ツェッペリン飛行船団による英国本土戦略爆撃 ‐第一次世界大戦下の『バトル・オブ・ブリテン』-第5章:敗北、そして 1919-

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1918年11月、中欧同盟諸国の盟主であったドイツの降伏によって、第一次世界大戦はその幕を閉じました。凄まじい戦禍に戦慄した連合国は、旧敵ドイツの復活を恐れ、恒久的な無力化を決意。苛烈なヴェルサイユ条約を突きつけます。
広く知られるように、この条約によってドイツは1,320億マルクという天文学的な額の賠償金を課せられたのみならず、海外植民地の全てと本国領土の一割を喪いました。総兵力は10万人以下に制限され、飛行機、戦車、毒ガス、弩級戦艦などの近代兵器はその所持すら禁じられたのです。

攻撃兵器としての役割を終えていた硬式飛行船も、例外ではありません。1919年の時点で残存していた16隻のツェッペリン艦(うち3隻は終戦後に完成し民間船として運用されていた)は、悉く連合国に引き渡されることとなりました。これに憤った飛行船部隊の将兵は、最後の抵抗として7隻を自らの手で破壊します。
かくて残った9隻の内、それぞれ2隻ずつが英国、フランス、イタリアへ、1隻ずつが日本とベルギーへ譲渡され、引き取り手のなかった1隻は解体されました。
日本が手に入れたL37は分解されて海路運ばれましたが、再建されないまま廃棄されることになるでしょう。
なお、米国も1隻を受け取る予定でしたが、該当の艦がドイツ兵に破壊されたため、後に代替艦(LZ126)が新造されます。

≪日本へ譲渡されたL37≫

地上設備もその多くが解体される運命にありました。連合国はドイツ陸海軍の飛行船格納庫を全て撤去するよう命じ、生産設備も殆どが処分されます。これらの施設の一部は連合国に持ち去られますが、日本の霞ケ浦に移築されたユーターボーク(ベルリンの南方60キロメートルに位置する地方都市)の格納庫を除いて廃棄されました。この格納庫は、1929年に豪華飛行客船LZ127「グラーフ・ツェッペリン」が来日した際に活用されています。
ツェッペリン伯の事業を引き継いだフーゴー・エッケナーにとっては幸いなことに、フリードリッヒスハーフェンの本社工場にある3つのドックを含むいくつかの施設は破壊を免れました。これらは、後にドイツの飛行船産業再建の欠くべからざる足掛かりとなるのです。

≪霞ケ浦の飛行船格納庫≫

エッケナーは戦前の経験に鑑み、民間商業航空に飛行船の活路を見出していました。速度でこそ飛行機に敵わない飛行船ですが、積載能力と航続距離では依然として圧倒的に有利だったからです。体積10万㎥クラスの超巨大飛行船を建造し、大西洋航路に就役させることが、彼の夢でした。
DELAG社(ツェッペリン伯が設立した飛行船による航空運輸会社、詳細は1章参照)は終戦直後に完成したL72を引き取り、さらに社運を賭けてLZ120「ボデンゼー」とLZ121「ノルドシュテルン」を建造、客船として運用を開始します。しかし、まもなく彼女たちは揃って賠償物資として没収され、前述の通り戦勝国に引き渡されてしまうのです。
不運はこれに尽きません。1919年6月末に成立したヴェルサイユ条約によって、ドイツは体積30,000㎥を超える大型飛行船の建造を禁じられたのです。大戦初期、はじめてのロンドン空襲に投入されたP級の体積が約33,000㎥、戦争末期に就役した高高度飛行船の「完成形」X級が約62,000㎥ですから、これがいかに厳しい条件であるか分かろうというものです。
事実上存在を否定されたツェッペリン飛行船有限会社(ツェッペリン伯が設立した飛行船建造会社、1章参照)は、細々と鍋や釜を作って糊口をしのぐ有り様。さしものドイツ飛行船産業も、遂にこれまでかと思われました。

≪LZ120「ボデンゼー」≫

そんな時、一つの国が救いの手を差し伸べます。かねてよりドイツの卓越した飛行船技術に大きな関心を寄せていたアメリカ合衆国です。時の大統領ハーディングは、自国への賠償金300万マルクの替わりとして、大型飛行船1隻を建造・納入するよう求めたのでした。
この提案は、したたかな計算に裏打ちされたものでありますが、同時に、戦争の惨禍と戦後賠償に呻吟するドイツ経済の負担を、少しでも和らげようとする「善意」にも支えられていたのです。

突如降ってわいた「特需」に、エッケナー以下飛行船会社の面々は奮起しました。その船、LZ126‐後に「ロサンゼルス」と命名される‐は、70,000㎥という空前の体積を誇り、航続距離は8,400㎞にも及びました。待ちに待った大型船の建造です。同時にそれは、ヴェルサイユ条約の下で課せられた厳しい制約に、突破口が穿たれたことをも意味していました。
とは言え、喜んでばかりもいられません。米国は、建造した船を「自国領土で」引き渡すことを要求していました。それはつまり、「大西洋を踏破して来い」と命じられたも同じこと。英国上空への往復とはわけが違います。「それが出来る船でなければ、受け取る価値は無い」という、米国の明確な意思表示です。
ツェッペリン飛行船有限会社とドイツの命運を賭し、LZ126は1922年に着工、1924年8月に完成します。そして同年10月12日、エッケナーを乗せた同船はエルンスト・レーマン船長指揮のもとフリードリヒスハーフェンを出港、3日間の飛行の後、無事米国に到着。固唾をのんで見守っていた米独両国民を狂喜させました。レーマンとエッケナーはクーリッジ大統領や米国民から大歓迎を受け、数年前まで敵同士だった米独両国の関係を大きく改善させた感さえありました。帰国した彼らを、今度はドイツ人たちが暖かく迎えます。なにしろ米国への賠償金がチャラになったのですから、彼らの感激は大変なものだったでしょう。(米国で建造されたLZ126の異母姉妹たちの物語は当ブログの管理人様が素晴らしい記事を書いておられます。)

≪「ロサンゼルス」≫

これを好機と捉えたエッケナーは、自ら各地で講演をして回るなど、国民に向けて飛行船の「夢」をアピールしました。それこそは、どん底の生活にある民衆の希望の光となり、巨額の義捐金に結実します。その額、およそ300万マルク。人々は、なけなしのお金をツェッペリン伯の後継者に託したのです。まさに、「エヒターディンゲンの奇跡」の再来でした。エッケナーは、これを原資に巨大飛行船を建造することを決意します。1925年のロカルノ条約で、飛行船の大きさについての規制が撤廃されていたことも幸いしました。(英仏はドイツから譲渡された飛行船や、それらを模倣した船を建造して運用するも、深刻な事故が相次ぎ、その将来性を見限っていたのです。)
1926年に着工された新造船LZ127は、全長235メートル、体積10万5千㎥。最高速度は時速118キロ、航続距離は10,000キロに達します。ツェッペリン伯爵の生誕90周年に当たる1928年7月8日、完成を祝う盛大な式典が催され、伯爵の娘ヘラによって「グラーフ・ツェッペリン(ツェッペリン伯爵)」と命名されました。

≪LZ127「グラーフ・ツェッペリン」≫

同船の乗客は20名、乗員は40名強。乗客数が少ないのは、大陸間を飛行する豪華客船として最大限の居住性を確保するために他なりません。乗客用のキャビンは10室あり、その全てに船窓が設けられています。室内には折り畳み式のベッドと机、クローゼットがありました。このほかに、贅沢な食事を味わうことが出来る食堂や、シャワー室も備えられています。船内の装飾や調度は上品に誂えられており、まさに高級ホテルに滞在しているような快適さで空の旅を愉しむことが出来るのでした。
「グラーフ・ツェッペリン」はレーマン船長の指揮の下、米国やブラジル、中東、欧州各国など様々な地域へ赴きます。そして1929年には世界一周を敢行、その途上で日本の霞ケ浦にも立ち寄るなど、ひと時の飛行客船黄金時代の魁となりました。

≪「グラーフ・ツェッペリン」の船内図≫

≪キャビン(客室)≫

≪食堂≫

≪東京上空のLZ127「グラーフ・ツェッペリン」≫

その頃、人類は再び暗黒の時代を迎えようとしていました。「グラーフ・ツェッペリン」が世界一周を行った1929年には、世界恐慌が発生。脆弱なドイツ経済はたちまち崩壊し、国内に失業者があふれる事態となります。このような中でナチスの急速な台頭を見たのは、不幸な必然であったかもしれません。
さて、ここで興味深いのは民衆から人気を集めていたエッケナーが、一時期はナチズムに対する民主主義の擁護者に擬せられていたという事実でしょう。

「確かにヒットラーが台頭するまでエッケナーはドイツ人を代表する指導者の顔だった。大衆に浸透したその名前をフルに利用すべくヒットラーの対抗馬としてワイマール政府はエッケナーを立てたわけである。一九三二年の大統領選挙の際、社会民主党の幹部からエッケナーにヒットラー候補と戦い選挙に出馬する意思がないかという打診があった。カトリック中央党もエッケナー支持の線でいこうとしていた。新聞は『ヒンデンブルグの後継者はヒットラーかエッケナーか』とまで書き立てた。」
(関根伸一郎「飛行船の時代」丸善ライブラリー 1993年)

結局この選挙ではヒンデンブルグが再出馬することとなったため、エッケナーは出馬を取りやめました。そして、ヒンデンブルグがヒトラーを下して再選されるのですが、これ以降エッケナーとナチスの関係は悪化していくのです。

1933年、ヒトラーは遂に政権を掌握しました。翌34年、DELAG社は新設の国策会社「ドイツ・ツェッペリン航空会社(DZR)」に吸収合併されてしまいます。DZR社はゲーリングが大臣を務める航空省の管轄であり、ここにドイツの飛行船産業はナチスに支配下に置かれたのです。エッケナーはゲシュタポに付け狙われており、逮捕されれば収容所送りは免れない状況でしたが、国際的な知名度の高さ故の政治判断によって辛うじて自由の身を保っている有り様。
皮肉なことに、ツェッペリン伯が遺したDELAG社がナチスの軍門に下ったことで、難航していた2隻目の飛行客船の建造が実現することとなります。1931年に起工した新造船は、全長245メートル、体積20万㎥(LZ127「グラーフ・ツェッペリン」の2倍)という途轍もない大きさを誇り、最高速力は時速135キロ、航続距離は1万8,000キロという優秀な性能を有するものとなる筈でした。しかし、折からの大恐慌で資金調達が進まず、建造は殆ど頓挫していたのです。ナチスはこの船‐LZ129‐に巨額の国家資金をつぎ込み、計画はたちまち息を吹き返します。LZ129は1936年に完成、第一次世界大戦の英雄であり、戦間期ドイツで長く大統領を務め、2年前に死去した人物にちなんで「ヒンデンブルク」と命名されます。その垂直尾翼には、エッケナーが忌み嫌う鉤十字が大きく描かれていました。

≪ニューヨーク上空のLZ129「ヒンデンブルク」≫

「ヒンデンブルク」の乗員・乗客はそれぞれ50名ずつで、客室は25室。船内は「グラーフ・ツェッペリン」に比して一層豪華に造られており、乗客の居住区は2階建てとなっていました。上層のAデッキには客室の他、ラウンジや食堂、読書室があり、下層のBデッキにはバーと喫煙所、シャワー室、医務室が備えられています。その設備と内装の見事さは、最高級の大西洋航路客船に勝るとも劣らないものでした。

≪食堂≫

≪ラウンジ≫

≪ブリッジ≫

新鋭飛行船を得て2隻体制となったDZR社の旅客事業は俄かに活況を呈し、1936年だけで63回のフライトを行い、3,568人の乗客を乗せて延べ60万キロを飛行します。
また、「ヒンデンブルク」は同年に開催されたベルリンオリンピックの開会式に登場、その威容で世界中の人々を感嘆させたのでした。

≪オリンピックスタジアム上空の「ヒンデンブルグ」≫

幕切れは、実にあっけなく訪れました。1937年5月6日、ニューヨーク郊外のレイクハースト空港に到着した「ヒンデンブルグ」が、突如爆発・炎上したのです。同船の巨体は僅か40秒で灰燼に帰し、乗員乗客97名中35名が死亡するという大惨事となりました。第一次世界大戦のエース艦長でエッケナーの片腕であったエルンスト・レーマンは最後まで船に残り、命を落としています。

≪爆発する「ヒンデンブルク」≫

この事故はタイタニック号の悲劇と双璧をなす交通災害として喧伝され、膨大な量の水素を背負って飛ぶ飛行船の信頼性は失墜しました。実のところ、エッケナーは米国からヘリウムを輸入する交渉を進めていましたが、ナチスを警戒した米国はついにこれを認めなかったのです。また、近年の研究では、外皮の塗料に問題があったという説も出されています。
ともあれ、ヒトラーやナチスの幹部たちは、もともと飛行船を国威発揚の手段以上のものとは見做していなかったため、この事故はその放棄を決定する動機としては十分すぎるものでした。
LZ127「グラーフ・ツェッペリン」は引退を命じられ、第二次世界大戦勃発後の1940年、飛行機生産用の資材へ転用する為、解体処分されています。通算590回のフライトをこなし、大西洋を渡る事144回、1万3,000名以上の乗客を運んだ貴婦人の哀れな最期でした。
「ヒンデンブルグ」が喪われた時点で、起工を待つばかりだったLZ131は建造中止となり、ほぼ完成していたLZ130「グラーフ・ツェッペリン二世」は幾度かの試験飛行などに用いられた後、LZ127と共に廃棄されました。LZ130とLZ131は、ともに「ヒンデンブルク」と同規模の巨大客船であり、もし彼女らが揃って運用されていれば、近代航空史は今日の我々が知るものとは全く違うものになっていたかもしれません。

さて、殆ど空を飛ぶことのなかったLZ130「グラーフ・ツェッペリン二世」ですが、その生涯でたった一度だけ、非常に重要な任務に就いています。
第二次世界大戦開戦前夜、ドイツ空軍に接収され電子機器を備えた情報収集艦に改造された同艦は、英国が建設を進めている防空レーダー網の実力を調査することを命じられたのです。

≪LZ130「グラーフ・ツェッペリン二世」≫

「1939年8月2日、LZ130はイギリスに向けて飛び立った。イギリスは接近する巨大な飛行体をレーダーで捉え、スピットファイアー戦闘機2機を発進させた。しかし、公海上であるためLZ130に近づいたものの攻撃はできなかった。イギリス領空すれすれまで接近したLZ130はやがて北に進路をとり、オークニー諸島のスカパフロー海軍基地(イギリス海軍最大の基地)を偵察して8月4日に帰還した。」
(牧野光雄「飛行船の歴史と技術」成山堂書店 2010年)

しかしながら、ドイツ側は英国が使用している周波数を正確に把握していなかったため、レーダーの性能やレーダー基地の位置を測定することは出来ずじまいでした。もしこの飛行が功を奏していれば、一年後の「バトル・オブ・ブリテン」(英国本土上空での英独航空決戦)はどんなものになったでしょうか?これもまた、飛行船にまつわる「イフ」の一つと言えましょう。

≪LZ130のスパイ飛行≫

LZ127とLZ130の廃棄処分を命じたナチスですが、1938年に進水したドイツ海軍初の航空母艦は「グラーフ・ツェッペリン」と命名され、計画に終わった姉妹艦は「ペーター・シュトラッサー」となる予定であったと言います。優雅な空の客船に引導を渡した彼らは、一方で、前大戦における蒼空の死闘に魅せられてもいたのでしょう。それらは謂わば、ツェッペリン伯爵と彼の飛行船が生み出した夢と業。後者に惹き付けられた第三帝国は、ほんの一時欧州を制覇しますが、間もなく連合国の圧倒的な戦力を前に破滅への道を辿ります。
僅かに残っていた飛行船のための地上施設は、1944年、米英空軍の猛烈な空爆で悉く破壊されました。かくして、時代に翻弄され数奇な運命を辿ったツェッペリンの硬式飛行船は、郷愁を帯びたかすかな記憶だけを人々の脳裏に残し、地上から跡形もなく消え去ったのです。

≪未完に終わった空母「グラーフ・ツェッペリン」≫

 

Saw the heavens fill with commerce, argosies of magic sails,
Pilots of the purple twilight, dropping down with costly bales;

Heard the heavens fill with shouting, and there rain’d a ghastly dew
From the nations’ airy navies grappling in the central blue.

Far along the world-wide whisper of the south-wind rushing warm,
With the standards of the peoples plunging thro' the thunder-storm;

Till the war-drum throbb'd no longer, and the battle-flags were furl'd
In the Parliament of man, the Federation of the world.

There the common sense of most shall hold a fretful realm in awe,
And the kindly earth shall slumber, lapt in universal law.

-from "Locksley Hall", written by Alfred, Lord Tennyson in 1835-

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