クレーン船イラスト

目立たない功績4~海軍とクレーン~

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「目立たない功績シリーズ」が好評を頂いてるので、ある「クレーン船」も紹介申し上げたいのですが、あまりにもネタ量が少ない。
普通のクレーンでちょっと水増しさせていただきます。

造るときも直す時もクレーンは必要です

軍艦に限らず、ある程度の規模のフネには必ずクレーンが装備されています。フネというのは、「重たい・大きい物を積む」というのが本質の一つだからです。

これは軍艦であっても、事情は全く変わりません。艦載艇の積み下ろしは当然思い付くところですが、軍艦なら大砲の弾や装薬を大量に積み込まねばなりませんし、魚雷ならもっと重いんです。

カタパルトで出た水上機も、揚収はクレーンを使わないといけませんし、食糧だって量がトンでもないですから、クレーンで積み込むんです。

水上機母艦「若宮」のクレーン

水上機母艦「若宮」のクレーン

 

クレーンは軍艦を建造する時にも必要です。
軍艦は数千トンから何万トンもの鉄の塊と言っても大きな間違いではありませんから、軍艦を構成する一枚一枚の鉄板も一本のキールも、クレーンが無ければ船台に上げる事すら出来ません。

大砲だって大きいし、収めるための砲塔も巨大、クレーンが無ければ船体に乗せることが出来ないのです。

修理や補修にも、クレーンの出番が沢山あることはご想像がお付きでありましょう。

現代日本は世界有数の「クレーン大国」なのだそうですが、明治維新以来日本の「クレーン」は常に海軍とともに歩いて来たのであります。

わが国初のクレーン

わが国初のクレーン
横浜鎮守府に設置されました

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日本で最古のクレーンは、明治4(1871)年に横須賀海軍工廠が創立されたとき、その桟橋に設置されたフランス製だとされています。

固定旋回式の埠頭クレーンで、なんと手巻きウィンチ。持ち上げる能力は7.5トン~10トンほど、作業半径は、6~7メートルなんだそうです。

後方のウエイトも搭載してないようですし、手動では相当に重かったんじゃないでしょうか?
その後のわが国クレーンの発展・発達は、そのまま大日本帝国海軍の歴史と重なる、というと言い過ぎでしょうか?

戦艦「武蔵」の故郷

時は一気に過ぎて行きます。

日清日露の大国難を克服した大日本帝国は、ついに主力艦(戦艦と巡洋戦艦)を自前で設計・建造できるようになりました。
大日本帝国は島国で必然的に「海洋国家」ですから、海軍は拡張の一途をたどり、ついに世界の三大海軍国の一角を占めることになったのであります。

その過程で、とうぜん造船業の発達を見る訳ですが、それがまた「クレーンの発達」でもあったのです。

造船所に特徴的なモノこそ、「ガントリークレーン」と言われる門型クレーンですね。

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三菱長崎造船所のガントリークレーン(現在)

 

これ、私の記憶では戦艦「武蔵」の建造にも使われたはずなんですが、どう使うんだか判りませんよね、これだけじゃあ。

昔の写真がありますのでご覧ください。

長崎造船所のガントリークレーン群

長崎造船所のガントリークレーン群

 

長崎造船所のガントリークレーン群2

長崎造船所のガントリークレーン群2

 

こんな感じですね。フネを造るのに必須の設備であることはお判りいただけると思います。

これが戦艦「武蔵」の故郷なのです。

「海軍の建設」についても、クレーンは絶対に必要な物だった、と言っても良いと思います。輸入艦ですべてまかなえば別ですが。

陸上だけではありません

軍艦の建造は(軍艦以外のフネも、ですが)船台の上だけで行われるものではありません。
どちらかと言えば進水した後、水の上で行われる作業の方が多いのです。

進水の後に行われる作業は「艤装」と言われています。
この段階で主機や兵装を取り付けるだけではなく、居住スペースの内装も行われます。

そう、重たいものを運ばなければいけませんから、この段階でもクレーンが必要で、海上ですから、今度は「クレーン船」の出番ですね。

広島港に浮かぶ「さんこう」

広島港に浮かぶ「さんこう」

 

ご覧の写真のクレーン船は現役なんですが、元はなんと海軍省発注の300トン起重機船でした。現在の船名は「さんこう」というんだそうです。

大正11(1922)年5月、三菱重工業神戸造船所で起工されて12月6日に進水し、翌年7月10日に竣工しています。建造当時は世界最大のクレーン船でした。排水量5000トン。

主に呉海軍工廠で使用された、とされています。ひょっとして?と思われた貴方!正解です。戦艦「大和」の建造でも「さんこう」は主機や装甲板の据え付けを行ったようです。

昭和27年佐世保で撮影されたクレーン船

昭和27年佐世保で撮影されたクレーン船

 

一方、上の画像が佐世保のクレーン船。

「大和」と来たら「武蔵」もね、って訳ですが、コチラは現役ではなく、船名もはっきりしません(「さんこう」が呉から廻航された可能性はあります)。

画像だけでもはっきりしないのかよ!って訳で電脳大本営の倉庫?を探し回ったらこんなの出てきました。

長崎港のクレーン船

長崎港のクレーン船

 

このクレーン船が戦後まで生き延びてまして、下のような画像も残っていました。

エセックス級空母に接近するクレーン船

エセックス級空母に接近するクレーン船

 

まあ、確証はないんですけどね。

でも、巨大なクレーン船は何艘もあるわけではありませんから、このフネが武蔵建造に活躍していた可能性は高いと思います。

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クレーン「船」と言っても

さあて、やっとこさ本題の「クレーン船」であります。

画像をご覧いただけばお判りいただけるように、これらの「クレーン船」はフネというより巨大な筏でありまして、とても外洋を航海できそうもありませんね。

大日本帝国海軍はついに専門の
「外洋も航海できるクレーン船」
を持つことはありませんでした(船を造るのにはあまり役に立ちませんから)が、なんと陸軍が持ってたんですよ。

一隻だけですがちゃんと建造して運用していたのであります。

特設起重機船「 蜻州丸」

陸軍特殊起重機船「 蜻州(せいしゅう)丸」

大正15(1926)年2月竣工、石川島造船所。2000総トン、全長64メートル・全幅15.2メートル、速力最大9ノット・巡行7ノット、150トン起重機×1、20トン起重機×1

注目すべきは全幅の大きさでしょう。

通常の船の縦横比の1.5倍ほどの「太っちょ」なんです。これでは巡行7ノットも致し方ないでしょう。
もちろんクレーンは横方向で吊りますから、幅広い船体はその安定のためです。

「重量物運搬揚陸船」という名称も使われたようで、陸軍船舶としてはコチラの方がしっくりくるような気がします。
その名を「 蜻州(せいしゅう)丸」と呼びました。同形船はナシ。

名称はどっちでもよろしいのですが、海軍ですら必要としなかった「外洋を航行できる巨大クレーン船」を陸軍が造った理由は想像出来ますか?

そう、お判りの方は多いでしょうね。「ワシントン海軍軍縮条約」です。お分かりにならない方(電脳大本営の読者の方じゃ無ければ、判らない方が普通です)はちょっとマジでお読みください(笑)

大正11年のこの条約で世界の主な海軍国は主力艦の数、大きさ、搭載する砲まで制約を受けることになりました。

それまで英米と建艦競争を繰り広げていたのに、建造中のモノばかりでなく、現役の戦艦・巡洋戦艦まで廃棄しなければいけなくなったのです。

余談になりますが、この時にはまだ現役であった戦艦(大正10年9月に一等海防艦に類別変更)「三笠」もこの軍縮条約の保有制限に引っかかってしまいました。

保存されている「三笠」

保存されている「三笠」

 

「三笠」は氷に妨げられて尼港事件の救援作戦に失敗、ウラジオストックで座礁、関東大震災で岸壁に衝突(それ以前には爆沈事故)…と栄光の引き換えかよ!ってほど不運が付きまとっていたのですが、国民の人気は絶大でした。

『「三笠」を救え』の声は大日本帝国国内にくまなく満ち溢れ、これに押された政府は条約国と交渉、特例として二度と海に出られないようにする条件で保存が認められたのでありました。

しかし他の艦はそうは行きません。

金剛型・扶桑型・伊勢型・長門型の計10隻を残して戦艦と巡洋戦艦は全て廃棄しなければならなかったのです。

大正6年、公試中の「伊勢」

大正6年、公試中の「伊勢」 後に航空戦艦になるとは思いも及ばぬお姿。

 

軍縮条約は建艦競争を支える国家経済にとっては「救いの神」でありましたから、文句は言えません。
しかしながら、船体はスクラップにするとしても搭載してる大砲はもったいないじゃないですか。

節約が身に付いてた

この大砲に目を付けたのがいつもお金がなくて困っていた陸軍でありました。どれくらい困っていたか、ちょっとマジに考えてみます。

大日本帝国は戦争の時は、通常の単年度予算と別に軍事費を支出していましたから、代表的な戦役別に陸海軍が使った金額を見てみます。

①日清戦争から台湾平定まで(1894年6月から1896年3月、1年9ヶ月)・・・支出・2億円(陸軍82.1%・海軍17.9%)

②日露戦争(1903年10月から1907年3月、3年5ヶ月)・・・支出・15億800万円(陸軍85.1%・海軍14.9%)

③第一次世界大戦からシベリア出兵まで(1914年8月から1925年4月、10年8ヶ月)・・・支出・8億8,200万円(陸軍費70.8%・海軍費29.2%)

④日中戦争から第二次世界大戦・復員事業まで(1937年10月から1946年2月、8年5ヶ月)・・・支出・1,553億9,700万円(陸軍費48.7%・海軍費40.8%)

日中戦争以降でも陸軍の方がたくさん使ってるのかよ!などと言ってはいけません。この間陸海軍の人員は概ね陸4対海1かそれ以上に陸軍の人員が多いのです。

つまり、陸軍は人件費の支払いに追われて大砲や戦車が思うように買えなかったのです。

そんな陸軍がこのチャンスを見逃すはずがありません。

「廃棄するフネの大砲を譲ってくれ!」って訳です。
主力艦の大砲は、陸軍が持ってる大砲よりはるかに強力なのです。

この強力な大砲を、防備の薄い我が列島の要塞に配置しよう、と言うのでありました。自分で運搬用のクレーン船を建造してまで…そうして誕生したのが「蜻州丸」だったのです。

蜻州丸が運んだ大砲の数々

「蜻州丸」は誕生と同時に本来の任務に努めます。

戦艦「鹿島」の砲塔を東京湾千代ケ崎砲台へ運搬したのを皮切りに、次々と廃棄戦艦・巡洋戦艦の武装を各地の砲台や要塞に運搬して海国日本の沿岸防備を強化していくのです。

戦艦「安藝」の砲塔を三浦半島三崎城ヶ島砲台へ

巡洋戦艦「伊吹」の砲塔を青森県津軽大間第一砲台と豊予海峡鶴見崎砲台へ

巡洋戦艦「伊吹」

巡洋戦艦「伊吹」

 

巡洋戦艦「生駒」の砲塔を房州洲崎第一砲台へ

巡洋戦艦「鞍馬」の砲塔を房州大房岬大房崎砲台へ

戦艦「攝津」の砲塔を対馬龍ノ崎第一砲台と第二砲台へ

戦艦「土佐」の砲塔を釜山港外張子嶝砲台へ

 

壱岐要塞の廃墟(ごく一部)

壱岐要塞の廃墟(ごく一部)

 

巡洋戦艦「赤城」の砲塔を長崎県壱岐黒崎砲台と対馬豊砲台へ

こうして(陸軍の)海防強化に貢献した蜻州丸は、大東亜戦争が始まるとシンガポールを拠点に南方での輸送任務に投入されました。
バタビヤ・スラバヤ・リンガエン・・・

海軍が押し込まれるとともに活動範囲は狭まりましたが、無事に大東亜戦争を生き延びます。

戦後の活躍

敗戦国の悲しさ、大日本帝国陸海軍の艦艇・船舶は連合国に分け取りされてしまいました。

と言ってもソ連・支那はありがたく使いやがったのですが、英米はフネなんぞ要りませんから、せっかくの優秀船をスクラップとして売り払ってしまいます。

ところが、イギリスに接収された蜻州丸だけは別扱いでした。

大英帝国は蜻州丸を香港に常駐させて大日本帝国に支配されていた時の「復興」に当たらせたのです。

具体的には蒸気機関車の陸揚げ。
残念ながら、どんな形式の機関車を何両揚げたのかは資料がありません。何枚かの写真があるだけなのです。

香港での蜻州丸

香港での蜻州丸1

 

香港での蜻州丸2

香港での蜻州丸2

 

香港での蜻州丸3

香港での蜻州丸3

 

香港で使役され、昭和21年に海難(台風説あり)で失われた、としか判りません。

彼女が運んだ大砲も今やどの要塞にも無く、いや、要塞すら姿を消し、いまや静かに夏草が茂るのみとなってしまいました。

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