原田 健一氏による、戦中小学校の一情景

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戦争研究グループへの投稿ではありませんでしたが、大変興味深くて資料性もあると判断しましたので、研究資料として収録させていただきます。

 

原田 健一  正しい歴史を伝える会(フェイスブック・グループ)

私の母は昭和10年生まれの現在82歳です。
母は、昭和20年9月末まで2年間ほど旭川偕行社付属北鎮小學校という私立小学校に通っていました。

旭川偕行社というのは陸軍の、現在は自衛隊員の親睦互助会ですが、戦前の場合はその組織が陸軍軍人と軍属の子弟の教育のために何箇所か小学校を開いていて、そのうちのひとつが旭川にありました。しかし軍そのものの経営ではなく、偕行社という陸軍親睦互助団体が経営します。それゆえ私立の小学校なのですね。

私の母は小学校2年から小学校4年の9月までその学校に在籍していました。 祖父が陸軍将校で旭川にある第七師団勤務、通称旭川師団に転勤となって、一家で岡山県から北海道の旭川に引っ越して、母はその小学校に入りました。

旧日本陸軍将校の互助組織が経営する学校というと、無茶苦茶にスパルタ式でインテリが嫌いそうな教育を想像してしまいますよね。しかも私の母は昭和18年から昭和20年の終戦という、戦争バリバリの時代に在学していました。だから尚のことそういう風に想像してしまいますよね。

しかし、母から聞きくとその想像の正反対だったらしい。
旭川偕行社付属北鎮小學校は

1.教師は東京か広島の高等師範学校を出た若い教師が中心。

2.児童は旭川師団に勤務する軍人と兵士と軍属の子供。師団長から馬丁の子供までいました。

陸軍の一個師団というと所属人員は多ければ2万人位らしいですが、大部分は独身の兵隊さんですから、そのなかで職業軍人や軍属として妻帯者で官舎で暮らす人はかなり少なくなります。

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その将校の子弟で小学生が旭川偕行社付属北鎮小學校に通うのですから、児童数は100名ちょっと程度です。となりますと一学年がせいぜい1学級で、各学年も20人程度くらいだったのです。

職業軍人や軍属ですと旧制中学や旧制農林学校などを卒業して入隊したような人が多い。ということは教育レヴェルが割と標準より高い。そしてその奥さんも大体女学校卒業レヴェル。そしてこういう夫婦は当時の日本の中産階級なのですね。

支那では軍人は、というより軍閥が武力を嵩に着て掠奪を行い大金持ちですし、アメリカでもマッカーサー家は軍人でありながらフィリピンの植民地利権を保持していて財閥でした。つまり散々利権を培っていたのですね。

けれども、日本では軍人というのは江戸時代からの武士の精神が残っているせいか、あまり利権というものがなかった。まあクソ真面目なのですね。公務員という意識が結構強かった。しかし公務員で有るけど軍人は決して給料がよいわけではありません。むしろ当時の普通の事務の公務員より安かったかもしれない。増してや私の祖父みたいな下級将校はきついですよねえ。だから陸軍の互助会として偕行社という組織ができたのだと思います。

ということで、その偕行社で日本ではまだ少ない中産階級の子弟教育成すべく小学校を作っていたのでしょうね。この場合には中産階級とは、給与で生活しており高額な不動産などの資産を持たない中等教育以上の学歴がある夫婦の家庭ということになります。

こういう中産階級家庭では、農業をする土地は無いし、手に職をつけるほどの技術も無い。ただ、教育を受けることで公務員試験を受けて公務員になったり、企業で事務職に就いたりして就業機会を多くして生活してゆけるようにするしかない。ということで中産階級に合った教育を目指したのかもしれない。

母がこのようなことを言っていました。

先生は授業のときに生徒にたとえば九九みたいに暗記が無ければどうしようもないことは憶えさせるということもするけれども、生徒同士で議論させるということをする。例えば九九の授業中に生徒が

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二×九=十八(にくじゅうはち)と九×二=十八(くにじゅうはち)は同じですか?

何てことを言い出したりする。
その時には教員は

それじゃあみんなで考えよう。●●君はどう思う?

というような授業だったというのですよ。
それは母の担任の先生がそうであっただけではなく、他の学年の先生も同じだったそうです。色々わからないところを担任の先生だけではなく、他の学年の先生や、時には上級生も一緒になって教えてあげるというような具合。
こういう具合で、学年で輪切りをされていない教育内容だったというのです。

先生の指導の下で、年長の生徒が年少の生徒に教えるというような授業。これはまるで寺子屋みたいな教育ですねえ。それが日本陸軍の子弟ばかりの学校で行われていたんです。 お互いに教え合うことでより学習の中身が消化されて頭に入ったことと思います。

私が小学校四年になったときに母が私を座らせてこういいました。

あなたは四年生になったのだから、これからは下級生の面倒を見なさい。 そして自分の体験としてこういうことを言いました。

母が小学校四年のときに昭和20年。
すでに旭川まで米軍空母艦載機が空襲に来ていた。
下校時間にグラマンがやってくる。
道路を機銃掃射する。
下校する児童は4年生以上は3年生以下を庇いながら、
側溝や防空壕に避難させる。
防空壕に避難した場合、
地下水が湧き出て水が溜まっている。
しかし板を渡して椅子のようになっていて
何人か腰掛けられる。
その板に低学年を座らせて、
自分たちは水の中に立って空襲警報解除を待つ。

多分これは小学校四年当事に母が居た旭川偕行社付属北鎮小學校の若い先生がこのようにして下級生を守るように徹底的に教育したのだと思ってはいましたが、その理由は軍人子弟の学校だから年少者を守る模範的小国民としての教育だったのだろうと思っていました。

しかしながら、どうやら私の想像は違っています。
同じ学校に居るのだから助け合うという精神のようです。
陸軍将校の互助組織である偕行社の意向も有ると思う。

そしてその偕行社の付属小学校で教える教員たちは
若くて高等師範卒業。
当時の高等教育を受けた人材です。
彼らも陸軍将校と同じく中産階級として生きてゆく。
そうなると、陸軍将校の互助組織である偕行社の意向に反対であるはずが無い。
そして生徒はというと、陸軍軍人軍属の子弟。職業軍人や軍属は結構本を読みます。だから読書をするのが当たり前という環境で育った子供です。

当時の小学校の標準から言えば非常に環境がよい生徒。
それだから統制が取れていて、自由に討論しても変な暴走はしない。

というような条件がそろって、大東亜戦争末期で厳しい状況であったというのに、上述のような自主性と思考を重んじた教育が行えていたのではないかと思うのです。

それゆえに、教師も知識の詰め込みだけではなくて、生徒自身に考えさせる、教え合わせる、ということを行わせることができたのだと思うのです。

旧日本陸軍というと、海軍と比べて頭が悪いとか、何かと悪く言われがちです。司馬遼太郎も、残念ながら彼のエッセーで日本陸軍について褒めているのは見たことが無い。まあ徴兵中に敗戦だから無理は無いとしても、旧日本陸軍というのは知性が極度に欠如しているかのような印象を持ってしまいがちです。

しかしたった2年間とはいえ、私の母は陸軍互助会経営である旭川偕行社付属北鎮小學校での教育を非常に誇りに思っています。終戦後は旭川偕行社付属北鎮小學校は無くなったので、母は岡山県北部の田舎の公立小中高校を出ました。そして関西学院大学という自由でおしゃれな都会的学校に行きました。母は田舎者なのですが、に卑屈にならず、気後れせずにそういう自由でおしゃれな学校でやってゆけた。

これは、旭川偕行社付属北鎮小學校での自主性尊重教育があるから正しくプライドを持てていたからだと思います。もしも母がもっと秀才で京大とかに受かっていても、旭川偕行社付属北鎮小學校を出ていなければ、母には今ほど自由な思考が無くて違った姿であったと、息子の私が見て思います。

このように母が居た、陸軍互助会の作った小学校の教育を考えてみますと、旧日本陸軍というものに対してものの見方を変えるべきだと思います。

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