤城方式(湾曲煙突)に変更する
(5)飛行甲板上にアイランド(塔型艦橋)を設置する

その他に航続距離の延伸・対空兵器の増強も求められ、この年の十月から佐世保工廠で大改装工事が実施されることになったのであります。

加賀の改装は海軍あげての大プロジェクトとして各種の案が検討されました。昭和九年2月には航空廠で風洞実験まで実施されています。

この時使ったモデルは、飛行甲板はもちろん一段で艦首先端部まで伸びておりまして、上部・中部の格納庫も艦首先端部まで拡大。飛行甲板右舷の前部寄りに大型のアイランド(塔型艦橋)と直立した煙突を持っていました。

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空母サラトガ

アメリカ空母「サラトガ」
風圧を受けそうな煙突、しかも重そう。
デリカシーの欠片も感じられないお姿だこと。

 

さらに煙突については右に傾いた傾斜煙突(空母「隼鷹」「飛鷹」「大鳳」「信濃」に実現した非常に有効な方法)の検討も行なわれた記録があります。しかしこの直後に友鶴事件が発生し、艦の重心を下げて復原力を増大させる必要が出てきたのです。
このため、風洞実験の結果よりも「友鶴事件対策」が優先されることになってしまい、次のような改装計画が策定されたのです。

航空艤装

飛行甲板については上部飛行甲板一層とし(三段式飛行甲板の中部・下部は廃止)、これをできるだけ延長する事になりました。

船体尾部を延長(速度対策のため)し、その分飛行甲板を艦尾方向へ延ばします。同時に艦首方向へは今までの上部飛行甲板前端部を艦首ぎりぎりまで延長して、全長248.6メートル(幅30.5メートル)と改装前に比べると、77メートルもの延長が成ったのであります。

1段甲板に改装後の加賀

一段甲板に改装後の加賀

搭載機数の増大をはかるためには格納庫も大きくしなければなりませんから、今までの上層・中層の格納庫が前方に延長されました。当初計画は艦首ギリギリまで延長することになっていたようですが、友鶴事件の教訓で風圧を受ける面積を減らすために艦首から23メートルのところでストップ。

これに関連して上層格納庫の側壁が新たに設けられて、密閉式に改装されています。三段飛行甲板時代は解放式だったんですね。これって、ダメコン的に退歩なのかな?でも、整備的には風や潮の影響を受けない方が絶対に良いワケですしね。評価が難しいところですね。

格納庫の拡張によって搭載機数も常用72機・補用18機合計90機(九〇式艦戦12+3・八九式艦攻36+9、九四式艦爆24+6機)の大空母に相応しい陣容となたのです。

艦載機用エレベーターは前後部に一基ずつが装備されていましたが、前部エレベーターの前方の飛行甲板と格納庫の延長部に一基を増設して計3基となりました。「加賀」の飛行甲板を見ると、エレベーターがアンバランスな配置になっているのはこの理由によります。

加賀2面図

加賀2面図
エレベーターが前部に集中

さらに着艦制動装置は萱場式から呉式四型(横索一〇本)に改められ、着艦に失敗した機を止めるための「空技廠式滑走制止装置」を前部と中部エレベーターの直後に一基ずつ装備。移動式滑走制止装置二基と応急用滑走制止装置一基も積み込まれました。

また着艦誘導灯も装備されています。アメ公は大東亜戦争中、ずっと人間が旗振って着艦指揮やってますから事故が多く、一説では大東亜戦争で喪失した海軍機の1/3は着艦時の事故と言われているほど。大日本帝国の事故率は不明ですがこんなに多くはありません。

さらに飛行甲板前端部に発艦促進装置(カタパルト)を二基を装備する計画でした。装備のための事前工事は実施されたものの、肝心のカタパルトが開発できませんでした。

速力と煙突

速力増大は一線の航空母艦として今後も活躍するためには避けて通れない道でした。陸上の滑走路に比べて極端に短い飛行甲板から、これから大型・高性能になって行くはずの艦載機を発艦させるためには30ノットは絶対に必要だったのです。

従来の最高速力27ノットを30ノットにするべく、大改装が行われました。
艦尾を8メートル延長し船体形状も変更して水中抵抗の減少をはかったのです。
一方では機関の馬力も大幅に増強、9万1千馬力から12万7千4百馬力とされました。このために主機・主缶が換装されています。

ただでさえ、舷側を這っている煙路からの高熱で居住性が最悪だった「加賀」ですので、馬力が上がればなおさら熱くなってしまいます。煙突の改正は絶対に必要でありました。

当初計画では右舷飛行甲板に大型の直立煙突を設置する計画でしたが、風圧面積を減少させるのと重心降下のために姉妹艦「赤城」に倣った湾曲煙突に改められました。

1段甲板、煙突改正後の加賀

「加賀」が排気の海水噴射中です

湾曲煙突にはこれも「赤城」と同様の「熱煙冷却装置」が設けられていました。艦載機の離着艦の場合に海水を煙突出口に噴射し、排煙温度を低下させる仕組みです。

推進器(プロペラ)もより推進効率の高い形状のものに交換されています。

これらの改正で速力は計画出力三〇ノットには達しなかったものの公試では28.34ノットを記録しました。
航続力も増大しました。新造時14ノットで8千カイリであったものを、重油満載量を7500トンに増加させ16ノットで1万カイリに延長したのです。

艦橋

「加賀」の艦橋は当初は中層飛行甲板の前端部に設けられていました(アイランド無し)。
艤装員長(初代艦長)の強硬な主張によって、格納庫と発艦甲板を遮る形で作られたのは「赤城と加賀1」で紹介申し上げた通りです。
ところが、このわがままを聞き入れた艦橋にもまだ不満が出てしまったのです。操艦と艦載機の発着艦指揮にきわめて不便だと言うのであります。

今回の大改装前には、既に上部飛行甲板右舷の前部に仮設の小型艦橋が造られていました。大改装工事にあたっては大型の塔型艦橋が飛行甲板右舷に設置される計画だったのです。

三段飛行甲板の「加賀」1930年撮影

三段飛行甲板の「加賀」
1930年撮影

しかししかし友鶴事件はどこまでも祟ります。トップヘビー回避の必要から、大型艦橋の搭載は中止されてしまい、羅針艦橋・操舵室・発着艦指揮所だけを収容した四層の小型艦橋に変更の上で右舷前部に設置されました。

兵装

「赤城」と「加賀」と言えば、巡洋艦と撃ち合える20センチ砲が一つのウリでした。特に中層の飛行甲板前端両側に装備された連装砲塔は、なんだかカッコ良く見えましたが、飛行甲板が一層になり、これは当然のように撤去されてしまいます。
その代り、後部中甲板の両舷に20センチ単装砲二門が追加され、片舷砲力は改装前と同じ5門となりました。しかしいずれの砲も舷側砲廓式に装備されたので、艦首方向への射界は著しく制限される、というか艦首前方へは全く撃てなくなってしまったのであります。

加賀3段甲板時代、2段目に20cm砲塔

二段目飛行甲板上の20cm砲塔がカッコ良いと思われませんか?

 

此奴らは大日本帝国海軍の聖なる元帥閣下、東郷平八郎大先輩の
「艦首方向への砲力は強力でなくてはならぬ」
という至言を知らなかったんでしょうか?元帥はこの一言で我が国がイギリスに次ぐ2番目の「国産弩級戦艦保有国」となるチャンスをぶっ潰して下さいましたけどね(笑)

実際には20センチなんて「巨砲」を敵艦にぶっ放すチャンスは大日本帝国海軍の空母にはありませんでした。唯一、「龍驤」が敵船を艦砲で撃沈していますけれど、これも高角砲によるもの。

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空母にとって、砲腔兵装は対空兵装だと言っても間違いありません。「加賀」の大改装でも対空兵装は増強されました。
12センチ連装高角砲6基はすべて撤去して、新しい八九式40口径12.7センチ連装高角砲8基に換装。右舷は前部2基、後部2基、左舷には前部1基、中央部3基を配置していますが、装備位置を従来より一段高くして反対舷に対しても射撃可能(仰角20度以上)になっています。また射撃指揮装置「九一式高射装置」が両舷各一基装備されました。

40口径89式12.7センチ高角砲

40口径89式12.7センチ高角砲(Wikiから)

高射装置って対空に特化した射撃指揮装置、原理は主砲の射撃指揮装置と同じで要はアナログ計算機なんですけど、電脳大本営的には大東亜戦争の帰趨をちょっとは左右した重要兵器です。あんまり注目されないけどね。VT信管より100倍ほどは重要だと思うなあ。そのうち記事にします。

対空兵器は高角砲だけじゃありません。改装に伴って機銃も増強されています。
13ミリ連装機銃はすべて撤去。かわりに25ミリ連装機銃が11基装備された、と思います。と申しますのは、「加賀」の大改装時の対空機銃装備数は、14基となってる資料もあるんですよ。

25ミリ連装機銃と89式12.7センチ高角砲(後方)~重巡羽黒~

25ミリ連装機銃と89式12.7センチ高角砲(後方)
「加賀」ではありません、ご容赦を

このほかに触れたいことは沢山ありますが、あまりに字数が増えちゃいそうですので割愛します。

大改装工事は昭和十年11月に完了、強力なる大型攻撃空母に生まれ変わった「加賀」は11月15日、第2艦隊第2航空戦隊に編入され艦隊に復帰したのでした。

今度は「赤城」がワリを喰った

「加賀」に引き続きすぐに赤城の大改装工事が実施されるのが筋ですよね、「赤城」だって使いにくい3段飛行甲板なんですから。「赤城」が予備艦に編入されたのは昭和十年11月15日。「加賀」と入れ替わりです。
即日、佐世保工廠で第二次改装工事(第一次は巡洋戦艦から空母への改装工事)に着手したので、文句はない筈なんですが。

赤城と加賀の比較

赤城と加賀の比較

実は工事内容はだいぶケチったものだったのです。

その原因は「加賀」の改装が予想外にカネを喰ってしまったから。「赤城」の分まで使い込んでしまったんですね。
「赤城」の大改装工事についての軍令部の要求は「加賀」とほぼ同様でした。

(1)飛行甲板を最上層のもの一段とし、これを延長
(2)格納庫を増設して搭載機数の増加する
(3)対空兵装の強化
(4)艦橋を塔型艦橋とする
(5)艦載機昇降用エレベーターの増設と改善

ってところがメインで、石炭混焼罐の廃止やタービン更新・航続力延伸の機関関係、搭載機の増加に伴う補給用の武器増載なども要求されていました。

この段階で既に海軍省はカネが無い、と言い始めています。改装要領については海軍省と軍令部で折衝の結果、
(3)の対空兵装強化については、高角砲の換装は見送り、飛行甲板の延長で撤去する二〇センチ連装砲二基の代替(「加賀」の場合は舷側部への砲廓式二〇センチ単装砲)もなし。さらに機関部の大幅な改正も行なわない(混焼罐の改正だけ)。

ということになってしまったのです。

以下、改装とその出来上がり具合は「加賀」に準じていますので、この記事では割愛させていただきます。
「加賀」と大きく違う所だけを見てまいりましょう。

「赤城」の艦橋問題

搭載機は91機となりました。九六式艦上戦闘機常用12機(補用4機)九六式艦上攻撃機常用25機(補用16機)九六式艦上爆撃機常用19機(補用5機)。

加賀搭載の96式艦攻爆弾装備

加賀搭載の96式艦攻(爆装)

「赤城」の一大特徴である艦橋については、「加賀」と同様に飛行甲板上右舷に設置される予定でした。
しかし工事にかかる寸前、航空関係者から
「加賀のように発艦区域内の前部に置くと発艦作業に支障がある。また着艦区域(甲板後部から中央部まで)は、障害のない区域が長大なほうが望ましい。」
とする意見が出てきました。
この時代、軍令部にも省部(海軍省)にも飛行機のことが判る役人、じゃない軍人はいません。「そーかー、まあ源田クンが言うならしゃあないなぁ(特に源田実が言った、という証拠を持ってるわけではありません)。」ってな事でこのクソ意見を通しちゃうのであります。金も掛からねぇ事だし。

こうなると艦橋を設置する場所は「(前後方向の)艦中央部」しかなくなってしまいます。左右方向は(「赤城」ではとても特徴的になるのですが)『艦中央の右舷側には煙突があるため、必然的に左舷配置とせざるを得なかった』と説明されることが多いようです。

「加賀」では煙突も艦橋もちゃんと右舷に配置してるんですけどね。こういう説明をする「軍事評論家」とか言う人たちって、論理的思考能力をお持ちなのかしらん(笑)
煙突の右舷配置が「空母の基本」で、艦橋はどっちでも大丈夫(搭乗員の気持ちを別にすれば)が電脳大本営の主張(空母の艦橋はなぜ右舷だったのか)なんですけどね。普通に考えれば当然行き着く考えだろうと思います。

造艦担当と航空関係者は一応まじめにこの問題に取り組んだ形跡があります。つまり風洞実験でさえ飽き足らず「実艦上での実大模型実験」まで行っているのです。

1934の赤城、3段甲板+小島艦橋

三段甲板に試験的に小島艦橋を設置した「赤城」
1934撮影

改装前の「赤城」の飛行甲板上で、改装後の塔型艦橋を設置する予定位置に実物大の模型艦橋を設置して艦載機の発着艦実験と気流測定を行ったのです。その上でようやく左舷中央部に塔型艦橋を設置することを決定したのでありました。

しかし赤城改装完了後の実際の運用結果では、離着艦に中央(前後方向の、ですよ)艦橋はかえって不便な面がありました。搭乗員たちからも評判が悪く、中央左舷の艦橋方式は「赤城」と「飛龍」のみとなってしまいました。後に建造された大日本帝国の航空母艦の一応の完成形である「翔鶴」「瑞鶴」姉妹も当初の計画で中央艦橋だったのですが、建造途中で右舷前方に変更されています。

大改装完了の赤城

大改装完了の赤城

機関関係では「赤城」の速力は31.75ノットで空母としてまあまあの速力がありましたので、予算があっても「加賀」のような大幅な改正は必要ありません。
ただ、我が国のエネルギー事情から搭載されていた石炭混焼罐八基および技本式高低圧タービン四組のうち、石炭・石油混焼罐8基を重油専焼罐に改造する工事だけが行われています。
これはどうでも良い事のようなんですが、この画像の謎が解ける工事なんです。

三段甲板の赤城、煙突からの排煙に注意

三段甲板の赤城、煙突からの排煙に注意

どなたも不思議に思われませんか?当初から下向きだったはずの「赤城」の煙突から、上向きに煙が出てる写真。

実は「赤城」の煙突は有名な「下向き」の他にもう一本あったんです。それはこの石炭・石油混焼罐専用の煙突で、直立上向き排気でした。

混焼の解消によって別に排気する必要がなくなり(混焼罐の排気を本当に別にする必要があったのか?はまだ調べていません)、この直立煙突は廃止される事となり、私たちのよく知っているあの横長下向き煙突になったのです。

赤城の高角砲換装は開戦までついに実施されず「赤城」の対空防御能力は「加賀」より劣ったまま。

ともあれ、赤城の大改装工事は昭和十三年8月31日に完了、12月15日には第一艦隊第一航空戦隊に編入され、ただちに支那海域での戦闘任務についたのでありました。

赤城艦上より後続の機動部隊を望む

赤城艦上より後続の機動部隊を望む

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-帝國海軍, 航空母艦