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目立たない功績3~二等輸送艦と予備艦長~

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海軍の「戦力」は航空母艦や戦艦だけではありません。
第二次大戦で戦ったどの海軍でも、最も奮戦した艦種は駆逐艦だ、とはよく言われることです。

電脳大本営も同じ立場なんですが、駆逐艦よりもっと小さな「○○海戦」のお話なんかには絶対に登場してこないフネたち。彼女たちだって無くてはならない働きをしていた事もちょっとだけ知っておいて頂きたい、とも思っています。

発想は我が軍

目立たない功績1では知られることの少ない測量艦と観測船を、目立たない功績2では一等輸送艦を紹介させて頂きました。

今回はメインで二等輸送艦を紹介したいのですが、このフネを紹介しようとすると陸軍のあの船を知って頂かなければなりません。

二等輸送艦

二等輸送艦

なお、一等輸送艦・二等輸送艦はこの類別に該当する艦が他にありませんので、電脳大本営では類別名をもってその艦型名としています。
正式には一等輸送艦は「第一號型第○號輸送艦」(○は一桁か二桁)、二等輸送艦なら第一〇一號型第×號輸送艦」(×は三桁)となります。二等輸送艦には「第一〇三號型」もありますが、これは主機を本来のタービンにしたもので、艦型は同じです。

まずは二等輸送艦の建造の経緯と要目です。

ガダルカナル島への輸送作戦の戦訓から、一等輸送艦を誕生させた大日本帝国海軍。しかし、陸軍はまだ戦車や重火器などを揚陸するには時間がかかるとして満足ではありませんでした。

一等輸送艦

一等輸送艦(第四号輸送艦)

このため、一等輸送艦とは別建てで海岸(砂浜)に直接乗り上げて重量物を陸揚げする輸送艦が企画されたのです。

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870トン、72.0m、全幅9.1m、16ノット、搭載能力:220トン、8cm高角砲(単装)×1、25mm3連装機銃×2・単装×10、爆雷12個。

設計は、異例の呉海軍工廠が担当(基本設計は艦政本部)。一部(Wikiなど)ではイギリス軍の戦車揚陸艇「LCT」の図面(ドイツから提供されていました)をヒントにしたと言われていますが、後述するようにこの艦は我が国(我が海軍、ではありません)独自のアイディアであり、英米がこれに追随したものであります。
「LCT」の構想は防衛で手一杯だった大英帝国からアメリカに譲られ、「LST(戦車揚陸艦)」として結実。戦場に登場した「LST」は枢軸国を大いに苦しめることになりました。

LST

LST

二等輸送艦の外見は、前部甲板を広く取り、艦橋は後部に配置。艦尾に目立つ錨などが米海軍のLSTに良く似た姿ですが、LSTは1600トンもあります。

艦首もLSTのように観音開き式ではありません。
艦首は平面の一枚扉になっていました。着岸するとこの平面が前の方に倒れて、渡し板(踏板)代わりとして車両が走行できるようになっていました。

艦内の格納庫の大部分と上甲板は車両の搭載スペースとなっていました。2か所合計で九七式中戦車又は一式中戦車・4式中戦車9両、4トン貨物トラック9から10両が搭載可能とされています。
艦内の格納庫の方には傾斜した内扉が設置されており、格納庫からの車両が上陸する時には上方に釣り上げられます。上甲板の車両を揚陸するためには、この扉を下してスロープにするわけです。

二等輸送艦 艦型図

二等輸送艦 艦型図

こうする事によって、二等輸送艦は迅速なる戦闘車両揚陸を可能にしたのであります。もっとも、そのためには砂浜に乗り上げる必要がありましたけど。

で、この発想の元祖は大日本帝国陸軍なのであります。皆さんご存知の「大発」なんです。
電脳大本音を訪ねて下さる方はお間違いはないでしょうが、「大発」を海軍の開発と思ってる方も多いようです。「大発」はれっきとした「陸軍船舶」であります。

大発の開発

大発動艇の構想は何と第一次世界大戦まで遡ります。

第一次大戦のガリポリ上陸作戦(連合軍がオスマン帝国の首都イスタンブール占領のため、ダーダネルス海峡のガリポリ半島に上陸したものの、トルコ共和国建国の父・ムスタファ・ケマル等の活躍で敗退)で植民地軍を含む英軍が大々的な敵前上陸を敢行しました。

大発

大発

この上陸戦は何か所かで失敗、何か所かでは成功しているんですが、成功した上陸でもその損害は決して小さなモノではありませんでした。

この上陸戦を世界中の陸軍が注目し、「揚陸専門艇」が必要として研究を始めました。しかし、その研究は「装甲つき艀(はしけ)」が多く、我が陸軍のように大小の発動艇を建造しよう、と言うものは前述の英軍の戦車揚陸艇まで無かったのです。

「揚陸専門艇」=大発の開発ポイントは「船首の形」でありました。
小さな艇とは言っても、どんな条件下で揚陸したり、渡河に使ったりするか判りません。揚陸に便利なように、とは言ってもある程度の凌波性は持たせる必要があります。

通常の船のような船首なら、凌波性には問題が出ないのですが、接岸後に重量物を揚陸するにはこの形は不便です。

わが陸軍はまず後に「小発(小発動艇)」と呼ばれるようになる、通常の船首を持った一種のモーターボートを造りました。
全長10.7m、3.5トン、8~10ノット、積載量は人員30名又は貨物3tの
「小発」が採用されたのは昭和2(1927)年。
実際に運用してみると便利ではありましたが、重量物の揚陸には苦労させられました。

小発

小発(小発の画像は珍しいでしょ)

さらにこの頃から、戦車の整備計画が軽量戦車に重点を置くようになり(このあたりは結構複雑ですので、詳しく触れる能力がありません。お詳しい方の解説をお願いしたいところです)、戦車を運搬・揚陸することが現実となってきました。

たとえば、八九式中戦車だと重量11.5トン、横幅2.2mです。
これを収容して、速やかな揚陸を可能にしなければなりません。

八九式中戦車

八九式中戦車

小発より大きな「上陸用舟艇」の開発が急がれました。幾つかの形式を試し、最終的に「大発C型」として一応の完成を見たのが昭和5(1930)年でした。

これは船首部船体の一部を歩板とした型式で、同じく船首部分の底部をW型(Wキール)にしてありました。これが揚陸のミソで、砂浜に乗り上げ易く、離岸も簡単にできるようになったのでした。
全長13.9m、8トン、エンジン60馬力ガソリンエンジン、8.8ノット。

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これでは、肝心の戦車搭載・揚陸にはまだ小さかったので、一廻り大型のD型が量産タイプとされ、主機をディーゼルに変更しています。

こうして戦車の迅速な揚陸が可能となったD型は、全長14.8 m、9.5 トン、完全武装兵員70名を収容または武器弾薬11トン搭載、9ノット。
場合によっては15センチ榴弾砲を搭載して、砲艦としての運用も出来たそうですが、舷側方向つまり横向きに撃ったら転覆したんじゃないかと…。

二等輸送艦の話だった(~_~;)

大発の開発と運用や活躍についてはあまり語られることが多くないので、つい力が入ってしまいました。これらについては、また頁を改めることにいたしまして、本題の二等輸送艦です。

この艦は一等輸送艦とほぼ同時に企画されましたので、量産性を重視した(もちろん急速揚陸を優先)設計になっています。

二等輸送艦の揚陸風景

二等輸送艦の揚陸風景

一等輸送艦と同じく、艦体の形状は工作を容易にするために直線と平面だけで構成されています。一隻分の艦体は3個のブロックに分けて建造、これも一等輸送艦と同様に実物大のモックアップも用意されて製造の際の便利が計られていたのです。

二等輸送艦の一号艦(第101号艦)は昭和19年3月に完成、以降敗戦までに75隻を起工し69隻の完成を見ています。建造期間は第101号艦が4か月でしたが、徐々に速くなり平均は3か月、最も早い艦だと2か月の記録があると言われています(沢渡未確認)。

前述したように「強行輸送」を想定していたために、小柄に似合わぬ強武装ですが、艦体形状からくる航行音の大きさから、水測兵器は搭載されなかったようです。

これも「強行輸送」のため、高速を発揮できるようにタービン機関を採用、2,500馬力で公試速力17ノットを記録しています。
なお、竣工当初はこのタービンが間に合わず、ディーゼル主機装備の艦もあり、ディーゼル主機の二等輸送艦は第百一号型と呼ばれています。

また、罐(ボイラー)は当初重油専焼でしたが、昭和20(1945)年1月以降に起工された艦は石炭専焼に変更されています。石炭専焼艦は煙突を延長して艦橋構造物より高くなっているのが特徴です。

さてさて、これだけではながながと大発の話をさせて頂いたワケが判りませんよね。二等輸送艦は迅速揚陸のための艦型と仕組みを丸ごと大発からパクっているんです。

二等輸送艦の最大の特徴は、砂浜に直接のし上げて搭載車両を自走で陸揚げし、速やかに離岸して退避できる船体構造にありました。

このために船首部分の船底を大発と同じくW形に成型してあるのです。通常の船底では砂浜に食い込んでしまって岸離れが悪くなります。かといって平底では凌波性が悪くなってしまいます。

大発よりも長距離、外洋を航走することが目的の二等輸送艦にとって、凌波性の悪さは致命的です。その矛盾する要求を同時に満たしたのが「W形」でした。

進水する二等輸送艦

進水する二等輸送艦 艦底部の形状にご注意

また、着岸と離岸の方法にも一工夫が。大発と同じく艦尾部分に錨が装備してあるのです。私が下手な説明を書くより、図を見て頂けば一目瞭然でありましょう。

二等輸送の接岸・離岸手順

二等輸送艦の接岸・離岸手順

そう、大きさは違えど二等輸送艦は大発の拡大コピーそのものだったのです。そして大発がありとあらゆる戦場で下働きに徹して日本軍(陸海問わず)を支えたように、二等輸送艦も大東亜戦争後期の皇軍を支え続けたのでありました。

二等輸送艦の戦績

二等輸送艦は完成すると、ごく短期間の訓練をしただけで各方面への物資輸送に駆り出されました。フィリピン・パラオ・ジャワ島・シンガポール・硫黄島・台湾・沖縄…
本来の任務の重火器や戦車・戦闘車両ばかりでなく工事用車両・武器弾薬はもとより、糧秣(食料・飼料)・建設資材などなど、ありとあらゆる必需品を運んだのです。

特に目立つのは「多号作戦」でしょうか。多号作戦とは台湾沖航空戦の大勝利(大本営発表)を受けて、フィリピン防衛体制を変更する為、ルソン島からレイテ島オルモック湾に強行輸送を掛けたモノ。

昭和19年の10月末から12月初旬にかけて第一次~第九次まで(数え方には所説あり)実施され、護衛の軽巡1、駆逐艦8、海防艦・哨戒艇・駆潜艇などに多くの損害が出てしまいました。

敵戦車の砲撃で大破した159号輸送艦

敵戦車の砲撃で大破した159号輸送艦

マニラに派遣されていた二等輸送艦8隻もこの作戦に参加、5隻は輸送に成功したのですが、3隻は戦没。
第七次の輸送作戦では「第159号輸送艦」が揚陸中に、敵戦車が接近。戦車砲の乱射を受けてボコボコにされてしまう事態もありました。

さらにサイパン失陥後には、硫黄島への兵力増強・武器弾薬の輸送に二等輸送艦が活躍します。
なんと延べ17隻が硫黄島輸送に投入され、戦車を含む武器・兵器・弾薬・資材、そして何よりも食糧を運び込んだのです。

なかには157号輸送艦のように、6回も輸送に成功し、7回目(昭和19年12月17日)で敵機動部隊に捕捉されてしまい、揚陸途中で対空戦闘に移るも、ついに撃沈された艦もあります。
157号輸送艦の生き残った乗組員は陸戦用の武器を持たないため、乾パンを齧りながら爆撃された飛行場の修復に従事、サイパン爆撃のために飛来する「天山」や「月光」の安全な着陸に貢献しています。

彼らは第134号輸送艦が12月30日に硫黄島に到着したことを幸いとして、これに同乗。横須賀へ生還して、再び国を守るために戦ったのであります。

予備の艦長

最後に、二等輸送艦・一等輸送艦の陰の部分にも触れておかなければなりません。
大東亜戦争の不利になった時期、派手な戦果は一つもありませんが確実に日本の戦線を支え続けた「輸送艦」の乗組員について、です。

輸送艦は一等21隻・二等69隻と多くが短期間で建造され、次々と前線に投入されていきました。

特二式内火艇を揚陸する二等輸送艦

特二式内火艇を揚陸する二等輸送艦

90名の「輸送艦長」が誕生したわけですね。艦艇類別表では、駆逐艦・潜水艦と同等の「艦艇」に類別されていますので、「軍艦」類別の戦艦や巡洋艦の艦長のように、単に「艦長」とは呼べませんが艦長には違いがありません。

この艦長をはじめ、士官たちは「予備」で固められていました。もちろん士官が足りない、という説明は成り立ちますが、正規の幼年学校出の士官は「輸送艦長」にはなっていないのです。

特攻隊では「機械の部品なら、正規品が壊れてから予備を使うものだ。予備から使うなど聞いたことがない。」と笑って飛び立った英霊もおられました(もちろん予備士官の方です)。

輸送艦長以下の予備士官たちは、だれも不満を漏らさず、正規士官が出来ない困難で危険な任務に立ち向かったことも、覚えておいていただきたいと思います。

また、海軍がこうした露骨な人事を行ったことも、私たちは記憶にとどめておくべきだと思います。

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