葛城級コルベット「武蔵」

目立たない功績~測量艦と観測船~

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こんなフネをご存じでしょうか?

排水量1400トン、全長83.3メートル・全幅10.6メートル、速力19.7ノット、武装;12.7センチ高角砲連装×2基、25ミリ機銃連装×2基、爆雷投射機(両舷式/Y砲と思われます)2基、爆雷20個。零式3座水偵1機搭載。

大日本帝国史上初

測量艦筑紫

測量艦筑紫

大きさからすると駆逐艦?爆雷投射機も積んでるし。それにしては劣速で魚雷を積んでない。
しかも1400トンしかないのに、結構デカい3座水偵なんぞ積んでるって?

お判りの方はかなりのマニアでしょうね。判らなくったって、まあ当たり前です。

この艦は測量艦「筑紫」と言います。昭和12年の計画艦で、大日本帝国海軍初の「新造測量艦」でありました。同型艦はありません。

大日本帝国の国内の地形図の作成は陸軍参謀本部の担当業務でした。
そのせいか、当時の5万分の1の地図は要塞や鎮守府の所在地などが空白になってたりして面白いものです。

一方、海図は海軍の担当とされて、海軍は陸軍よりも張り切って「水路部」と言う組織をわざわざ新設致しました。
ただ、組織はつくったものの使用するフネにまでは手が回らず、その場その場で適当なフネを使ったり民間から借り上げたりのショボさ。

そのショボさの中でも、初代「大和」「武蔵」(葛城級のコルベット)と言ったフネが臨時の測量艦となり、日本海で大和堆や武蔵堆を発見するなどの功績をあげています。

初代大和(葛城型巡洋艦)

初代「大和」(葛城型コルベット)

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あの「天皇陛下の浴槽」が「日本海」と世界的に呼ばれているのには、こんな理由もあるのです。
この記事のアイキャッチ(上から二番目に表示される画像)が初代武蔵のイラストです。

カタパルトにセットされた零式水偵

カタパルトにセットされた零式3座水偵
「筑紫」にカタパルトはありません

 

まあ、それはさておき。

海軍のすべての作戦は海図が無ければ成立しません。測量だけでなく、各海域の気象観測とそのデータ集積や地磁気の測定(コンパスの正確な作動のため)も併せて水路部が担当し、大東亜戦争の敗戦に至るまで地道に活動が続けられたのでございます。

強行測量艦

水路部が誕生した明治4年から、適当に空いてるフネを使って行われてきた測量(その他)なのに、昭和12年になって新造艦を造ろうとしたのにはもちろんワケがありました。

キーワードは「南進」です。このころから日本の対外進出方針を巡って「北進」つまり対ソ連を重視するか「南進」して対米英を覚悟するのか?が議論されるようになります。

「北進」すれば海軍はこれ以上の軍備の必要なくなってしまいますので、お役所の本能として「南進」支持。ところが南進する先の作戦海域はアメリカ・イギリス・フランス・オランダの領海です。

我が国に海路図などありませんし、「今度攻撃させてもらうから、事前に測量させてね。」と言っても素直にさせてくれるワケがありません。

そこで建造されたのが「筑紫」、武装はまだ占領できていない敵地沿岸海域を強行測量するための装備だったのです。

「筑紫」は昭和16年12月17日に三菱造船横浜造船所で完成、第三艦隊に編入されて大東亜戦争の緒戦から投入されます。

攻撃に先立って

「筑紫」はセレベス島のメナド攻略戦、ケンダリー攻略戦、バリ島攻略戦、ジャワ島攻略戦などで先鋒として投入され、もちろん「強行測量」を行って後続主力のために海図を用意したのでした。

さらに蘭印攻略後はボルネオ島・セレベス島・ジャワ島・スンダ列島などの周辺海域、フロレス海・ジャワ海などを測量。
続いてカロリン・マーシャル・ソロモンの各諸島海域を踏査してマキン・タラワやラバウル攻略に大いに貢献しています。

大東亜戦争緒戦の快進撃は「筑紫」(その他の観測船も活躍しました)の目立たない活躍もあってのことだったです。

「筑紫」は任務の性格上、ガタイの小ささのわりに長い航続距離(8000カイリ)が求められたため、このころの大日本帝国海軍の軍艦としては珍しくディーゼル推進を採用していました。
そしてこれも軍艦としては珍しい3軸推進だったんですが、これも測量の時に微速で行動しやすいように。微速時は中央1軸で操船したんですね。

水深が浅かったり、狭かったりする所を測量するために10メートルの測量艇(発動機付き)を4艘も搭載、特殊な測定機材も各種そろえてあったそうです。
現在と違ってデータは全て「紙」で保存・提供されますから、測定結果をすぐに海図に落とし込んで印刷する「海図室」や「印刷室」も完備していたのでございます。

乗組員も非戦闘員の水路部職員65名を入れるとなんと193名。ほぼ同トン数の「睦月型駆逐艦」が150名(時期によって前後あり)程度の乗り組み定員だったことを考えると、かなりの過密状態だったことでしょう。

大日本帝国の水兵さんや下級士官は有能かつ忍耐強い、優秀な海兵ですから、文句を言った記録が見当たらないのですが、「居住性の悪さ」が「筑紫」の大欠点だった可能性は高いと思われます。

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最後はあっけなく

「筑紫」は昭和18年5月に第8艦隊に転籍し、南太平洋方面(前記カロリン・マーシャル・ソロモンなど)での測量任務に就きました。

時期と場所から想像された方も多いと存じます。そう、「筑紫」は徐々に護衛任務に就かされることになってしまいます。
強行測量の為の「強武装」は対空・対潜を考えると心もとないモノなのですが、「筑紫」は不平を漏らすことなく(まあ、フネですから)輸送船団に随伴しておりました。だって、主力艦は働かないんだもん。

昭和18年11月、「筑紫」はニューアイルランド島カビエンで磁気機雷を感応させてしまって沈没。
殆ど誰に知られることもない「軍艦」ですが、大東亜戦争開戦以来、常に最前線で行動して、大日本海軍の「水先案内人」を務めた功績は絶大だと、電脳大本営は考えています。

なお「筑紫」が抜けた蘭印方面の海図は、敷設艦「勝力」が測量艦に転籍されて引き継ぎました。

もっと小さな「観測船」が大活躍

さてここから、本項のもう片方の主人公船なのであります。

そう、「艦」ではなくて「船」です。即ち艦艇類別表には乗っていません。徴用の民間船等のように「特務艇」にも属していません。

同じ海軍でも前述「水路部」が発注した純然たる「非戦闘船」の筈だったのが「海洋観測船」、その名も「海洋」でありました。もうちょっと名前を考えてやれよ。

排水量277トン、全長37メートル、11ノット。トロール漁船に毛が生えたみたいなモンです。
「海洋」は昭和16年から18年まで同形艦が6隻建造され、「第一海洋」~「第六海洋」と名付けられて海上での定点観測に酷使されました。

海洋観測艦「第5海洋」

海洋観測艦「第5海洋」
海上保安庁に移籍後

気圧・風向き・風速・気温・海流などの気象の変化を記録して作戦海域の気象予報を出すのをお仕事にしていたのですが、戦況の逼迫に伴って武装が施されることになります。
13ミリと25ミリ機銃(単装)が装備され、爆雷も積み、戦闘要員として海軍省水路部の職員じゃなくて、海軍軍人が配置されるようになりました。

大日本帝国海軍が追い詰められるにつれ、「海洋」は船団護衛にも駆り出され、末期には「震洋」や「海龍」の特攻戦隊の司令艇にもなりました。

震洋

震洋

そんな中で6隻の「海洋」のうちで4隻までが爆撃や潜水艦の攻撃で失われてしまいました。敗戦時まで残存したのは第四と第五の2隻の「海洋」だけ。

どの「海洋」も小さなカラダで大日本帝国のために戦ったことに変わりはありませんが、特に「第五海洋」は私たちの良く知っている戦場で活躍しています。
「第五海洋」は昭和18年初めから千島列島からアリューシャン列島海域で気象観測業務に当たっていたのです。

美髯提督・木村昌福

木村昌福

 

キスカ島からの「奇跡の撤退」は気象を味方につけたモノであることは皆さんご存知の通り。あの美髯提督の決断を支えていたのは小さな「第五海洋」が集めたデータだったのです。

敗戦の後も

大東亜戦争を生き延びる事が出来た第四と第五の「海洋」は新しく出来た海上保安庁に所属して、海洋気象の観測を続ける事となったのであります(船名は後に「丸」を付けましたが、面倒なので本記事ではそのまま)。

そして昭和27年9月17日。伊豆七島の鳥島の南の海上(ベヨネーズ環礁付近)で大規模な海底火山爆発の情報が海上保安庁に入りました。

爆発を発見したのは近くを航行していた漁船「第一明神丸」で、海上保安庁は直ちに一隻の巡視船を派遣して現地付近の航行の安全を確保しました。

一方でめったにない海底火山の爆発を観測しなければなりません。保安庁は「第五海洋」を現場で観測に当たらせることにしたのです。
「第五海洋」は9月23日に東京港から伊豆七島へ向かいましたが、同日22:30の定時連絡を最後に連絡が途絶えました。

海上保安庁では5隻の巡視船・巡視艇を派遣、アメリカ軍にも捜索を依頼する対応策をとり、27日に至って「第五海洋」の船体の一部や積荷が回収され、遭難したことが確実となりました。

測量船第5海洋丸に近づくカッター

「第5海洋」に近づくカッター

調査の結果、行動中の「第五海洋」の至近で猛烈な海底火山の爆発が生じ、その直撃によって船体が粉々に粉砕されたものとされました。

小さな船体で激烈な太平洋戦線を駆け回り、ついに大東亜戦争を生き延びた「第五海洋」の壮絶な最期でありました。

しかし、電脳大本営的にはこの「最後」には疑問が残っています。
「第五海洋」には火山の専門家が乗り込んでいた筈です。それなのに何故危険な海域に入り込んで観測しようとしたのか。
一説では危険海域ではなく、「ベヨネーズ礁付近から観測していたがベヨネーズ礁でも海底爆発が起こったのだ」としていますが、火山の爆発で近傍の火山も影響を受けるのは素人でもわかる事。

歴戦の小海洋観測船の最後は謎に満ちております。
電脳大本営としては、未知の巨大生物に襲われた、と信じているのであります。

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