ツェッペリン飛行船団による英国本土戦略爆撃 ‐第一次世界大戦下の『バトル・オブ・ブリテン』-第4章:最後の戦い 1917-1918(後編)

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1917年10月の対英爆撃において多数の飛行船が喪われたことは、シュトラッサーをひどく落胆させました。しかし、その主要な原因が間もなく明らかになると、彼は持ち前の強い精神力を取り戻し、直ちに艦隊の再建に取り掛かったのです。
高高度飛行船が抱える致命的な弱点は、エンジンにありました。1917年に配備された「ハイトクライマー」と称されるこれらの艦は、重量を極限まで削ぎ落とした骨格と、流線型の船体を備え、完全武装で高度6,000メートルを航行できる筈でした。しかし、1914年に設計されたマイバッハ社の240馬力エンジン「HSLu」は、高空で運転すると低気温のために頻繁に故障するのみならず、たとえ稼働しても酸素不足のために出力が半減してしまうことが分かったのです。多くの飛行船が強風に押し流されたのは、このためでした。
マイバッハ社は高高度での使用に耐えうる新型エンジン「MBⅣa」を開発、17年の年末に就役したL58に初期モデルが装備されます。同艦は、試験飛行で素晴らしい成果を収めました。高度6,000メートルで叩き出した最高速度は時速97キロ。地表付近での最高速度(時速108キロ)と殆ど変わらないスピードです。

≪マイバッハ MBⅣa≫

MBⅣa成功の秘訣は、巨大なシリンダーにありました。これによって高い圧縮比を実現し、高度6,000メートルでも十分な馬力を得ることが出来たのです。過給機が未だ研究段階にあった時代ならではの解法と言えましょう。ちなみに、低空で全力運転すると過剰なエネルギーが発生してエンジンが壊れるので、245馬力を上限として制御がなされていました。
シュトラッサーは、新たに建造される艦は全て「MBⅣa」を搭載するものとし、既存の艦も換装を進めるよう命じました。生産上の隘路から、換装の完了は1918年上旬と判断されます。
また、英国上空で自艦の位置を失するトラブルが相次いだことへの対策として、無線による測定(本土にある複数の基地局から信号を発信、飛行船側では着信する各々の電波の強度を照らし合わせて位置を割り出す)の精度向上が図られました。

同じ頃、英軍も夜間防空戦力の向上に努めていました。もっとも、その狙いは、ツェッペリンより、ゴータ機の夜襲を抑止することに重きを置いていたのですが。
実際、彼らは1回の空襲で最大80機のゴータ機が襲来する恐れがあると見積もっており(実際には18年5月19日の28機が最多となった)、これに対抗すべく本土に展開する邀撃戦闘機を264機(17年3月時点では147機)に増強しようとしていたのです。
高高度でツェッペリンやゴータ機を迎撃可能な機種の導入も進んでいました。なかでも、ソッピース・キャメル(1917年に登場した制空戦闘機)を夜間戦闘機に改造したものは、離陸から31分30秒で高度6,000メートルに達するなど傑出した性能を示し、18年初旬以降、急速に実戦配備されて行きます。
英国防空隊は、ようやく切り札を手中にしたのでした。

≪ソッピース・キャメル夜間戦闘機≫

1918年3月12日、5隻のツェッペリンが英国中部を攻撃すべく出撃します。このうち3隻(L61、L62、L63)が新型エンジンを搭載し、残り2隻(L53、L54)は旧式のままでした。前者はいずれも、17年12月以降に完成した最新鋭艦で、L63に至っては2日前に就役したばかり。
また、L62にはシュトラッサーが乗艦しています。戦力再建の足掛かりをつかんだ今、飛行船部隊司令官がこの爆撃行にかける期待は並々ならぬものがあったでしょう。

≪ツェッペリンV級≫
*L62の同型艦

順調に北海を突破した艦隊でしたが、ブリテン島上空で大きな困難に直面します。高高度に広がる分厚い雲海に入り込むことを余儀なくされたのです。目視による目標の確認が不可能になった各艦は、無線測定に基づいて爆撃を行いますが、その精度は余りにも不十分でした。
L62はリーズを爆撃しようと試みますが、投下した爆弾は同市の55キロ東方に着弾しています。
無線測定は自艦の位置を知るための補助装置であり、照準に用いるのは無理があったというべきでしょう。
結局、この空襲による英国側の損害は死者1名、負傷者無し、物質的損害額3,474ポンド(現在金額で約2億円)に留まったのでした。

シュトラッサーはこの結果が余程不満だったのか、翌13日、エンジン換装未了の3隻(L42、L52、L56)を英国中部へ向けて送り出します。
ところが、この艦隊も、英国沿岸に到達したところで不運に見舞われました。今度は、強い東の風に曝されたのです。
昨年10月の失敗を繰り返すことだけは、絶対に避けねばなりません。午後7時13分、シュトラッサーは各艦に撤退を命令し、L52とL56は直ちに回頭して帰途に就きます。
しかし、マルティン・ディートリッヒ艦長が指揮するL42は、命令を無視し、進撃を続けました。午後8時42分、同艦は次の電文を受信します。
「宛:L42 帰投せよ 発:飛行船部隊司令官」

≪マルティン・ディートリッヒ艦長≫

後年、ディートリッヒ艦長は冗談交じりに語りました。
「英国の海岸が見えてきた。それで十分すぎるじゃないかね!半年もの間、彼の国を攻撃する機会に恵まれなかったというのに、今やブリテン島は目の前だ。そこへ、何もせずに帰ってこいという命令さ。『このまま進むぞ』私は副長に言ってやったよ。成功させる自信があったんだ。もししくじったら、職を辞する覚悟だったがね。」

午後10時5分、L42は宵闇に紛れて北海沿岸の港湾都市ハートルプールを爆撃し、1万4,000ポンド(現在価値で約8億円)の物質的損害と、死者8名、負傷者39名の人的損害を与えて帰還したのでした。
ディートリッヒ艦長の回想によれば、彼が報告書を携えてシュトラッサーのもとへ出頭すると、誰よりも軍規に厳格なことで知られるこの司令官は、「攻撃成功の栄誉を讃えて、貴君をハートルプール伯爵に任じよう」とだけ言って、ニヤリとしたそうです。

18年における3度目の英国爆撃は、それから1か月後の4月12日に行われました。この時は、新型エンジンを搭載した5隻のツェッペリン(L60、L61、L62、L63、L64)が中部の工業地帯を目指して飛び立ちます。
そして、またしても英国上空で深い雲海にぶつかることになりました。
こうなると、無線測定が頼りです。L60とL63、L64の3隻は、リーズへの攻撃を試みますが、測定の精度が低く、投下された爆弾は何の効果も挙げませんでした。

残る2隻は、ブリテン島中央部へ奥深く侵入し、敵国を震撼させます。
L62は随所で爆弾を投下しながら、最終目標であるバーミンガムへ向かいました。午後11時45分、同市の直上に到達したと判断したマンガー艦長は攻撃を命じますが、実際に爆撃を受けたのはバーミンガムから24キロ東南東に位置するコベントリーだったのです。
同艦は搭載していた爆弾(3トン)の殆どに当たる2.5トンを投下しますが、英国市民にとって幸運なことに、それらは全て無人の山野に降り注ぎました。そのなかには、巨大な破壊力を有する300キログラム弾も含まれていました。
これに対し、英軍は猛烈な対空砲火でこたえますが、高度5,800メートルを飛行するL62には手が届かず、同艦は悠々とドイツへ向けて帰途に就きます。

他方、L61はシェフィールドを目指して航行しましたが、途中で追い風を受けた影響を正しく把握できず、目標から西に75キロも離れたウィガンという田舎町を誤って攻撃しました。20分にわたる爆撃で、7名が死亡し、20名が負傷。物質的損害は1万1,600ポンド(現代の金額で約6.6億円)。これが新鋭のツェッペリン5隻を繰り出して行われた作戦の唯一の「戦果」となったのです。

3月からの一連の攻撃は、飛行船を兵器として運用することの難しさを、改めて浮き彫りにしたと言っても過言ではないでしょう。
この後、飛行船による英国爆撃は4か月にわたって中断されます。北海の哨戒に限られた戦力を割かれたことと、夜が短くなる夏至の前後は攻撃を控えるべきとの判断が下されたことが、その要因でした。
その間、シュトラッサーは失意に沈んでいたのでしょうか?もちろん、そんなことはありません。彼は実戦配備が目前に迫った最新鋭の巨艦に強い期待を寄せ、戦争の趨勢が明らかになった状況の下でなお、英国に致命的な一撃を与えんとする希望を、否、確信を失ってはいなかったのです。

X級と称されるその艦は、20年をかけて培われたドイツの飛行船建造技術の集大成とも言えるものでした。
全長211メートル、体積6.2万㎥。新型マイバッハエンジン7基を搭載し、時速130キロという空前の高速を誇ります。上昇限度は7,100メートル、英国爆撃時の爆弾搭載量は3.6トン。
18年4月時点で4隻の建造が進んでおり、1番艦のL70は7月に就役を果たしました。

初飛行 全長(m) 体積(㎥) エンジン スピード(㎞/h) 実用上昇限度 爆弾搭載量 建造数
M級 1914年5月 158.0 22,500 210馬力3基 83 3,000 0.5トン 12
P級 1915年4月 163.5 32,920 210馬力4基 92 3,500 2.0トン 22
Q級 1915年11月 178.5 35,800 240馬力4基 92 3,500 2.5トン 12
R級 1916年5月 198.2 55,220 240馬力6基 103 5,400 4.5トン 17
S級 1917年1月 198.2 55,220 240馬力5基 100 6,400 2.0トン 2
X級 1918年7月 211.2 62,180 245馬力7基 130 7,100 3.6トン 2

≪X級諸元≫

≪X級1番艦 L70≫

しかし、海軍上層部はX級を含む飛行船全体に対して、懐疑的になっていたのです。シュターケ提督は、7月28日にシュトラッサーと交わした会話を次のように回想しています。
「私は、シュトラッサーと、L70‐彼が言うところの飛行船の最終形態‐について議論を交わした。彼は、この艦に対する航空機の脅威は大きなものではないと私を説得した。もはや、私は彼に賛成できない。私は、L70の性能は攻撃を仕掛けてくる敵機から身を守るには不十分であると、シュトラッサーに説いた。」

それから1週間後の8月5日、シュトラッサーは自らL70に乗艦、新型エンジンを搭載(または換装を完了)した4隻の僚艦(L53、L56、L63、L65)を率いて英国本土爆撃へ飛び立ちます。
同日朝、出撃の指令が各艦に通達されました。
「英国南部および中部を攻撃せよ(ロンドンこそが飛行船部隊司令官の名において指示される唯一の目標である)。…参加艦船はL53、L56、L63、L65、L70。…飛行船部隊司令官はL70に搭乗する。 発:飛行船部隊司令官」
午後6時30分、艦隊はブリテン島の沿岸部に到達、高度を上げつつ日没を待ちます。午後9時、シュトラッサーは最期の命令を下しました。
「各艦へ告ぐ。作戦計画“カール727”に基づき、攻撃を敢行せよ。高度5,000メートルにおいては、西南西に秒速6メートルの風。 発:飛行船部隊司令官」

25分後、英軍防空隊グレートヤーマス基地から13機の邀撃機が発進します。その中には、ロールスロイス社製375馬力エンジン「イーグルVIII」を搭載した戦闘機、D.H.4の姿がありました。同機の上昇限度は高度6,700メートル、速度は高度5,000メートルで時速200キロに達します。

≪D.H.4≫

午後10時20分、1機のD.H.4がL70に襲いかかりました。高度5,000メートル強を飛行していた彼女にとって、それは全くの不意打ちとなりました。

≪L70の最期≫

炸裂弾を浴びたL70は炎に包まれ、為すすべなく撃墜されます。シュトラッサー以下、乗員全員が死亡しました。稀代の名司令官は、かくて戦いの空に散ったのです。

≪ドイツ帝国海軍 飛行船部隊司令官 ペーター・シュトラッサー≫

4隻の僚艦はかろうじて逃げ延び、ドイツへ生還しますが、彼女たちが英国へ向けて飛び立つことは二度とありませんでした。
海軍飛行船部隊はシュトラッサーのリーダーシップ無くしては成り立ち得ず、また戦局の頽勢が明らかとなる中では、目に見える効果を出せない英国本土爆撃に資材や人員を割く余裕は最早存在しなかったのです。

1918年11月、第一次世界大戦はドイツの敗北によって幕を閉じました。
生き残っていたツェッペリン艦は、戦利品として戦勝国へ引き渡されるか、あるいは格納庫内で破壊される運命にありました。
栄光のドイツ海軍飛行船部隊は、ここに終焉を迎えたのです。

本章を終えるにあたって、ドイツの飛行船による英国空襲の「成果」と代償について概観しましょう。

【「成果」】
1915年から18年までの期間に英国が被った人的損害は、実に死者557名、負傷者1,358名、物質的損害は150万ポンド(現代の金額で約860億円)に達しました。

死者 負傷者 物質的損害
飛行船 557 1,358 150万£
重爆撃機 857 2,058 140万£
合計 1,414 3,416 290万£

≪英国の損害≫

この他に、邀撃戦闘機隊のパイロット19名が死亡、86機が全壊または損傷しています。これは、主に夜間発着時の操縦ミスによる事故が原因です。
(重爆撃機の迎撃で死亡したパイロットは9名、42機が全壊または損傷)

また、英軍は本土防空のために少なからぬ戦力を割いていました。人員については、1917年年初の時点で、高射砲・サーチライト部隊に12,000名、戦闘機隊に2,200名、その他3,141名、合計で17,341名と記録されています。
機材については、18年後半の時点で、高射砲約400門(英軍が保有する砲の約半数)、邀撃戦闘機約250機(西部戦線の英軍機は1,576機、戦闘機はそのうちの約半数)が配備されていました。

最後に市民に与えた精神的な苦痛ですが、これについては明示的なデータは存在しません。
但し、最後の空襲から20年を経たミュンヘン会談の際には、ロンドン市民が自発的に防空壕を掘った事例が残っているので、かなりの「効果」があったものと思われます。
実際、WW1当時の英国のプロパガンダは、ツェッペリンへの畏れと憎悪を顕わにしています。

≪ツェッペリンの空襲を描いた英国のポスター≫
*「入隊せよ-家に留まることは、この種の行為に加担することになるのだ」

≪英国のポスターその2≫
*「自宅に留まって爆弾で殺されるより、銃弾に身を曝す方が遥かにマシだ-直ちに陸軍に入隊し、空襲を阻止する一助となろう-国王陛下万歳」

【代償】

飛行船による英国爆撃は大戦の全期間を通じて計54回行われ、延べ277隻が出撃しました。これに伴う損失は、戦闘機による撃墜8隻、高射砲による撃墜4隻、悪天候による事故5隻、計17隻となっています。
飛行船の建造費用は、戦争初期の小型のものは5万ポンド、末期の大型のものは15万ポンドと、時期によって大きく変わるのですが、平均して10万ポンドと推計されます。従って、17隻の喪失は金額換算で170万ポンドとなり、これだけでも英国の物質的損害額を上回ることになります。
また、対英爆撃作戦に従事して死亡した飛行船搭乗員は、陸海軍合計で158名。
ドイツ飛行船団の損失は極めて大きかったというべきでしょう。

なお、重爆撃機は延べ446機の出撃に対して、戦闘機による撃墜13機、高射砲による撃墜9機、38機が着陸時に全損等、合計で62機(ゴータ60機、ツェッペリン・シュターケン2機)が失われました。
ゴータの生産コストは1機当たり9,000ポンド、ツェッペリン・シュターケンは19,000ポンドなので、重爆隊の損失は金額換算で57万8,000ポンドとなり、飛行船よりは優れたコストパフォーマンスを実現していたと言えましょう。
また、人命の損失は57名と記録されています。

【備考:全戦線における飛行船団の損失】

ドイツ飛行船団は、対英爆撃以外の任務にも多数が投入されています。陸軍は欧州大陸の諸都市に対する空襲や敵地上部隊の攻撃に、海軍は遠洋哨戒や艦隊支援に、飛行船を用いました。
その結果、戦時中の生産数は、合計115隻にも及びます。すなわち、建艦にかかる費用だけで約1,150万ポンド(現在価値で約6,600億円)に達した計算となり、これはソッピース・パップ(大戦中期の英軍主力戦闘機)6,700機分、オライオン級超弩級戦艦6隻分に相当します。空中艦隊の建設は、まさに国家を挙げての事業として推進されたのでした。
しかし、艦隊は凄まじい失血を強いられます。115隻の内、撃墜されたもの17隻、天候不順等のアクシデントで失われたもの26隻、着陸時に破壊されたもの19隻など、戦闘および事故による喪失は合計で84隻に達しました。
(退役したものは22隻、戦勝国へ譲渡されたものは9隻)
飛行船団は、激戦を最後まで戦い抜き、ほぼ全滅したのです。
搭乗員の死者は、海軍が389名(養成した人数の4割)、陸軍が52名を数えました。

飛行船団の戦いは、空前の消耗戦となった第一次世界大戦の悲惨さを、如実に物語っていると言っても過言ではないでしょう。

≪撃墜されたツェッペリンの乗員を悼み、ロンドン郊外に設置された石碑≫

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