摂津丸イラスト

目立たない功績5~陸軍特殊輸送船、南氷洋に散る~

2018/08/09

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海軍が建造した一等輸送艦は「大発」を艦尾から泛水させることによって、速やかな揚陸作業を可能にしていました。

陸軍の方がはるかに先を

海軍の二等輸送艦は陸軍の「大発」の拡大コピーだっていうことは、目立たない功績3で紹介させていただきました。じつは一等輸送艦も「『大発』を艦尾から泛水させることによって、速やかな揚陸作業を可能にする」という発想は陸軍からちゃっかり頂戴しているのです。

もちろん、戦時の急速建造に適応した艦型や作業方法など海軍オリジナルは沢山ありますけれど、一番肝心の急速揚陸のプランは陸軍の丸パクリだったのです。
じゃあその元ネタは何か?って言うと「陸軍特殊輸送船」神州丸であることは、お判りの方も沢山いらっしゃることでしょう。

「神州丸」は世界初の強襲揚陸艦(陸軍のフネなんで艦ではないですね)と言われてけっこう有名ですから。

神州丸

神州丸

基準排水量7100トン・全長156メートル・全幅19メートル、19ノット、搭載量兵員2200名・大発27隻・小発16隻(いずれも正規、3000名以上収容可能)

神州丸は一目見るとその怪異な容貌に驚かされます。
これは船内に巨大な舟艇格納庫を設け、大発23隻を収容しているからです。このために船内には兵隊さんの居住区が作れず、船上構造物を大きくして3000名の船室をしつらえているのです。

神州丸3面図

神州丸3面図

 

船内図の中央やや船尾寄りが機関室ケーシングで、それ以外は大発のスペースになっています。両方の舷側沿いには船首から船尾まで軌条が設置されていて、その上を台車が移動するようになっています。
大発は軌条上の台車と軌条の間の空所に収容されているのです。

兵員区画から大発区画へはいくつかの階段が通じており、上陸地点近くで兵隊さんたちは階段を下りて自分たちに割り当てられた大発に乗艇、軌条を滑って神州丸の船尾から次々と発進していくことが出来たのです。

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後に続くフネたち

神州丸は昭和10年に竣工した後、支那事変・大東亜戦争の緒戦の上陸作戦に投入され、バタビヤで友軍に撃沈されたりしながら活躍を続け、昭和19年1月に至って台湾近海で米潜水艦に雷撃されて、ついにその奇怪な船影を没することになります。

いずれの上陸作戦も「強襲」とは言い難いものでしたが、陸軍は神州丸の運用に満足してそのコンセプトに自信を持ち、昭和14年から「改・神州丸」とでもいうべき「強襲揚陸船」の建造に取り掛かりました。

これが良く知られている「陸軍空母」の原型となるわけですが、建造されたのは空母型ばかりではありませんので此処では「上陸用舟艇母船」と呼ぶことにします。

「上陸用舟艇母船」は当初16隻が計画され(のちに11隻に変更)内の4隻(3隻に変更)が空母型(丙型)とされました。ただしあくまでも「空母型」。搭載機の着艦は考えられていなかったようで着艦用の設備は全く計画されませんでした。

上陸用舟艇母船(丙型)あきつ丸

上陸用舟艇母船(丙型)あきつ丸

 

これは元々の神州丸にも航空機搭載計画があり、カタパルト射出の予定だったからです。上陸部隊が着陸用地を確保してから発進するもので、局地的に制空権を確保するという、現代的な構想ではありませんでした。
丙型として建造された「上陸用舟艇母船」は「あきつ丸(秋津丸の表記もあり)」「熊野丸」「ときつ丸」の3隻です。

一方の空母型でない基本形の上陸用舟艇母船は「甲型」と呼ばれ、外見は神州丸とは違って普通の貨客船のようでした。

これにも理由があって、それは陸軍の予算の無さが影響していたのです。本来陸戦専門で、そのための予算さえ潤沢ではなかった陸軍が、十数隻もの一万トン級船舶を持てる余裕などある筈がありません。
そこで陸軍が考え出したのが、「優秀船舶建造助成施設」(昭和12年~)と呼ばれる制度を利用することでした。

これは昭和恐慌(昭和2年)に対応した造船振興策を延長・強化した政策ですが、有事の際は軍が利用することが前提の船舶を建造した、と言っても過言ではありません。そのために、本来の商用船としての経済性を損ねたりもしてるんですがその点はまた別記事で語りたいと存じます。

ともあれ、この助成策を海運会社に受けさせて建造した船を、陸軍が借り上げて運用は海運会社の船員に委託してしまう、というやり方を取りましたので、外見は商船に見間違うようになっていたのであります。

実際に建造された「上陸用舟艇母船」甲型は次のようになっています。

船名 総トン 所有(運用)会社 完成時期 終戦時
摩耶山丸 1万 三井船舶 S17.12月 戦没
にぎつ丸 1万 日本海運 S18.3月 戦没
吉備津丸 1万 日本郵船 S18.12月 戦没
玉津丸 1万 大阪商船 S19.1月 戦没
高津丸 5千 山下汽船 同上 戦没
日向丸 1万 日産汽船 S19.11月 戦没
摂津丸 1万 大阪商船 S20.1月 残存
船名未定 5千 未定 敗戦時工事中 未成

摩耶山丸の要目を上げておくと、10000トン・全長140メートル・全幅19.2メートル、20.8ノット、搭載量兵員2400名以上、貨物3000トン、大発23隻

ご覧のように、彼女たちが就役したときには大日本帝国には敵前上陸をやる機会は無くなっていました。上陸用舟艇母船たちは優秀貨物船として困難な輸送任務に当たり、最後に完成した摂津丸を除いてすべて戦没という悲しい運命をたどってしまいました。

甲型上陸用舟艇母船「吉備津丸」

甲型上陸用舟艇母船「吉備津丸」

残された「摂津丸」はその姿を変えながら、戦没した姉たちの分まで日本のために奮闘する運命にあったのです。

引揚船摂津丸

「摂津丸」がまず変身したのは「復員船」でした。ビルマ・台湾・葫芦島(ころとう/支那遼寧省)等からの日本人引揚げに活躍しました。

復員船「摂津丸」で引き上げた人に、京大名誉教授を務めた歴史学者(ルネサンス史)の会田雄次がいます。会田の数多い著作の中で、唯一面白く読める?のが「アーロン収容所 (中公文庫)」です。

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ビルマ戦線で終戦を迎え,英軍のアーロン収容所で捕虜として過ごした会田は昭和22年に「摂津丸」で帰還を果たしたのですが…

「看護婦さんたちが船橋から手を振っている。驚くほど色が白いのが目にしみる。行軍中死んでいった日赤の看護婦さんたちを急に思い出しどきっとした。あとで帰還した小隊長の話では,久しぶりで見た内地の看護婦さんは神様のように美しかったという。私は神様としてはずっと下品で、色の白さと身体がたくましくてお尻が大きいのに驚き、はじめて本当の女性を見たような気がした。」

会田はこの本の中で、英軍女性兵士が日本兵捕虜の前を平気で裸でぶらつく、とか言ってるんですけどね。
英軍女性兵士が日本人を人間として見なかったのと同じように、アンタも英軍の女性を女として見てなかったんじゃないか(笑)

捕鯨冷凍工船摂津丸

海外に置き捨てにされた邦人の引揚げ事業に目途が付くと、摂津丸は食糧確保任務に就きます。

戦後の食糧難にあえぐ日本人にとって、鯨は貴重な蛋白源でありました。昭和22年9月16日、「摂津丸」は日本水産株式会社に売却され塩蔵船としての活動を始めたのです。当初、日本の捕鯨は小笠原周辺の海域のみで許可されていたのですが、漁獲高の見込める南氷洋での捕鯨も可能となります。

日本から距離のある南氷洋となると、塩蔵ではせっかくの鯨肉が痛んでしまいますので、日水は「摂津丸」を冷凍工船に改造することにしました。冷凍船ではなくて「冷凍工船」なのは、クジラを解体する機能も持っていたからです。

昭和28(1953)年。摂津丸は第七次南氷洋捕鯨の日水船団に参加していました。

摂津丸が所属した船団の母船「橋立丸」

摂津丸が所属した船団の母船「橋立丸」

3月7日の午前8時過ぎのことでした。南氷洋の漁場の「摂津丸」機関室内では、ベテランの作業員1名が見習い船員1名を指揮して緊急用排水ポンプの点検作業中でありました。

ベテラン作業員は、ペアを組んでいた見習船員に1.5mほど離れた場所から、ポンプに付随した小さなバルブを指差し、「分解するように」と指示を出しました。見習船員がうなずいたのを見たベテラン作業員は、指示内容を理解してくれたモノと思い込んでしまったのです。ベテラン作業員はそれ以上何も伝えず見習船員に作業を任せて、その場を離れ、別の作業を行っていました。

しかし、見習船員は指示内容を正しく理解していませんでした。見習船員は指示されたバルブのすぐ近くにある、巨大なキングストン弁を分解しはじめたのです。

キングストン弁は船外の海水を機関の冷却用に取り入れるための吸入バルブです(巷間言われるように、自沈専用ではありませんし、これを開けても沈むまでは時間がかかります←これ、ネタ晴らしです)。

船外に直結したバルブで、当然開閉できるワケですが、分解してしまえば海水がたちまち船内に噴出することは、船員にとっては常識だと言えましょう。しかし、見習船員はまだ乗船して1ヶ月半ばかりの新人でした。彼は何も知らなかったのです。

大きなキングストン・バルブを分解し終えたとき、船外の海水が毎時350トンの猛烈な勢いで船内に噴き出してきました。近くで作業していた乗組員たちが事態を察知し、噴出口に鉄棒や帆布を詰めるなどの応急処置を試みましたが、 海水の勢いは防ぎきれませんでした。

やがて浸水はますます増加し発電機などが相次いで停止。午後2時過ぎにはポンプによる自力排水が不可能となり、 午後7時40分には浸水した海水が主機関の中ほどまでに達する事態となりました。

その上、天候悪化の兆しも出ていましたので、ついに船長は摂津丸を救うことを断念したのでありました。
幸い大船団での操業中のことであり、乗組員は母船に総員退避して事なきを得たのですが、残された摂津丸は何とそこから1週間の粘り強い戦いを繰り広げることになります。

食糧を守る

時は昭和28年であります。日本は戦後の過酷な食糧難を乗り切っていました。
それでも我が国はまだまだ貧しく、南氷洋からの鯨肉は貴重なタンパク源であることに変わりはありません。

沈みかけた「摂津丸」にはその貴重な鯨肉が3700トン余りも積まれていたのです。船長以下の乗組員たちは緊急事態とはいえ、この日本国民の食糧を置き捨てにしてしまうところでした。

摂津丸は乗組員が居なくなったのも気づかずに我が身に侵入してきた海水と戦い続けました。摂津丸の船長や船員たちと船団の他の乗員たちはその姿に、鯨肉のことを思い出したようです。

戦前の捕鯨母船「図南丸」

戦前の捕鯨母船「図南丸」
タンカーとして徴用され戦没

 

摂津丸からの搬出作業は、退船の翌朝から始まりました。浸水状況を確認しながら、手作業で進められる鯨肉搬出作業は時間がかかりましたが、摂津丸は徐々に徐々に増え続ける海水の圧力に耐え続けました。

そして事故から1週間、3月13日の早朝。摂津丸は搬出作業の終了を見届けると、僚船が鳴らす汽笛の音に送られて船尾から静かに沈没していったのでした。

摂津丸は今も南氷洋の海底に静かに眠っている筈です。

昭和28(1953)年、摂津丸の海難が発生したこの年はテレビ放送が開始された年でした。街頭テレビには多くの人々が集まり、ボクシングやプロレスの試合に熱狂していたのです。

多くの国民にとって、戦争は過去の出来事となりはじめていたのですが、日本中にはいまだ大東亜戦争の大きな傷あとが残っていました。

その傷は海運界では最も大きく残っていた、と言っても過言ではありません。大東亜戦争の期間中、多くの民間輸送船が米軍の犠牲となりました。当然、フネだけではなく船員さんたちの払った犠牲も莫大でした。

電脳大本営が何度も指摘しているように、大日本帝国海軍は当初から輸送船の護衛に熱心ではありませんでした。予想に反して甚大な被害に慌てて護衛専門組織を作った時には、戦力が枯渇して有力な護衛はついに実施されませんでした。

このため、徴用船に乗務して「戦死」した船員さんは当時の日本の船員全体の約43%の6万人にも及びました。
大東亜戦争の軍人の損耗率は陸軍が約20%、海軍が約16%でありますから、輸送船の船員の損耗率は軍人の2倍以上にも達しているのです。

船員ばかりでなく、大東亜戦争では多くの生産人口が戦争に動員されてしまいました。
電脳大本営は決して戦争を、国防を否定するモノではありません。とことん追い詰められれば、特攻もやむを得ないかも知れません。しかし、それを命ずる側には冷徹な「戦術の見切り」が無ければなりません。

ハッキリ言えば、「この条件で特攻をさせれば、間違いなくこれだけの戦果が得られる」という条件作りです。その手を全く打たずに特攻を命じ続けた陸海軍幹部は「日本破壊工作員」と言われても抗弁できないと思います。

碌な護衛も付けず、危険な輸送任務に民間船員を投じ続けた行為も「日本破壊工作」の一環のようにも思えます。摂津丸の遭難も時を経て「工作」が実を結んだ、と言えるのではないでしょうか。

なお、「摂津丸」を戦時標準船だとする記述がいくつも見受けられますが、ここに書きましたように戦標船ではありません。

捕鯨母船はタンカーとして、小回りの効くキャッチャーボートは対潜艇として徴用され、ほとんどを喪失していました。
ですから捕鯨の再開に当たって、残存した戦標船も捕鯨船に転用されていました。それを誤認しているものと思われます。

なお、摂津丸の事故経過は日本海難防止協会のレポートをもとに、沢渡が記述を改めた物であります。

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