ツェッペリン飛行船団による英国本土戦略爆撃 ‐第一次世界大戦下の『バトル・オブ・ブリテン』-第4章:最後の戦い 1917-1918(前編)

2018/09/28

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1917年3月、英国本土で防空任務に就く邀撃戦闘機の総数は147機に達していました。前年後半、彼らがドイツの飛行船団に一大失血を強いたことを思えば、この時点で英国防空司令部が楽観的ムードに包まれていたのも無理からぬことでしょう。
実際、戦力の一部を大陸戦線へ抽出することまで検討されていたのです。遠からず、彼らはこの判断を撤回せざるを得なくなるのですが。

同じころ、78歳のツェッペリン伯はベルリンに滞在していました。彼の会社で開発中の最新鋭飛行船の有用性を、軍上層部に精力的に説いて回っていたのです。後に英軍が「ハイトクライマー」と呼ぶことになるその艦は、6,000メートルを超える飛行高度を誇り、敵の高射砲と戦闘機を無効化するものでした。
しかし、ベルリンの厳冬は、戦争による暖房用の石炭不足と相まって、高齢の伯爵の健康を確実に蝕んでいきます。かくして病に斃れたツェッペリン伯は、3月8日、遂に帰らぬ人となったのでした。齢五十を超えて黎明期の航空業界へと単身果敢に飛び込み、不屈の精神で大空を征服した巨人の最期でした。
その葬儀には、戦時下で諸事多難の折にも拘わらず、2万人もの参列者が詰めかけ、敬愛する英雄を見送ったと伝えられます。

 

≪ツェッペリン伯爵の葬儀≫

伯爵の遺志を継ぎ、飛行船による英国本土空襲を推し進めるシュトラッサーのもとには、17年を通じて16隻の新鋭高高度飛行船が送り込まれました。これらの艦は、基本的にR級の設計を流用しつつ、より高く飛ぶためにR級では6基積んでいたエンジンを1つ取り外し、爆弾搭載量も大幅に減らすなど、徹底的な軽量化が図られています。

 

初飛行 全長(m) 体積(㎥) エンジン スピード(㎞/h) 実用上昇限度 爆弾搭載量 建造数
M級 1914年5月 158.0 22,500 210馬力3基 83 3,000 0.5トン 12
P級 1915年4月 163.5 32,920 210馬力4基 92 3,500 2.0トン 22
Q級 1915年11月 178.5 35,800 240馬力4基 92 3,500 2.5トン 12
R級 1916年5月 198.2 55,220 240馬力6基 103 5,400 4.5トン 17
S級 1917年1月 198.2 55,220 240馬力5基 100 6,400 2.0トン 2

≪新鋭艦(S級)の諸元≫

また、残存していたR級も大改装が行われ、新鋭艦に準じる性能を付与されました。
それらは、英国防空隊の主力である3インチ高射砲(有効高度4,880メートル)と夜間戦闘機B.E.2(最高高度3,000メートル)では、到底太刀打ち出来ないものだったのです。

 

≪改装R級(写真上、L41)と新鋭艦(写真下、T級L44)≫

1917年における最初の英国空襲は、3月16日の夜に実行されました。新型飛行船(S級)一番艦であるL42にはシュトラッサーその人が乗艦、改装された4隻のR級を従えてロンドンを目指したのです。

艦名 艦級 艦長
L35 R改 ヘルベルト・エールリヒ
L39 R改 ロベルト・コッホ
L40 R改 エーリヒ・ゾマーフェルト
L41 R改 クノ・マンガー
L42 S マルティン・ディートリヒ

しかしながら、この爆撃行は全くの期待外れに終わりました。高高度で強風に直面した艦隊はバラバラになってしまい、L42はブリテン島に到達する前に撤退、その他の艦はロンドンの遥か手前の地点を盲爆するだけで引き返さざるを得なかったのです。L39に至っては、帰還中に高度を3,000メートル近辺まで落としたところをフランス軍の対空砲火に捕捉され、撃墜されてしまいます。艦長以下搭乗員全員が死亡しました。
この夜の英国側の損害は、死者・負傷者ゼロ、物質的損害も僅少と記録されています。

 

≪L39の搭乗員≫

5月23日、ドイツ海軍飛行船部隊は再び大規模なロンドン空爆を企てます。この日、基地を飛び立ったのはシュトラッサーを乗せたL44をはじめとする3隻の新型飛行船と、同数の改装R級、計6隻でした。

艦名 艦級 艦長
L40 R改 エーリヒ・ゾマーフェルト
L41 R改 クノ・マンガー
L42 S マルティン・ディートリヒ
L43 S ヘルマン・クラウシャー
L44 T フランツ・Stabbert
L45 R改 ワルデマル・Kolle

しかし、北海上空でまたも逆風に遭遇し、艦隊は四散。各艦は自艦の正確な位置を把握できないまま、雲海の下にあるブリテン島に投弾することを余儀なくされます。この夜の英国側の物質的損害はおよそ600ポンド(現代の金額で3400万円ほど)、人的被害は死者1名に過ぎません。
失望したドイツ皇帝は、「飛行船によるロンドン攻撃は時代遅れなのではないか?」との疑問を呈しますが、「空爆を中止した場合、英国本土に配置されている多数の兵員、対空砲、邀撃戦闘機が西部戦線へ配備されることになる」との海軍軍令部長の説得を受け、渋々「好条件の時に限って」攻撃を継続することを認めます。
このエピソードは、ドイツ空中艦隊に対する信頼が、もはや昔日のものになっていたことを示していると言えるでしょう。

2度の空襲は期待外れに終わっただけでなく、高高度を長時間に渡って飛行することの弊害をも顕わにしました。とりわけ、酸素不足による高山病は、意識障害を引き起こし、また氷点下を下回る気温は、凍傷を生じさせるなど、搭乗員の身体を容赦なく苛んだのです。

一方、英国の防空司令部は敵の新型飛行船に対する危機感を否応なく植え付けられていました。5月23日の空襲では、延べ76機という空前の数の邀撃機を出撃させたにも拘らず、彼我の飛行高度の懸隔のため、何の戦果も上げられなかったのです。

このような中、重爆撃機による初の本格的な英国本土空襲が敢行されます。5月25日のことでした。この日、ドイツ陸軍の飛行隊に属する21機のゴータ重爆撃機が英国南部の港湾都市フォークストンに来襲、11億円相当の物質的損害を与えたのです。死者は95名、負傷者は195名に上りました。
英国防空隊は延べ77機の戦闘機を発進させるも、撃墜されたゴータ機は僅か1機のみ。まさに、航空戦史上における一大画期です。

この攻撃は、ドイツ陸軍によって周到に準備されたものでした。前章で触れたように、陸軍は16年秋には飛行船による英国爆撃を断念しており、替わって重爆撃機の整備を推し進めていたのです。
戦力の中核となったのは、ゴータ社が開発した双発爆撃機。代表的なタイプであるゴータⅣ型は、時速130キロ、最高高度5,500メートルを誇り、400キロもの爆弾を搭載してロンドンを爆撃することが可能でした。

≪ゴータⅣ型≫

陸軍重爆撃機隊には、更なる切り札がありました。“ツェッペリン・シュターケン”R.Ⅵと呼ばれる世界初の4発爆撃機です。この機は、1トンの爆弾を搭載して英国本土を攻撃することが出来ました。大戦初期の主力艦、M級ツェッペリンが英国を空爆する際の爆弾搭載量が500㎏でしたから、R.Ⅳがけた外れの巨人機であったことが分かりますね。

≪“ツェッペリン・シュターケン”R.Ⅵ≫

R.Ⅵは、その名が示すように、ツェッペリン飛行船有限会社のシュターケン工場で生産されたものです。1916年の後半、英国上空で飛行船が相次いで失われたことを憂慮したツェッペリン伯爵は、近い将来、英国本土攻撃の手段が飛行船から飛行機に取って替わられることを予期し、野心的な大型爆撃機の開発を命じていました。R.Ⅵは、伯爵の意思を体現するものとして、この世に生を受けたのです。
実に、ツェッペリン伯爵こそは、その生涯の最期に至るまで、偉大な革新者であり続けたと言っても過言ではないでしょう。

余談ですが、伯爵は自社の飛行機部門で働いていた一人の若い技術者の才能に目を付け、リンダウ工場の所長に大抜擢しています。彼の名は、クラウディウス・ドルニエ。後のドルニエ社の創設者に外なりません。
1章では、カール・マイバッハがツェッペリン飛行船のエンジンを生産するためにマイバッハ社を興したエピソードを紹介しましたが、ツェッペリン伯爵がドイツの産業発展に残した足跡は非常に大きなものだったのです。

本題に戻りましょう。
対英航空戦を重爆撃機で戦わんとするドイツ陸軍と、新鋭の高高度飛行船に賭けるドイツ海軍。それらの脅威に対抗すべく、新型防空戦闘機の導入に邁進する英国防空部隊。
ブリテン島上空の戦闘は、今や英独両国の生存を賭けた戦いであると同時に、飛行船と飛行機いずれが大空の覇者となるかを決する戦いの様相を帯びていました。

6月16日、4隻の海軍飛行船がロンドンを爆撃すべく出撃します。このうち2隻はエンジントラブルのため基地へ引き返し、L42とL48の2隻が英国本土上空に侵入しました。
L42は、強風を受けてロンドン到達を断念、ドーバー海峡沿いの港町ラムスゲートに爆弾を投下、無事帰途に就きます。
一方、L48を待ち受ける運命は苛酷なものでした。

≪L48≫

高度5,500メートルを飛ぶ同艦の羅針盤は凍結し、エンジン2基が深刻な不調を引き起こしたのです。整備士は必死の努力でエンジンを修理しようと試みますが、重い酸欠に苦しめられ、失敗に終わります。
ここに至ってL48はロンドン攻撃を諦め、高度を4,000メートルに落としました。この日、この高度では、大陸に向かって強い風が吹いていました。エンジン故障のため、速力が時速50キロ(最高速度の半分程度)にまで低下していたL48は、追い風を捉えて母港へ帰投しようとしたのです。
その判断が、彼女の命取りとなりました。
夜の帳を破って現れた英軍戦闘機にたちまち捕捉され、為すすべなく撃墜されたのです。
僅か26日前に就役したばかりの最新鋭艦の最期でした。

≪撃墜されるL48≫

≪L48の残骸≫

この空爆による英国側の被害は、死者3名、負傷者16名、物質的損失2万8,000ポンド(現代の金額で約16億円)。
以後、海軍飛行船部隊がロンドンに対して大規模な空爆を企てることはありませんでした。

一方、陸軍の重爆隊は3日前の6月13日に初のロンドン攻撃を敢行しています。この日、ロンドンに襲来したのは18機のゴータ機。100発を超える爆弾が都心に降り注ぎ、死者162名、負傷者426名、物質的損失12万6,000ポンド(約72億円)。
続く7月7日の空襲では、22機のゴータ機によって81発がロンドン中心部に降り注ぎ、死者54名、負傷者190名、物質的損失20万5,000ポンド(約117億円)。
今や、都市攻撃の手段としての航空機の優位性は誰の目にも明らかでした。
かくして、陸軍は17年6月に自前の飛行船部隊を解体し、残存していた艦の内、2隻の新鋭艦を海軍へ譲渡、13隻を廃棄処分としたのです。

それでも、海軍飛行船部隊司令官のペーター・シュトラッサーは英国本土空爆を諦めません。海軍上層部へ宛てた意見具申で、彼は次のように述べています。
「飛行船による攻撃の真価は、直接的・物理的ダメージにあるのではない。…輸送の妨害、社会の幅広い階層に広がる恐怖、そして何より相当量の物資と軍事要員を(防空任務に)割かなければいけないこと。これらが、攻撃継続の際立った根拠である。」
具体的な飛行船の運用として、シュトラッサーは重爆撃機の航続距離圏外にある中部および北部の産業都市を攻撃することを考えていました。

しかし、更なる航空機増産を欲する陸軍は、7月末、アルミニウムの供給で競合する飛行船生産の大幅な縮小を海軍に要求します。1917年夏の時点でツェッペリンは毎月2隻が建造されていました。海軍は、遠洋での哨戒と、英国本土攻撃のために月1隻は必要であると主張しますが、8月17日の皇帝決裁により月0.5隻という数字を呑まされます。これは、計算上、英国攻撃を放棄してはじめて、損失をカバーできる数字でした。
戦場ばかりでなく、生産の面においても、飛行船は苦境に立たされたのです。

1914年 1915年 1916年 1917年 1918年
建造数 8 26 24 23 9
月当たり 2.2 2.0 1.9 0.8

≪ツェッペリン飛行船の建造数≫
*18年の月当たり建造数は停戦までの期間をもとに算出

8月21日、シュトラッサーは自らL46に搭乗し、8隻の艦隊(新鋭艦6隻、改装R級2隻)を率いて出撃しました。目指すは英国北部。
各艦は、高度6,000メートルを飛行します。この高さに在る限り、英国防空隊は手も足も出せません。一方、搭乗員は重い高山病に苦しめられました。初歩的な酸素吸入器が導入されてはいたものの、ガス中に微量のグリセリンが混入していたため、これを使用したものは耐え難い頭痛と吐き気に苛まれます。更に、氷点下20度という低気温のため、羅針盤は凍り付きました。
このような状況では、各艦は自分の位置を正確に把握することが出来ず、攻撃は盲爆の様相を呈します。加えて、高空から投下された爆弾は広範囲に拡散してしまうため、命中精度は著しく低下しました。
その結果、英国側の損害は負傷者1名、物質的損害2,300ポンド(現代の金額で約1.3億円)に留まったのです。

一月後の9月24日、シュトラッサーは再びL46に乗艦し、11隻の艦隊(新鋭艦9隻、改装R級2隻)を率いて出撃しました。今回の目標は英国中部です。
この攻撃はまたも不調に終わりました。
英国の蒙ったダメージは、負傷者3名、物質的損害2,200ポンド(約1.3億円)。

5日後の9月29日、空前の巨人機「ツェッペリン・シュターケン」が英国の空に初陣を飾ります。この日、4機のゴータ機を伴った3機のR.Ⅵがロンドンを夜襲したのです。
僅か7機の爆撃機による攻撃にもかかわらず、英国はかなりの打撃を蒙りました。
人的損失は死者40名、負傷者87名の多きに上り、物質的損害は2万3,000ポンド(約13億円)。

10月19日、ドイツ海軍飛行船部隊は英国に対する最後の大規模な攻撃を敢行します。ドイツ国内各地の基地から飛び立った飛行船は、合計11隻。任務は、英国中部の産業地帯の破壊でした。
この日は天候も良く、高高度飛行船が遂にその真価を発揮する時が来たかと思われました。
11隻のツェッペリンは全艦が無事に北海を渡ると、会同地点であるフラムバラ・ヘッド(ブリテン島が北海に面する海岸線のほぼ中央に位置する)へと向かいつつ高度を上げていきます。
ところが。高度3,600メートルを超えたあたりで、各艦は強い北の風に直面したのです。攻撃目標であるシェフィールド、マンチェスター、リバプールは、いずれも会同地点から真西に位置しているため、これは非常な悪条件です。無電で報告を受けたシュトラッサーは、しかし、攻撃中止の命令を下しませんでした。
船腹に強い風を受けながら航行を続けるツェッペリン艦を、またしても高空特有の悪条件が襲います。海抜5,000メートル以上にまで上昇した各艦のブリッジでは、航海要員が酸欠に苦しみ航法上のミスが頻発、自艦の位置を失するものが続出したのです。

≪高高度飛行船のブリッジ≫

また、冷気によってエンジンの冷却システムが故障、推進力が大幅に損なわれた艦は為すすべなく南の方角へ流されて行きます。
そのなかには、半年前に就役したばかりのL45の姿がありました。コール艦長はシェフィールドを目指して必死の操艦を続けていましたが、強風の前には無力なあがきに過ぎません。現在位置も分からず流されていくL45。午後11時30分。シュッツ副長が興奮した面持ちで叫びます。
「ロンドン!前方にロンドン!」
艦橋に詰めていた乗員の瞳には、無数の光の束がはっきりと映り込んでいました。
こんなにも南へ流されていたのか、コール艦長は驚きながらも爆弾投下の命を下します。

同艦の乗員はロンドン上空での出来事について、次のように述べています。
「照明が、テムズをぼんやりと照らし出しているのが見えた。2つの大きな鉄道駅が見えたように思ったが、疾風に乗って駆ける艦からはっきりと見分けることはできなかった。我々は半ば凍死しかかっていて、同時にこの上なく興奮していた。すべては一瞬の出来事だった。最後の爆弾が投下されると、再び我々は闇に飲み込まれ、押し流されていた」

L45の乗員は知る由もありませんでしたが、突然の襲撃により、ロンドン市民33名が死亡、50名が負傷し、物質的損害額は5万ポンド(現在の金額で約29億円)にも達していたのです。
一方、L45の命運も尽きようとしていました。5機のエンジンの内3機が故障し、風に流された同艦は、フランス中央部へ入り込んでいたのです。長時間の迷走で、燃料も残されてはいませんでした。
コール艦長は敵地への不時着を命じ、それを済ませると愛する艦に火を放ちました。かくして、L45の搭乗員は、フランス軍によって捕らわれの身となったのです。

この夜の作戦で、曲がりなりにも「戦果」を挙げたのは、L45一隻に留まりました。他の艦も悉く目標から遠く離れた南方へと流され、偶然行き当たった田舎町を爆撃するか、無人の山野や牧草地に爆弾を投棄するかして撤退するしかなかったのです。

限られた「戦果」に対して、ドイツ空中艦隊が支払った代償は余りにも大きなものでした。L44は西部戦線上空で不用意に高度を落としたところをフランス軍の対空砲火に捕捉されて撃墜。
L49は高空の低気温と長時間の酷使が原因となってラジエターが故障してエンジン3基が停止、フランス中央部へ押し流され、不時着・投降。
L50もL49と同様にエンジンが故障しフランス中央部へ漂着。乗員の大半は捕虜になるものの、船体は風に流されて再浮上、数名の乗員を乗せたまま消息を絶ちました。
L55はドイツまで帰還するも、不時着して船体を大破、廃却処分となっています。
ここに、出撃した11隻の内、実に5隻が喪われたのでありました。ドイツ空中艦隊は事実上、組織的戦闘能力を喪失したのです。

「しかしながら」ある英国人研究者は記します。強風の影響がなければ、ツェッペリン艦隊は大変な成功を収めたであろうと。何となれば、英国の防空隊は高空を飛ぶ飛行船に有効な反撃が出来なかったからです。
ですが、歴史にIFはありません。この攻撃が1917年の空襲の最後となりました。
後は、1918年に行われた4回の散発的な爆撃を残すのみ。

一方、ドイツ陸軍重爆撃機隊はブリテン上空で猛威を振るっていました。12月5日には、ロンドン上空に16機のゴータと2機のツェッペリン・シュターケンが侵入、8名が死亡、28名が負傷し、物質的な損害は訳10万ポンド(約60億円)。
続く12月18日のロンドン空襲では、13機のゴータと1機のツェッペリン・シュターケンの攻撃により、14名が死亡、83名が負傷し、物質的な損害は約24万ポンド(約137億円)。
急速に発展した重爆撃機が飛行船を打ち破った瞬間でした。

1915年 1916年 1917年
飛行船 80万£ 60万£ 9万£
重爆撃機 92万£
合計 80万£ 60万£ 101万£
現代金額換算 459億円 343億円 572億円

≪戦略爆撃による英国の被害額≫

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