帝都防空隊1~近衛飛行隊~

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「近衛」というと、我が国では天皇陛下を警衛奉る直属の兵隊さん(近衛兵)やその軍団を指します。国によっては親衛隊なんて呼ばれる事もありますね。大統領警護隊、なんてぇのもありましたね。

防空戦闘機隊

今回は「近衛飛行隊」を名乗って帝都防空に奮迅した、飛行第244戦隊を書きたいと思ったのですが、電脳大本営らしく「近衛」から話を始めちゃいます。

他所の国の事はひとまず置いときまして。我が国では近衛府・御親兵・禁衛府など、時代よって色々な呼び方をされました。
すごく昔のことはこれもまた置いときまして、日本の歴史的な「近衛兵」っていうと「北面の武士」とか「十津川郷士」を思い浮かべるんじゃないでしょうか?京都近辺だと八瀬童子とかね。

「十津川郷士」とか「八瀬童子」は勤皇の精神を持った人々が「勝手に」主上を守護し奉り、主上もまた、それを認め頼りにし賜うという、真に我が国らしい主従関係を見ることが出来ます。

君主制が廃止されちゃった国でも、歴史的な経緯を大切にして近衛兵や親衛隊などの呼び名を残した例は沢山あります。
ただし我が国では、「近衛」と付いたら世襲の元首を警衛するものだけ。世襲ではない元首を守護する衛兵には使いません。どんなに力を持った大宰相であっても「近衛兵」は付かないんですね。

皇太子時代の昭和天皇と近衛騎兵連隊

皇太子時代の昭和天皇と近衛騎兵連隊

 

ですから、飛行第244戦隊が自称・愛称としてでも「近衛飛行隊」を名乗ったということは、単なる帝都防衛隊ではありません。

万が一の天子蒙塵があった際でも天皇陛下を守り抜く、という決意と能力の表出であった筈なのです。

飛行第244戦隊は帝国陸軍でも大変珍しい「防空専門」の戦闘機隊として誕生し、我が国上空を死守して敗戦に至るまで健闘を続けました。

そこにはやっぱり、闘志に溢れた隊長がいたのであります。

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誕生

近衛飛行隊が初めて編成されたのは昭和16年7月。
埼玉県豊岡町(現在の入間市の一部)の航空士官学校(修武台)の教官や助教を中核とし、来たるべき対米戦争で関東地区を空襲から守るべく編成された144戦隊がそれであります。

陸軍航空士官学校(修武台)

陸軍航空士官学校(修武台)

 

修武台の教官とは、教育を受けている士官候補生3~40名(区隊)を率いる大尉か中尉クラス。助教は実戦部隊から派遣されている准士官や下士官です。
助教の技量がすぐれているのはもちろんですが、教官も実力者ぞろいだったようです。
初代戦隊長には泊重愛少佐をいただき、7月下旬には竣工間もない東京調布飛行場で編成を完結。同時に「帝都防空」を任務に同じ調布で新しく編成された第一七飛行団の指揮下に入ることになりました。

戦力は九七式戦闘機の2個中隊で、計19機を保有、この態勢で12月8日の大東亜戦争の開戦を迎えることになります。

開戦当初、南方へと順調に進出する友軍に、出番はないのか?とも思われた「近衛飛行隊」でしたが、早くも17年4月18日に出撃の機会に「恵まれ」ます。
そう、いわゆる「ドーリットル爆撃」が出来したのであります。この爆撃そのものは空母から陸上爆撃機を発進させるという「奇策」であり、損害も軽微。かねてからこのような事態を想定していた海軍の警戒網も、それなりに有効(漁師さんの尊い犠牲が伴いましたが=詳しくはコチラ)であることが証明されたのです。

調布飛行場の戦闘機用の掩体壕

調布飛行場の戦闘機用の掩体壕

 

しかしながら哨戒と邀撃に当たっていた飛行第244戦隊(三日前に改称していました)は敵のB25爆撃機を見ることなく終りました。
結果的に16機のB25は全損となったのですが、陸海軍が撃墜したのは「空気」だけでした。一機も撃墜していないのに大本営が「9機撃墜」と発表したのですが、日本全国晴れの天候ではゴマカシは効かなかったのです。

「空気撃墜」と親爺ギャグのネタにされた所以であります。

西日本の防空専任部隊「飛行246戦隊」が新たに編成されたのに伴い、「244」に名前を改めていた「近衛飛行隊」。これに懲りて戦力向上に務めることになります。

B-25_Mitchell

B25_ミッチェル爆撃機

 

ドーリットル爆撃のあとに、2式単戦(鍾馗)および2式複戦(屠龍)を装備した各1個小隊を追加、同年の10月には第3中隊を新設して3個中隊編制となります。

翌昭和18年7月に「三式戦闘機・飛燕」が制式化されると当初の装備機だった「九七式戦闘機」からの機種改変を行います。我が国の技術陣には不慣れで不調の多かった液冷のハ40エンジンでしたが、パイロットも整備陣とともに努力を重ね「飛燕」部隊としては高い稼働率を維持し続けています。

97式戦闘機

九七式戦闘機 電脳大本営的には「ノモンハンの空の覇者」

余談ですが、陸軍航空隊のパイロットはエンジン・機体の整備にも積極的に関与しています。飛行中の異音や振動を整備員にフィードバックして、一緒に原因解明に当たる姿勢が高稼働率を生む要因かも知れませんね。

震天制空隊

昭和19年3月に京浜地区防空を任務として、調布飛行場を策源地として「飛行第十師団」が新編成されると、244戦隊はその隷下にうつり、主戦力を担う事となります。
6月に絶対国防圏の一角であるサイパン島にアメリカ軍が上陸。皇軍の健闘もむなしく7月に陥落すると、ココを基地とする「B29」の帝都爆撃が現実の危機となりました。

帝都上空にB29が飛来するようになると、244戦隊は邀撃を繰り返すのですが、高度10,000メートルで飛来するB29を撃墜することはきわめて困難でした。
この状況に危機感を募らせた飛行第十師団は隷下の各飛行戦隊に対し、戦隊ごとに4機(主に戦闘機)の「特別攻撃隊」を編成するように命じました。

屠龍

二式複戦「屠龍」

特別攻撃隊と言っても、対艦攻撃の体当たりのような「必死」の部隊ではありません。
乗機はもったいないから中古ばっかりで、それも機銃や防弾板などの体当たりには直接不要な重量物を外して軽量化、高空性能を高めB29に機体をぶち当てて撃墜しようとする特殊攻撃部隊です。
パイロットは衝突寸前に脱出しますから、技量は必要ですが何度も生還して対空戦闘を継続できたのです。

技量は脱出だけでなく、B29のいる高空まで上昇して高速のB29に追尾、狙いを定めて衝突するすべての過程で高度なモノが要求されました。
衝突するだけ、などという生易しいものではありませんでしたので、要求されるレベルに達しない搭乗員は「左遷」されるほどのエリート部隊だったのです。

この体当たりエリート部隊は飛行第十師団で「震天制空隊」と命名され、第一二飛行師団(西日本の防空担当)隷下では「回天飛行隊」と名乗っています。

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四宮徹中尉

244戦隊の「震天制空隊」の初代隊長は陸士56期の四宮徹中尉が任命されました。
昭和19年12月3日。B29の大編隊86機が駿河湾から浸入してきました。四宮中尉以下の8機が帝都上空で待機。四宮機は一機のB29に突進・激突し、敵機は右翼に損傷を受けてエンジンから白煙を噴出します(離脱途中に味方機の追撃で東京湾に墜落?)。

 

四宮徹中尉244戦隊時代

244戦隊震天制空隊の四宮徹中尉

四宮機は左翼の先端を切断されて錐揉み状態で落下したのですが、墜落前コントロールを回復し、調布飛行場に帰還を果しました。

四宮中尉の体当り当日の日誌が残っています。

四宮徹中尉体当たりの日の日誌原文

四宮徹中尉体当たりの日の日誌原文

「ザマー見やがれ」が国民の思いだったんではないでしょうか。

この日は板垣政雄伍長、中野松美伍長の「体当たり2回生還コンビ」も一回目の体当たりに成功しています。

戦果は、撃墜6機・撃破2機が報告されていて、新聞には体当り機の生還が華々しく報道されました。

実際の体当たり攻撃の画像はネット上には見当たらないようですが、「絵」ならあるんです。それもプロの描いた…って言っても絵本作家さんなんですけどね。武井武夫さんという人で、絵日記みたいなのを残されているんです。

震天制空隊の

震天制空隊の攻撃

 

武井武夫はこの絵のほかにもたくさんの絵を残してくれました。まあ「絵日記」ですからね。正確性には欠けると思いますが、激しい空襲下の大日本帝国の国民の感情が少しは判るんじゃないかと思いますので、紹介させてください。

撃墜したB29を見物に

撃墜したB29を見物に?

うーん、B29になってないですよね。

火の小便

「火の小便」

これはいったい何なのか?空中火炎放射器?よく判りませぬ。

四宮隊長、特攻へ

体当りでB29を屠りながらも、乗機もろとも生還して一躍ヒーローとなった四宮中尉。
陸軍武功徽章を受けるのですが、実際に授与される前になんとこの活躍の2日後の12月5日にホンモノの特攻隊に転属となってしまいます。

実は四宮中尉、12月1日付けで第19振武隊隊長の内示を受けていたようです。

昭和20年4月29日、四宮中尉率いる4機の一式戦「隼」は知覧基地を発進。六百数十キロを翔破して敵艦隊の大群に突入、ふたたび還る事はありませんでした。

四宮隊長転出後も、震天制空隊は奮闘を続けていましたが、昭和20年3月20日にその編成を解かれています。

四宮徹中尉

第19振武隊時代の四宮徹中尉

 

これは、震天制空隊が戦果を上げていた時に比べて、米軍の戦闘機の護衛がしっかりつくようになり、体当たりそのものが出来なくなってきたためと、陸軍が本格的に「本土決戦」を考えるようになり、戦闘機部隊をその時のために温存しようとした事を示しています。

244戦隊では(震天制空隊以外も含めて)18回の体当たり攻撃を敢行し、戦死者は7名に留まりました。

技量抜群の搭乗員揃いだった震天制空隊の隊長を任せられるほどの四宮中尉を、何故この時期に生還を期すことのできない対艦特攻に配置転換してしまったのか?
誤解の生じないように申し上げておきますが、技量の未熟な搭乗員を必死の体当たりに回せ、と言っているワケではありませんよ。

電脳大本営は「特攻を企画した」人々を絶対に許さない、というのが基本的な立場ですが、実際に攻撃に飛び立った英霊はもっともっと称賛されるべきだと考えています。敗戦のあとに部下を道連れにした例外もいてますけどね。

「統率の外道」と命令者自身が認める拙劣な作戦、それは英霊たちも十分に判っていた筈です。
それでも、自分の家族・自分を恋い慕うものと育ててくれた国を守るために、敢然と飛び立った英霊のお心の内は如何なものだったのか?
そうまでして私たちが継承させて頂いた日本の現状は、英霊方の御心に沿うものなのか?

四宮中尉の遺書をご紹介申し上げます。

四宮中尉の遺書

四宮中尉の遺書

 

『母上様 兄上様

只今より出発致します
実に、喜び勇んでおります
ちょうど、小学校時代の遠足を思ひ出します
どんな獲物があるかと、胸をわくわくさせて待っております
決意とか、覚悟といふような、こだわりは少しもなく、
本当に、全員、純真無邪気です
小学校に通学する朝、「行って参ります」と云って出かけたことを思ひ出します
本当に嬉しさで一パイです

デハ、「行ッテ参リマス」
御機嫌よう

天長の 月あび勇む 必勝行

 

帝都だけじゃなくて

アメリカ軍の爆撃は軍事産業の多い名古屋を中心とする東海地区にも施行されるようになってきました。
244戦隊も帝都の上空だけではなく、こちらにも対応せざるを得ません。
調布と浜松とをベースとして、帝都と中部地区の防空を兼任する事になったのです。
この頃はB29は爆撃の精度を高めるためか犠牲を覚悟で3~5000メートルの高度で飛来していましたので、244戦隊も多くの戦果を挙げる事が出来ていました。

これがだいたい昭和19年12月ごろであります。この後、244戦隊は知覧にも進出して沖縄戦に出撃する特攻機の護衛にもあたり、昭和20年4月に五式戦闘機が制式化されると全機を機種改編することになります。

三式戦と五式戦

三式戦と五式戦

 

その直後の5月15日には第1総軍司令官杉山元元帥陸軍大将から「部隊感状」が贈られています。
この感状によりますと、ココまで244戦隊の上げた戦果はB29の撃墜73機・撃破92機。F6Fの撃墜10機・撃破2機。SB2C撃墜1機となっています。これは三式戦「飛燕」を使った飛行戦隊の中ではトップクラスだと思われます。

近衛飛行隊のお話は、最後の戦隊長・小林照彦少佐を中心に次回に続きます。

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