明治初期の横浜浮世絵に描かれた蒸気戦列艦に関する若干の考察-5

-三代広重「横浜海岸鉄道蒸気車図」とフランス軍艦「ブルターニュ」-

5. 幕末の動乱と蒸気戦列艦

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本節では、英国の蒸気戦列艦が欧州で第一線を退いた1860年代初頭以降、東アジア海域にその姿を現し、幕末・維新期の日本に強いインパクトを与えていたことを確認する。
これにより、三代広重が敢えて「時代遅れ」になった艦を描いた動機について、一定の理解を得られるであろう。

東アジア海域に派遣された蒸気戦列艦のなかで最初期のものは、1864年に極東艦隊(China Station)の所属となり、下関戦争に参加した「コンカラー」であると思われる。

 

*下関戦争 1864年11月19日付ILN紙より

前年の薩英戦争では、英国はフリゲート艦を主力として戦ったが、旗艦「ユーリアラス」が薩摩側の砲撃により大破して艦長が戦死、戦闘による死傷者は薩摩藩の3倍に上るなど予想外の損失を蒙り、フランス極東艦隊司令官ジョレスに至っては本国に宛てた報告の中で英国の鹿児島遠征を失敗と表現するほどであった。
フリゲート艦とは比較にならない戦闘力を有する戦列艦の派遣は、従って、英国極東艦隊の増強を目的とするものと見てまず間違いない。選ばれたのが装甲艦でないのは、フランスとの熾烈な建艦競争を展開する英国には、本土から遠く離れた海域にこれを派遣する余力がなく、また日本や清国などが保有する兵器の水準からして、戦列艦が依然として有用であると判断されたためであろう。
実際、下関戦争で「コンカラー」は炸裂弾を発砲して長州藩の砲台に打撃を与え、さらに450名の海兵隊員を上陸させて破壊された砲台を占領するなどの働きを見せたのである。
この年には、極東艦隊の旗艦も蒸気戦列艦「プリンセスローヤル」に替わり、1867年には同「ロドニー」がこれを引き継いだ。「ロドニー」は英国海軍に残る最後の蒸気戦列艦となり、1870年に旗艦の地位を装甲艦「オーシャン」に譲り退役している。

*蒸気戦列艦プリンセスローヤル

三代広重が件の浮世絵を制作する僅か数年前まで、東アジアの海には蒸気戦列艦が君臨していたのである。しかもこれらの艦は、激動の最中にある日本へ頻繁に来航していた。この事実は、まさに特筆されねばならない。
「プリンセスローヤル」は1865年、兵庫開港を迫る英仏蘭連合艦隊に参加し大阪湾で大規模なデモンストレーションを行い、翌年には薩摩を訪問する英国公使パークスの乗艦として用いられた。
「ロドニー」は1868年に行われた兵庫開港を祝う英仏米の艦隊による二度目の示威行動に加わり、また、同じ年に明治天皇によるパークスへの公使信任状奉呈式のため、兵庫に入港している。
(鳥羽・伏見の戦いの折には徳川慶喜を救出するため、大阪湾に急行したとの情報もあるが、残念ながらウラが取れなかった)
ある英国人研究者は、これらの英国軍艦をして、ごく控えめに「艦隊は主として外交的目的のために用いられた」と評しているが、日本の朝野に与えた影響は非常に大きなものだったであろう。

例えば兵庫沖での一回目のデモンストレーションは、それが京畿から一日の距離にある場所で敢行されたことで、それまで攘夷一本鎗であった朝廷を震撼させ、最終的に幕府の要請を容れ兵庫開港等、欧米列強の要求を認めることとなったのである。

*二度目の示威行為で兵庫沖に集結した英仏米の三か国連合艦隊
1868年3月28日付ILN紙より

ところでここに、一つの奇妙な事実が存在する。1860年代後半、英国極東艦隊には新鋭の航洋型装甲艦「オーシャン」が配備されたにも拘わらず、旗艦は引き続き蒸気戦列艦が務めていたことである。
無論、戦列艦に対する装甲艦の揺るぎない優位性は、はっきりと認識されていた。
維新期の日本に滞在していた英国の外交官、ミットフォード卿は次のように書き記している。

「一八六九年の終わり頃、オーストリア使節団が日本と条約を結ぶために来日した。…使節団の団長ペッツ提督はリッサの海戦の英雄で、非常に興味深い人物であった。…リッサの海戦は、装甲艦が初めてその役割を果たした戦いであった。…ペッツ提督は当時、准将として古臭い木造の戦艦カイザー号の指揮官であった。…彼は艦橋の上にいたが…装甲艦の中でも最強として恐れられていたレディタリア号の巨体が目の前に迫ってくるのが見えた。鉄と樫の木では、戦いは問題にならない。」

*リッサの海戦での墺海軍将兵

2節で触れたリッサの海戦における、蒸気戦列艦「カイザー」の戦闘を指揮した人物がこの場面で登場するのは些か因縁めくが、それ故に蒸気戦列艦が旗艦とされ続けたことの不可思議さが際立つと言えよう。
実際、英国の砲艦外交でハイライトを浴びるのは装甲艦ではなく、常に戦列艦であった。
例えば、1868年のパークスへの公使信任状奉呈式後の祝典について、アーネスト・サトウの述懐を引用しよう。

「われわれは祝砲を放って、イギリス女王の誕生日を期日に先だって祝ったのだが、その際日本の貴人が大勢ロドニー号に来艦して、提督と軽食を共にした。山階宮が女王の健康を祝って乾杯を唱え、臨席の各員が心からこれに和した。来賓の大部分は知識のある人々なので、態度もよかったが、長州侯は大きい赤ん坊のようにふるまって、私を隣席へすわらせようとしてきかず、またシャンペン酒をからだに悪いほど痛飲した。…天皇の母方の叔父の子息はヨーロッパの猫を見たいとせがみ、また一人の大官は黒奴をみたいと言い出したので、私たちはこれらの希望をかなえてやるのに苦労した。外国事務局督は、もちろん礼砲を発射して迎うべき人であるが、この人は火薬をあまり詰めないでほしいと言った。どえらい砲声で耳をいためるといけないからだった。」

*蒸気戦列艦ロドニー(模型) 神戸海洋博物館蔵

これは筆者の憶測の域を出ないが、戦列艦のこのような「優遇」の背景には、外観上の威容があるのではないだろうか。百門近い砲を舷側から突き出すその姿は、近代海軍技術の素養に乏しい当時の日本人にとって、殆ど呪術的といってよい畏怖の念を呼び覚ますものだっただろう。
無論、そのような幻想が打ち砕かれるのは時間の問題である。1869年、新政府軍は小型とは言え日本初の装甲艦を米国から購入した。英国極東艦隊の旗艦が蒸気戦列艦から装甲艦へと交替したのは、まさにその翌年のことであった。

*日本初の装甲艦 東

しかし、その時点で英国主導による欧米列強の日本に対する砲艦外交はほぼ完了していた。結果、軍人や一部の政府関係者を除く多くの日本人の脳裏には、力のシンボルとしての蒸気戦列艦の姿がしばらくの間保存され続けたであろう。
三代広重もその例外ではなく、彼が自らの作品において西欧の強大な海軍力を表現しようとしたときに、それがバウスプリット上に英国の軍艦旗様のものを掲げた巨大な蒸気戦列艦として顕現したのは、ごく自然な成り行きであったと考えるのは、穿った見方であろうか。

*装甲艦オーシャン
戦列艦に比して、シンプルな見た目をしている

【補記】
「横浜海岸鉄道蒸気車図」の特色の一つは、描かれた船舶群に満艦飾が施されていることである。では、当時の日本人がそのような光景を実際に目にする機会はあったのだろうか?
一つの可能性として、1869年のエディンバラ公(ヴィクトリア女王の第二王子)来日が挙げられよう。9月4日に皇居で明治天皇に拝謁したエディンバラ公は、その後東京に入港したフリゲート艦「ガラテア」に乗艦、横浜へ移動した。その時の様子を英国公使パークスは次のように描写している。
「殿下を護衛して送るために三隻の船-ガラテア号、オーシャン号、パール号-が来航したのは、八日のことであった。皇族や高官たちが私たちとともに出かけて行った。親王(筆者註:仁和寺宮)はガラテア号上で歓迎を受け、昼食会の後に礼砲を受けながら再び上陸した。」
大規模なパジェントの一環として、英国艦隊が東京に入港していたのである。このとき、日本の皇室とエディンバラ公に敬意を表すため、満艦飾が行われたと考えても決して不自然ではないだろう。

*エディンバラ公を乗せて香港に寄港したガラテア
満艦飾に身を包んでいる

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